番外編⑤ 理想の上司
王都を発ってしばらくすると、馬車の揺れにもようやく身体が慣れてきた。
窓の外では、石畳の多い街道が少しずつ土の道へ変わり、行き交う人の服装も王都のそれよりずっと素朴になっていく。
夏の光は強いが、王都の中で浴びる光とは少し違う。
建物の壁で跳ね返ってくる白い明るさではなく、空からそのまま落ちてくる真っ直ぐな明るさだ。
前世の夏といえば住んでいた東京では連日30度を超え蒸し暑くて、外を歩くだけでも危険だったが、この世界の夏はそんな日はほとんどない。
エアコンもない馬車も窓を開ければ心地よい風が入ってくるので快適に過ごせる。
向かっている先はハル領。
夏休み初日にヴァレスト公爵家を訪ね、その翌日にはもう帰路についている。
忙しいと言えば忙しいが、別に嫌ではない。
やることがある時の移動は、むしろ落ち着く。
馬車の中には俺一人だ。
護衛や御者はいるが、当然ながら同じ空間にいるわけではない。
だから、こういう時は自然と考え事が増える。
昨日訪れた公爵邸の応接室。
ユリウス公爵の穏やかな顔。
総合一位だったことを告げた時の、あの少し面白がるような声。
――主席入学に続いて、期末試験でも総合トップだったそうだね。
あの言い方を思い出して、少しだけ苦笑する。
嬉しくなかったわけじゃない。
むしろ、かなり嬉しかったと思う。
でも、それ以上に妙に腑に落ちた感じがあった。
あの人は、ただ褒めるために褒める人じゃない。
必要なら厳しいことも言う。
見えていないところは見えていないとはっきり言う。
そのうえで、結果を出した時には、ちゃんと結果として受け取ってくれる。
だからだろうか。
ユリウス公爵に言われると、軽い気分にはならない。
浮かれたくなるというより、「ああ、この先もちゃんと見られているな」と思う。
不思議な人だ。
仕事がものすごくできる。
判断も速い。
決める時は迷わない。
しかも、こちらがまだ曖昧にしか考えられていないことを、いつの間にか現実へ落としてしまう。
携帯灯の販売計画だってそうだ。
俺の中では、あくまで構想だった。
筋は通せると思っていたが、実際に供給、製造、販売の順番を組み、ローデン商会と組ませ、ヴァレスト領、ハル領、王都へ順に流していくところまで持っていくのは、相当先の話だと思っていた。
それをあの人は、もう「始めるところ」まで持っていった。
君の望んだ通りになっているよ、と、まるで少し机を片づけておいたくらいの口調で言っていたが、あれはそんな軽い話じゃない。
俺が考えていた計画を、実際に世へ出る形へ変えたのだ。
やっぱり、すごい。
それに、あの人は止めない。
いや、本当は違うな。
止めないんじゃない。
止めるべき時は止めるのだと思う。
でも、少なくとも俺が何かをやろうとした時、それが無茶かもしれない、前例がない、面倒だ、そういう理由だけで潰したりはしない。
まず見て、考えて、筋があるなら拾ってくれる。
そのうえで、「では、どこまで現実に落とせるか」を考えてくれる。
ああいう人のことを、前世では何て言っただろう。
しばらく考えて、すぐに答えが出た。
上司、だ。
ユリウス公爵は、俺にとって前世で新卒の頃にいた、尊敬する上司みたいなものなのかもしれない。
そう思った瞬間、少しだけ懐かしい感覚が胸の奥をよぎった。
前世で最初に入った会社。
今思えば、大きくもなく、小さくもない、ごく普通の会社だったと思う。
その中で、俺の直属にいた上司は、かなり怖かった。
言葉が少ない。
甘くない。
詰めるところは詰める。
資料が甘ければ、その場で無言のまま赤を入れられる。
数字の根拠が弱ければ、静かな声で「で、これは何を根拠に?」と聞かれる。
あの質問、今思い返してもけっこう嫌だ。
当時の俺は、かなり緊張していた。
常に見られている感じがしたし、正直、少し怖かった。
でも同時に、あの人に任せておけば大丈夫だという安心感もあった。
