第10話 働き手のいない村
翌朝、まだ空気の冷たい時間に、俺たちは屋敷を出た。
同行はノルとミア。
馬に乗るのは俺とノルだけで、ミアは小柄な栗毛の牝馬に帳面と筆記具を括りつけていた。
「緊張してる?」
並んで門をくぐる時にそう聞くと、ミアは少しだけ肩を揺らした。
「……少しだけです」
「少しだけ、ね」
「かなりです」
正直でよろしい。
ノルは何も言わず、手綱を軽く引いた。
朝靄の向こうに、痩せた畑と低い森が続いている。
北村まではそう遠くない。
だが、近いからといって楽な話とも限らない。
地図の上で見た《北村:労働不足》の文字が、頭の隅に残っていた。
◇
北村に入って、最初に感じたのは静けさだった。
鳥の声はする。風も吹いている。
なのに、人の気配が妙に薄い。
畑へ目を向けると、その理由はすぐにわかった。
鍬を振るっているのは、腰の曲がった老人。
水桶を運んでいるのは、十にも満たない子ども。
畝の間を歩いている女たちの顔も疲れている。
働き盛りの男がほとんどいない。
視界の端に、薄青い文字が浮かぶ。
《慢性労働不足》
《栄養状態:低下》
《人手流出:継続》
《七日以内に収穫遅延拡大》
帳簿の一言より、ずっと重い。
「……これは」
ミアも言葉を失っていた。
村の入口近くにいた老人が、こちらを見るなり目を細めた。
「領主様のところの……坊ちゃんか」
歓迎の色はない。
むしろ露骨に硬い。
他の村人たちも、手は動かしたままこっちを見ている。
近寄ってくる者はいない。
ノルが低く言った。
「北村の村長を呼ばせましょうか」
「ううん。先に歩いて見る」
馬を下りる。
土の上へ靴底を置くと、思ったより軽い。水気が足りない土だ。
畑の脇にしゃがみ込み、土を指でつまむ。細かい。乾いている。
ただ乾いているだけじゃない。痩せている。
《地力低下》
《有機肥料不足》
《取水量不足》
《西水路依存:高》
やっぱり水か。
「坊ちゃん、服が汚れますよ」
さっきの老人が、皮肉とも心配ともつかない声を投げてきた。
俺は立ち上がって笑った。
「汚れたら洗えばいいよ。それより、この土のほうが問題だ」
老人の眉が少しだけ動いた。
「……土がわかるんですか」
「まだ見始めたばかり」
本当のところ、土の専門家じゃない。
だが、《綻びの目》が出す情報と、前世で見てきた現場の感覚を合わせれば、わからないなりに当たりはつけられる。
「村長さんはいる?」
老人は少し黙ってから、顎で村の奥を示した。
「納屋の前に」
◇
北村の村長は、五十を過ぎた痩せた男だった。
顔に深い皺がある。最初に俺を見た時の表情は、歓迎より警戒が強かった。
「ハル家の坊ちゃんが、わざわざ何の用で」
「見に来た」
「何をです」
「村を」
村長は鼻で笑うでもなく、困ったように黙った。
「見るだけなら、好きにどうぞ。今さら隠すものもありません」
かなりきつい返しだ。
でも無理もない。
バスクがいた間、この村はたぶん、見られるたびに何かを取られてきたのだろう。
視界に浮かぶ。
《不信:強》
《領主家への期待:低》
《徴税記憶:悪》
ミアが少し身を縮める。
ノルは無言のままだ。
「じゃあ好きに見るよ」
俺はそう言って、本当に好きに歩き始めた。
納屋の中。
干し草の量。
農具の傷み。
井戸の水位。
荷車の軋み。
家畜の骨ばった背。
見るたびに綻びが浮かぶ。
《飼料不足》
《井戸使用過多》
《納屋補修遅延》
《税負担偏り》
《若年労働過多》
途中、畑で桶を持った小さな男の子がふらついた。
運びきれず、膝をついて水をこぼす。
「こら、無駄にするな!」
少し離れた場所から女が声を飛ばした。
母親だろう。怒っているというより、余裕がない声だった。
俺はすぐにその子のところへ行った。
顔色が悪い。唇も乾いている。
《脱水傾向》
《疲労:高》
《空腹》
「ミア、水」
「は、はい」
受け取った革袋をその子へ渡す。
子どもは最初ためらったが、俺が頷くと恐る恐る口をつけた。
「少し座って」
「でも……」
「今倒れたらもっと働けない」
横から母親が駆け寄ってきて、慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ありません! この子が役立たずで……」
