第9話 王都より、ハル領
バスクが王都へ送られてから、屋敷の空気は少しだけ軽くなった。
廊下を歩く使用人たちの足取りは、まだ慎重ではある。
だが以前のような、常に誰かの顔色をうかがう張りつめた重さは薄れていた。
北倉庫は封印され、帳簿の整理が進められ、父の薬も母と侍医、それから俺の目を通して管理されるようになった。
ようやく、この家は息をし始めた。
その日の午後、俺は父と母に呼ばれて、執務室の奥にある小さな書庫へ入った。
長机の上には、古びた台帳や巻物、領地の地図、そしてハル家の家系記録が並んでいる。
いかにも「家の話をする場所」だった。
父ガルドは椅子に腰かけ、机の端を軽く指で叩いた。
「リオン。お前も、そろそろ知っておくべきことがある」
「何を?」
「ハル家の立場だ」
父は一冊の古い記録を開いた。
「この国には爵位がある。上から公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵だ」
母が静かに続ける。
「爵位が高いほど、王都での役目も重くなるの。大きな会議、軍務、婚姻、社交、王家との関わり……良くも悪くも、田舎の領地だけ見ていれば済む立場ではなくなるわ」
父が頷いた。
「ハル家は子爵家だ。王都では大貴族とは言えん。だが、地方では一つの領地を預かる家として、それなりの責任を持つ」
子爵。
予想通りだ。
前世の俺が知っていた西洋風の爵位感覚とも、大きくはずれていない。
侯爵や公爵まで行けば、もう領地経営だけやっていればいい世界ではないのだろう。
父は少しだけ苦笑した。
「王都の大貴族から見れば、我らは地方の小領主にすぎん。だが、そのぶん王都のしがらみは少ない。今までは、それが良いことでもあり、悪いことでもあった」
「悪いことって?」
「目が届きにくい、という意味だ」
父の声は低かった。
「中央の目が薄い領地ほど、内側から腐りやすい。今回のようにな」
俺は黙って頷いた。
たしかにそうだ。
上に見られていない組織は、自由であると同時に、腐る自由も持つ。
前世でも似たようなものだった。
小さな会社は意思決定が早い。だが監査も弱いし、距離が近いぶん裏切りの傷も深い。
母がこちらを見る。
「リオン。あなたは今回、大きな働きをしたわ。でも、そのことで王都の目が向くかもしれない」
「向くだろうね」
たぶん、もう向いている。
バスクの件は地方の家中不和で終わる話じゃない。
闇ギルド、毒、暗殺未遂、帳簿改ざん。王都が無視するには材料が揃いすぎている。
「もし今後、お前の働き次第でハル家の評価が上がれば」
父は少しだけ言いづらそうにした。
「爵位を上げる話も、ないとは言い切れん」
俺は思わず顔をしかめた。
それを見て、母が目を丸くする。
「……嫌そうね」
「嫌だよ」
はっきり言うと、父と母が揃って少し驚いた顔をした。
「普通は、もっと喜ぶところではないのか」
父の問いはもっともだ。
でも、俺にとっては違う。
「爵位が上がると、王都の仕事が増えるんでしょ」
「増えるな」
「会議も、付き合いも、変な儀礼も、面倒な親戚筋も増えるよね」
「……まあ、そうだな」
父の返事が少し苦くなる。
図星らしい。
「だったら嫌だよ」
俺は机の上の地図へ目を落とした。
「上に行けば行くほど、やることが増える。そのくせ本当に大事なことから遠くなる。人が増えて、役目が増えて、しがらみが増えて、気づいたら“何のために働いてるのか”わからなくなる」
前世で何度も見た光景だった。
会社が大きくなれば楽になるわけじゃない。
むしろ余計な会議、調整、顔色うかがい、責任回避が増える。
現場から遠い人間ほど、もっともらしいことを言う。
俺は前世でそれに疲れた。
だから今世では、できるだけ同じ場所へ行きたくない。
「俺は出世したいわけじゃない」
言いながら、自分でもそれがよくわかった。
「この田舎で、領民と家族と、それから自分がちゃんと快適に暮らせればいい。王都で偉くなることには、あんまり興味がない」
