10.魔物との遭遇
奇妙な念話を受けてから、もう数十分が経っていた。
結局、正体は分からずじまいだ。一旦忘れて、狩りを再開することにする。
迅脚鳥の背に揺られ、森の中をしばらく進んでいると――
「――お、見つけた見つけた」
「……ん」
目当てのものが地面に転がっていた。
人の頭ほどもある大きな果実――迷香薬の原料となる“迷香果”だ。
この果実は大森林の表層に数多く生える植物で、木になっている間は独特の甘い香りを放つ。
迷香果の匂いを嗅いだ者は、意識が散漫となり、方向感覚を見失う。幻覚を見せるわけでも、睡眠を誘発するわけでもなく、ただ集中力を削ぐだけの効果であるため、気づかずに迷ってしまうことが多い。
また、毒物と違い体内に毒素が溜まるわけでもなく、あくまで匂いによる作用であるため、解毒薬の類は存在しない。
大森林の表層で迷香果が大繁殖しているのは、エルフ族が意図的に分布を広げたためだ。
エルフ族は全員が生まれながらにして森の達人であり、無意識でも正しい方角を感じ取れるため、迷香果の効果を無効化できる。
この特性を利用し、外敵に対する備えとして森の表層に迷香果を繁殖させ、天然の要塞を作り上げたのだ。大森林が他種族から“迷いの森”と呼ばれている所以である。
木になっている間の迷香果は採取が難しいが、完全に熟すと小動物に種を運ばせるため、香り止めて地面に落ちる。
迷香薬は、この果実を他の薬草と調合し、何倍にも薄めて使用する。それにより、嗅覚の鋭い魔物の接近を防ぐことができるのだ。
「よし、これだけあれば、しばらく迷香薬に困ることはないね」
「……ん」
「それじゃあ、そろそろ帰――っ!?」
採取を切り上げようとした瞬間、心視石に強い反応を感知した。
≪ヨル爺!後方三十mに敵意を感知した!≫
≪ああ、魔物だな。こちらでも捕らえた。急いでここを離れるぞ≫
≪了解!≫
短い念話のやり取りを終えると、迅脚鳥を駆ってその場を離れる。
だが、獲物が逃げたことに気づいた魔物が、すぐさま後を追ってきた。迅脚鳥を走らせながら後方を振り返ると、すごい迫力でこちらに迫る影が視界に飛び込む。
≪鋼牙猪だ!! 一体だけど、かなりでかい!≫
鋼牙猪は大森林の表層に生息する下級の魔物である。
分厚い毛皮は刃を弾き、その下の脂肪が衝撃を吸収することで高い耐久性を誇る。直線での突破速度も驚異的で、その膂力は並の戦士では受け止められない。
そして何より――口から突き出た巨大な牙。その名の通り鋼のような牙は、獲物の肉も金属製の鎧も等しく抉り裂く。
≪まずいな…、僅かだが向こうの方が速い。このままでは追いつかれる。相手の足を止めるぞ≫
≪了解。なら僕が隙を作るから、ヨル爺は追い打ちをお願い!≫
≪分かった≫
ヨル爺の返事を聞くと、自身に注意を引き付けるために僅かに速度を落とす。
心視石で鋼牙猪の意識がこちらに向いたことを確認すると、ヨル爺は道を外して距離を取った。
そのまま鋼牙猪を牽きながら周囲を探すと、遠くにひと際大きな大木を発見した。進路をそちらに向けつつ、弓矢の準備をする。
大木に近づくとさらに速度を落とし、鋼牙猪をギリギリまで引き付ける。そして、タイミングを見極め――一気に手綱を引いた。
「フゴッ!?」
「シッ!」
目の前で直角に曲がった獲物に、鋼牙猪は釣られて顔を向ける。その刹那、放たれた矢が寸分違わず眉間に突き刺さった。下級の魔物に弓矢は通じないため、当然すぐに弾かれるが、急激な状況の変化と眉間に受けた衝撃で、鋼牙猪の思考は一瞬停止した。
そして――
「――――っ!!?」
辺り一面に響く轟音とともに、鋼牙猪が頭から大木に突っ込む。衝撃で幹が大きく抉れ、メキメキッと音を立てて大木は薙ぎ倒された。
「ふっ!」
「ッ!?――ピギャアアアアア!!!」
大木の前で動きが止まった鋼牙猪へ、回り込んでいたヨル爺が急接近し、手に持っていた匂い玉と煙玉を投げつける。
手のひらほどの匂い玉と煙玉は、木の実の殻を加工して作られている。
匂い玉には、辛味成分や刺激の強い香草が粉末状に詰められており、ぶつけると相手の嗅覚を麻痺させるだけでなく、催涙作用で視覚にもダメージを与える。
煙幕を出す煙玉と合わせて使用することで、魔物相手にも大きな効果を発揮するのだ。
≪今のうちに離れるぞ≫
≪……うん、わかった≫
疲労している迅脚鳥を労いながら、ヨル爺に応じる。
先ほどの急激な方向転換は、彼らにとっても大きな負担だ。通常であれば、全力疾走に近い速度で駆けた状態から直角に曲がるなど不可能。しかし、迅脚鳥の柔軟な足首と抜群の体幹はそれを可能にする。
だが、その異常な動きは乗っている側にも負担を与える。
振り落とされないようにするだけでなく、弓の構えを崩さないよう下半身と腹筋に全力で力を入れていたため、正直かなりの疲労が溜まっていた。
それでも、そんな状態で放った僕の矢は、正確に鋼牙猪の眉間に当たったのだ。
それを思い返して思う――やはり僕の“技術”は魔物相手にも通じている。もし弓矢の威力がもう少し高く、相手の毛皮や頭蓋骨を貫けるなら、下級以上の魔物であっても倒せるだろう。
だが、同時に思い知らされる。
この八十年で嫌というほどに突き付けられた現実――どれほど“技術”を磨こうとも、圧倒的に“力”が足りないということを。
≪セルフィ。どうした、大丈夫か?≫
≪……うん、大丈夫≫
胸に宿る悔しさを押し殺し、怒り狂った鋼牙猪の咆哮を背に僕たちは村へ帰還した。




