22.遭遇戦③
「かはっ……!」
身体を襲う浮遊感は、思ったよりも長くは続かなかった。
代わりに全身を打つ鈍い衝撃が走り、肺の中の空気が強制的に吐き出される。
――だが、それにしては、軽い。
崖から落ち、地面に叩きつけられたにしては、あまりにも衝撃が弱かった。
違和感を覚えながら、呻くように息を整える。
身体を起こした瞬間、その理由はすぐに分かった。
僕の下には、迅脚鳥が横たわっていた。
力なく脚を投げ出し、胸元は大きく潰れている。――彼の身体が、そのままクッションになったのだ。
急いで様子を確かめる。
だが、呼吸はなく、胸も動かない。
既に息絶えているのは、誰の目にも明白だった。
「……くっ」
……悲しみを胸の奥に押し込み、周囲を見渡す。
危険が迫っているかもしれない。今は、少しでも状況を把握する必要があった。
まず、崖を確認する。
高さはおよそ三十メートル。落下の衝撃でさらに崩れたのか、岩肌は不安定で、今にも上から岩が落ちてきそうだ。この高さでは、登り返すのは現実的ではない。
次に、足元へ視線を落とす。
周囲には崩れた岩が無秩序に転がっていた。位置が少しでも違っていれば、押し潰されていた可能性もある。
この一帯は比較的開けているが、少し先には森が広がっている。
崖の上へ戻るには、森を回り込む形になるだろう。
迅脚鳥を失った状態で森を移動するのは危険だ。
だが、このままここに留まるのも、同じくらい危険だろう。
急いで移動しようとした、その時――岩陰から、わずかに瘴気が漏れ出ているのが目に入った。
「っ!!」
反射的に岩から距離を取り、身構える。
しかし、気配もなければ、動きも感じられない。
慎重に回り込み、様子を確認する。
だが、そこに骨刃人の姿はなかった。
おそらく、先程エルナを襲った個体のものだろう。
崖からの落下で致命傷を負い、魔力体が霧散した――その残滓が、今もわずかに漂っているのだ。
敵がいないことに、思わず息をつきかけた――その瞬間、違和感が走る。
――なら、ここまで誘導してきた受肉体は、どこへ消えた?
「ガアアアアアアア!!!!」
「ぐっ……ぉお!」
次の瞬間、近くの岩陰が内側から吹き飛ばされ、弾け飛んだ。
砕けた石片が周囲に散る。
骨刃人が自身に覆いかぶさっていた岩を力任せに押し退け、咆哮とともに飛び出してきたのだ。
視界に捉えた時には、既に距離はほとんど残っていない。
反射的に身体を投げ出す。
地面を転がりながら、間一髪でその突進を躱した。
身をひるがえし、弓を構え――ようとして、異変に気づく。
――弓が、真ん中から折れていた。
認識した瞬間、迷いはなかった。
僕は折れた弓を投げ捨て、腰に差していた大振りのナイフを引き抜く。
このナイフは、森で回収した鋼牙猪の死骸から作ったものだ。
本来は獲物の解体用だが、刃は厚く、頑丈で、切れ味も申し分ない。緊急時の武器としては十分に使える。
問題は――
ただでさえ身体能力が低く、近接戦の適性がない僕が、間合いの短いナイフ一本で受肉体と相対しなければならない、という点だった。
「……ふーっ」
息を整え、目の前の骨刃人を注意深く観察する。
落下と落石の影響だろう。全身を覆っていた甲殻はあちこちで剥がれ落ち、ひび割れた骨片が不自然に突き出している。その隙間から覗く皮膚は裂け、黒ずんだ血が粘つくように流れ落ちていた。
特に左腕の損傷は酷い。
肩口から肘にかけて大きく裂け、骨が半ば露出している。関節は本来の角度を保てず、ぶら下がるように揺れていた。今にも千切れ落ちそうだというのに、それでも腕としての形だけは保っている。
見て分かるほど、満身創痍。
仮に相手が魔物であれば、その激痛だけで既に行動不能になっているはずだ。
だが、油断はしない。
不死族が恐れられる理由の一つが、どんな状態にあっても、生者を攻撃することに一切の躊躇がない点だ。
この骨刃人は、まだ僕を殺せる。
だからこそ、油断など――できるはずがない。
「ガルルッ」
骨刃人が、ゆらりと身体を揺らした。
その一挙手一投足を見逃さないよう、意識を極限まで研ぎ澄ませる。
おそらく、最初の一撃だ。
最初の一撃で、この戦いにおける僕の勝敗が決定する。
そこで狙い通りの結果を引き出せなければ、たとえその一撃を生き延びても、続く二撃目、三撃目の攻撃で僕は殺される。
不死族には、心視石が効かない。
魔物であれば、動きそのものを読めなくとも、敵意や殺意の揺らぎから、次の攻撃のタイミングを掴むことができる。