「違うよ。無理をさせすぎだ」
女はびくりと肩を揺らした。
責められると思った顔だった。
俺は周囲を見る。
大人が足りない。足りなすぎる。
「この子、何歳?」
「九つです」
「九つでこの量を運ばせてるの?」
「……男手が、足りなくて」
そこで、村長がようやく口を挟んだ。
「足りないんじゃありません。いないんです」
その声は乾いていた。
俺は村長のほうを見る。
「若い男たちは?」
「出稼ぎです」
ミアが帳面を開く音がした。
村長は一度深く息を吐いてから続けた。
「税が重くなってからです。収穫が落ちても、取り分はあまり変わらなかった。払えない分は借りる。借りたら、今度は返すために人が出る。若いのから順にね」
なるほど。
帳簿上の《労働不足》の中身は、ただ人口が少ないって話じゃない。
税と借り入れで働き手が外へ流出している。
《人手流出:構造化》
《徴税負担:過大》
《返済労働化》
最悪だな。
「それを村から訴えなかったの?」
村長は俺をまっすぐ見た。
「訴えましたよ」
少しだけ、笑った。自嘲に近い笑いだった。
「何度も。ですが、返ってきたのは“工夫が足りない”“怠けている”でした」
バスクの顔が頭に浮かぶ。
あいつなら言いそうだ。
俺は喉の奥に溜まるものを押し込めた。
「……ごめん」
村長は一瞬、意外そうな顔をした。
「坊ちゃんが謝ることじゃない」
「でも、ハル家の人間だから」
それは事実だ。
バスクがやったことであっても、看板はハル家だった。
村長は黙った。
それから、今度は少しだけましな顔で俺を見る。
「謝るだけの領主家の人間は、初めて見ました」
それは褒めていない。
でも、最初の拒絶よりはずっとましだ。
◇
村の外れまで歩くと、水の流れる音が聞こえた。
西水路だ。
地図では一本の線だったが、実物は石組みの脆い、細い流路だった。ところどころ苔がつき、土手も崩れかけている。
近づいた瞬間、視界に文字が広がる。
《西水路:崩落予兆》
《取水量低下》
《応急補修の痕跡》
《七日以内に通水障害》
《放置時、北村収穫半減》
思わず足が止まった。
「どうしました、リオン様」
ミアの声も少し緊張している。
俺は石組みに手を触れた。
表面は冷たい。だが内側の土は緩んでいる。少し掘られれば、あるいは次にまとまった雨が来れば、崩れる。
村長が苦い顔で言った。
「そこも、ずっと直してほしいと言ってきました」
「誰に」
「もちろん屋敷ですよ」
父じゃない。
届いていたとしても、途中で握りつぶされていたのだろう。
「去年は軽く土を足しただけで終わりました。春までは持つと言われたが、このありさまです」
ノルがしゃがんで石組みを見た。
「……これは危ういですな」
初めて彼が自分から言った。
その声に、村人たちが少しだけざわつく。
「ノルさんまでそう言うなら……」
「やっぱりまずいのか」
「だから言っただろう」
声が漏れ始める。
村人たちは、この水路が危ないととっくにわかっていたのだ。
でもどうにもできなかった。
俺は流れの先を見た。
この水が止まれば、ただでさえ痩せた畑は終わる。
若い働き手もいない。復旧にも時間がかかる。
つまり北村の問題は、労働不足だけじゃない。
今にも死にかけた血管を抱えている。
「……人手不足どころじゃないな」
思わず口に出た。
ミアがすぐに帳面へ書きつける。
村長は黙って俺を見ていた。
「坊ちゃん」
「うん」
「見ただけで終わりますか」
まっすぐな問いだった。
村人たちの視線も、痛いくらい集まる。
俺は少しだけ空を見た。
春の終わりの風が、水面を細かく揺らしている。
「終わらせない」
そう答えると、自分の声が思ったより静かだった。
「でも、まずは順番を決める。ここを直す。人手の流れも調べる。税も見直す」
村長はまだ半信半疑の顔だ。
当然だと思う。
だから今は、それでいい。
信用は言葉じゃなくて、直した水路と戻ってきた収穫で取るしかない。
俺はもう一度、西水路の石組みを見下ろした。
綻びは見えている。
なら、次は手を入れる番だ。
現場は、思った以上に深刻だった。
でも同時に、やるべきこともはっきりした。
北村。
西水路。
そして、その先にある徴税の流れ。
問題は繋がっている。
なら、切る場所も見えるはずだ。