俺が雑に進めようとした案件はきっちり止められた。
けれど、手を挙げた仕事や、新しいやり方を試してみたいと言った時には、意外なくらい止められなかった。
「やってみろ」
「責任はこっちで見る」
「ただし数字は出せ」
そんな感じだったと思う。
厳しかった。
でも、見捨てられている感じは一度もしなかった。
今思えば、あれはかなり恵まれていたんだろう。
ただ厳しいだけの人ならいる。
ただ優しいだけの人もいる。
仕事ができる人も、それなりにいる。
でも、厳しさと安心感が同時にある人は、案外少ない。
ユリウス公爵には、それがある。
常に厳しく見られている気がする。
でも、同時に、温かく見守られている感じもある。
しかも、前世の上司よりもっとすごい。
規模が違う。
背負っているものも違う。
なのに、目の前の相手が何をしようとしているかをちゃんと見て、必要な支えを置いてくれる。
完璧超人、ってやつなんだろうな、たぶん。
思わず、馬車の窓にもたれて小さく息を吐く。
自分が前世で起業したあと、少人数ではあったけど部下を持ったことがある。
人数は多くなかった。
けれど、人を動かし、人に仕事を任せ、人に成長してほしいと思いながら接するという意味では、あれも立派な「上に立つ側」だったんだろう。
じゃあ、自分はどうだったか。
新卒の頃のあの上司みたいに。
あるいは、ユリウス公爵みたいに。
部下に接することができていたかと聞かれたら――正直、自信がない。
ちゃんと任せていただろうか。
感情で急かしたりしていなかったか。
自分の中で答えが見えているからといって、相手の考える時間を奪っていなかったか。
フォローするつもりが、ただ口を出しすぎていただけじゃないか。
逆に、任せるつもりが、ただ放っていただけの時はなかったか。
たぶん、いろいろ足りなかった。
もちろん、父上も尊敬している。
領主としての父上は、俺なんかよりずっと多くのものを背負っている。
ほかにも尊敬する人はたくさんいる。
でも、もしこれから先、自分が誰かの上に立つとしたら。
部下を持ち、人を率い、誰かの挑戦を見守る立場になるとしたら。
なりたい形として一番近いのは、間違いなくユリウス公爵だ。
何でも自分でやってしまう人ではなく。
ただ放任する人でもなく。
相手の筋を見て、進ませ、必要な時には現実へ落とし、結果が出ればきちんと認める。
ああいう大人は、強い。
強さって、剣や魔法だけじゃないんだよな、と改めて思う。
窓の外では、王都の気配がすっかり薄れていた。
道の両脇には草地が広がり、その先には低い森の影が見える。
ハル領まではまだ数日かかる。
領地へ戻れば、またやることが山ほどある。
青輝石の供給状況。
西部の森の開拓。
飛び級へ向けた先の予習。
それから、自主練。
たぶん、この夏も忙しい。
でも、不思議と嫌じゃない。
むしろ少しだけ楽しみですらある。
それはきっと、前へ進めている感じがあるからだ。
そして、進もうとした時に、それをきちんと見てくれる大人がいるからだ。
馬車が少し大きく揺れた。
俺は窓の外から視線を離し、背もたれに軽く身体を預ける。
いつか、自分もあんなふうになれるだろうか。
厳しくて、頼れて、勝手に全部奪わない。
それでいて、必要な時にはちゃんと前へ出られる人間に。
すぐには無理だろう。
今の俺は、まだ自分のことで手一杯だ。
でも、目指す形が見えているなら、それだけでも少し違う。
ハル領へ向かう馬車の中で、俺は静かに思う。
もしこれから先、自分が人の上に立つことがあるなら。
その時はきっと、ユリウス公爵みたいになりたい。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
続きが気になったら、ブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