部屋が少し静かになる。
父はじっと俺を見ていた。
母は、意外そうな、でもどこか安心したような顔をしている。
「……欲がないのか、現実的なのか、判断に困るな」
父のその言葉に、俺は少し笑った。
「どっちでもいいよ。でも、今のハル領を見てると、王都で偉くなる前にやることが山ほどあるでしょ」
痩せた畑。
崩れかけた水路。
抜かれた物資。
脆い財務。
怯えた使用人。
家の中の腐敗を切っただけじゃ何も終わっていない。
むしろ、ようやくスタート地点に立ったところだ。
「そのためには、まず領地を知らなきゃいけない」
俺は机の端に置かれていたハル領の地図を広げた。
古い羊皮紙に描かれた地図は、思ったより雑だった。
村の位置、水路、畑、森、兵舎、倉庫。最低限の記載はあるが、現状を正確に映しているとは言いがたい。
「知る、とは?」
父が問う。
「全部だよ」
俺は指で地図をなぞる。
「畑がどこで痩せてるか。水路のどこが死んでるか。村ごとの人手。兵糧の保管。税の取り方。倉庫の動線。兵の数と質。冬に困る場所。病人が多い村。商人が嫌がる道。全部」
言いながら、少し楽しくなってきた。
やることが多い。
面倒も多い。
でもこれは、前世のように“誰かに奪われる会社”を延命させるための仕事じゃない。
ちゃんと、自分たちが暮らす場所を良くするための仕事だ。
「領地を立て直したいなら、まず現場だ」
父がわずかに眉を上げる。
「現場、か」
「うん。帳簿も見る。でも帳簿だけじゃわからない。人の顔を見て、土を見て、水を見て、倉庫を見て、村の空気を見ないと」
前世でもそうだった。
報告書だけで会社は救えない。
現場へ行かない経営者は、最後には数字に騙される。
「だから、しばらく王都の話は後回しでいい」
俺は父と母を見た。
「俺はまず、この領地を知る」
母がふっと微笑む。
「本当に、あなたらしいわね」
「そうかな」
「ええ。偉くなりたいのではなく、ちゃんとしたいのね」
その言い方は、少しくすぐったかった。
父はしばらく黙っていたが、やがて机の上の地図を見下ろし、小さく頷いた。
「……なら、見てこい」
「いいの?」
「領地を知ると言ったのはお前だ。口だけでは困る」
少しだけ昔の父らしい、意地の悪い言い方だった。
でもそのほうがむしろ良かった。
「明日から、近場の村と水路を見に行け。ノルをつける。ミアも記録係として同行させよう」
ミアの名前が出たのが少し意外で、俺は父を見た。
「ミアでいいの?」
「お前の話では、あの娘は記録や補佐に向いているのだろう」
「……うん」
「なら使え」
父はそう言ってから、ほんの少し口元を緩めた。
「人を見るのも、領主の仕事だ」
それはたぶん、父なりの信頼だった。
俺は素直に頷く。
「わかった」
その時だった。
広げた地図の上に、薄青い文字がふっと浮かんだ。
《北村:労働不足》
《西水路:崩落予兆》
《南畑:収量過小》
《兵舎:士気低下》
《徴税経路:不透明》
思わず目を細める。
地図と台帳だけでも、ここまで出るのか。
父と母には見えていない。
当たり前だ。この目は俺だけのものだ。
「どうしたの」
母が尋ねる。
「いや」
俺は地図の上に手を置いた。
「思ったより、忙しくなりそうだなって」
父が鼻で笑う。
「今さらだ」
「だね」
でも、それでいい。
王都で高い椅子に座りたいわけじゃない。
このハル領で、ちゃんと暮らせる場所を作りたい。
家族が安心して眠れて、領民が明日の飯に怯えなくて、自分も余計な裏切りやしがらみに削られずに済む場所。
そのためなら、いくらでも働ける。
俺はもう一度、地図を見下ろした。
綻びだらけだ。
でも逆に言えば、手を入れる余地だらけでもある。
「よし」
小さく呟く。
「まずは、北村と西水路からだな」
窓の外では、痩せた風が春の名残の雲を押していた。
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