だが、自我も感情も極めて薄い不死族には、それが通用しないのだ。
――集中しろ。
相手の姿勢から、次の動作を読み取れ。
ほんの僅かな動きも、決して見逃すな。
「っ!!」
「ガアア!!」
骨刃人の腕が、ほんの僅かに持ち上がった瞬間――僕は、前へと飛び込んだ。
躱すだけでは、駄目だ。
勝つために動かなければ、生き残れない。
前に出ながら、身体を低くする。
骨刃人がこちらを切り裂こうと伸ばした腕を潜り抜け、踏み込んだ先――目の前に現れた脚へ、ナイフを突き立てた。
「ガアアア!!」
「はあっ!」
落石により、既に血を流していた箇所へ刃が食い込む。
さらに、相手の突進の勢いを利用するように、体重を乗せて深く押し込んだ。
「ガァア!!」
骨刃人が、勢いよく地面へと倒れ込む。
巻き込まれないよう、咄嗟に距離を取ろうとして――背筋に悪寒が走った。
「グガアア!!」
「う……ぉおお!」
立ち上がろうとした身体を、反射的に押し沈める。
次の瞬間、先程まで僕の頭があった空間を、骨で形成された長い尻尾が薙ぎ払った。
「ガアア!!」
「……っ!!」
間髪入れず、鋭い爪が振り下ろされる。
上から叩きつけられる一撃を、身を転がして辛うじて躱した。
岩場の上を何度も転がったせいで、肌が擦れ、全身に細かな傷が増えていく。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
骨刃人から繰り出される攻撃は、どれも大振りで、攻撃の直後には必ず体勢が崩れる。
それは片脚を動かせなくなり、踏ん張りが利かなくなったせいだろう。
その隙を突いて、なんとか致命打を躱せてはいる。
だが、一撃でもまともに食らえば――その瞬間に、全てが終わる。
「はぁ……はぁ……」
次々と繰り出される攻撃を躱すたびに、確実に消耗していく。
息が荒れ、脚に力が入らなくなってきた。
「ガァア!」
――なんとか隙を作らないとアレを取りに行けないな。
骨刃人と睨み合いながら、じりじりと間合いを調整する。
足運びは慎重に、だが後退ではない。狙いを悟らせないよう、少しずつ場所を移動していく。
目当ての岩の前で足を止めた瞬間――骨刃人が、飛びかかってきた。
その動きに合わせ、手にしていたナイフを全力で投げつける。
身体を捻り、腕だけでなく全身の力を投擲へと変える。
結果を見届けることなく、即座に身を投げ出す。
直後、背後で骨刃人と大岩が激突する、重く鈍い音が響く――どうやら上手くナイフは相手の顔面に当てれたようだ。
そのまま振り返らずに、落ちてきた崖へ向かって全力で走り出した。
「ガアアア!!!」
背後から迫る咆哮を背中で感じながら、意識だけを前方へ切り替える。
僕の視線の先――崖下の岩場に落ちているのは、一張の弓だった。
崖下から頂上まで、およそ三十メートル。
登るとなれば手も足も出ない高さだが、単純な距離として見れば、決して遠くはない。
つまり――念話自体は何の支障もなく繋げられるのだ。
落下直後、そして骨刃人に襲われた段階で、既にエルナとは連絡を取っていた。
その際、彼女に伝えた指示は一つだけだ。
――弓を、崖下に落としてくれ。
僕の弓が折れてしまった今、それだけが唯一の勝機だった。
「ガアアア!!!」
「…っおお!!」
背後から、すぐそこまで迫ってきているのを肌で感じながら、僕は落ちている弓へと飛びついた。
次の瞬間、骨刃人の爪が背中を掠め、焼けつくような痛みが走る。
それでも、必死に伸ばした手が弓を掴み取った。
そのまま地面を転がり、体勢も整わないまま矢を引き絞る。
視界いっぱいに迫る影――真上から覆いかぶさる骨刃人に向けて、反射的に一射を放った。
「ガァア!!」
放たれた矢は、骨刃人の鎖骨付近に突き立つ。
ひび割れていた甲殻を砕き、鈍い音を立てながら肉体を貫いた。
衝撃に弾かれるようにして骨刃人の巨体が一瞬宙に浮かび、そのまま勢いを殺せぬまま、僕の頭上を掠めて通り過ぎていった。
「ふぅ…」
疲労と緊張で乱れきった呼吸を、意識的に整えながら身を起こす。
これでようやく――生き残るための最低条件が揃った。
迅脚鳥を失った時点で、逃走という選択肢は切り捨てていた。
囮をローテーションで回すしかなかったように、たとえ片脚を負傷させていたとしても、持久力の差でいずれ追いつかれていただろう。
――僕が生き延びるためには、戦って、勝つしかないのだ。
こちらを睨みつける骨刃人に対し、僕は静かに弓を構えた。




