第11話 選択と集中
西水路を前にして、俺はしばらく黙っていた。
水は流れている。
だが細い。弱い。石組みは緩み、土手は崩れかけている。
この水路が死ねば、北村の畑も一緒に死ぬ。
視界の端には、相変わらず薄青い文字が浮かんでいた。
《西水路:崩落予兆》
《七日以内に通水障害》
《放置時、北村収穫半減》
七日。
短い。
若い働き手がいないこの村で、全部を直すには短すぎる。
村人たちの顔を見る。
村長。
疲れた女たち。
水桶を抱えた子ども。
腰をかばいながら立つ老人。
今の北村には、余力がない。
なのに今までのやり方は、全部を同じように守ろうとして、全部を少しずつ死なせている。
前世で、嫌というほど見た形だった。
赤字事業も、黒字事業も、将来性のない仕事も、全部に人と金を均等に突っ込んで、結局全部が沈む。
優先順位をつけない組織は、だいたいそうやって終わる。
俺は水路から目を離し、村長へ向き直った。
「北村で、今すぐ水が必要な畑はどこ?」
村長は一瞬きょとんとして、それから眉をひそめた。
「……全部ですが」
「それは知ってる。でも、今の人手で全部守れないのも見ればわかる」
村長は黙った。
周囲の村人たちもざわつく。
俺は続けた。
「全部を同じように守るのはやめる」
その瞬間、空気が変わった。
「何だと」
「畑を見捨てる気か」
「やっぱり領主家の坊ちゃんだ」
声が荒くなる。
当然だと思う。
畑は生活だ。
見捨てるなんて言葉に聞こえたなら、反発されて当たり前だ。
ミアが少し不安そうに俺を見た。
ノルは黙っている。
俺は一歩も引かなかった。
「見捨てるんじゃない。今、生かせるところだけ先に生かす」
地面に落ちていた細い枝を拾い、足元の土へ線を引く。
「村の畑は大きく三つに分かれてるよね。西水路に近い畑、少し離れた畑、いちばん端の痩せた畑」
村長が目を細めた。
「……そうです」
「今、水と人手を入れるべきなのは西水路に近い畑だけだ」
「なっ……!」
今度ははっきりと反発の声が上がった。
「端の畑はどうする!」
「うちの区画はあっちだぞ!」
「坊ちゃん、勝手なことを――」
俺はその声を全部聞いたうえで、枝先で土に区画を書いた。
「端の畑は今、捨てる」
どよめき。
でも言い切る。
「水が足りない。人手も足りない。土も痩せてる。そこに今の村の力を入れたら、近い畑まで守れなくなる」
視界に浮かぶ。
《南端区画:投入労力 収量低》
《近接区画:投入労力 収量高》
《優先順位:西側三枚畑》
つまり、答えは出ている。
全部を取ろうとして全部を失うより、
まず取れるものを確実に取る。
それが最初の一手だ。
「西水路に近い三枚の畑に、人も水も集中させる。遠い区画は今は最低限だけ。今週は守る場所を絞る」
村長が低く言った。
「それで、あぶれた畑はどうなる」
「少なくとも、今のやり方よりは全体がましになる」
俺は村人たちを見回した。
「今のままだと、七日後に水路が死ぬ。そのあと全部が死ぬ。だったら、先に残るものを作るしかない」
静かになった。
怒りが消えたわけじゃない。
でも“感情だけで跳ね返せる話じゃない”と、全員が少しだけ気づいた顔をしていた。
村長が口を開く。
「……で、どうするおつもりで」
「まず、西水路のいちばん危ない場所を止める」
俺は水路の石組みを指した。
「全部直すんじゃない。崩れかけてるそこだけ先に押さえる。水が生きれば、近い畑は持つ」
ノルが初めて枝の線を見下ろし、短く言った。
「筋は通っておりますな」
その一言が大きかった。
村人たちの視線が少しだけ揺れる。
年寄りの中には、ノルを知っている者もいるのだろう。
「……本当にできるのか」
「人手が足りんぞ」
「今いるだけでも手一杯だ」
「だから、仕事の分け方を変える」
俺はすぐに答えた。
ここからが本番だ。
「力仕事は男手……じゃなく、大人のうちまだ動ける人だけ。老人は石の選別と土嚢づくり。子どもは水運びをやめて、縄と道具運び。女の人たちは畑に散らばるんじゃなく、西側三枚に集中」
ミアが必死に書きつけている。
俺はさらに続けた。
「納屋の古い板と麻袋、使えるよね?」
村長が少し驚く。
「……ありますが」
「それを土嚢に使う。荷車は?」
「二台、動くものが」
「一台は石運び、一台は土運びに固定。往復を混ぜない。井戸水は畑じゃなく、人が飲む分を優先」
前世で何度もやった。
人手が足りない時は、人を増やせない。
なら、動線を減らすしかない。
無駄な往復。
無駄な分散。
無駄な“全員が全部やる”状態。
それを切るだけで、現場はかなり変わる。
「そんなことで……」
誰かが半信半疑に呟いた。
俺は枝を地面へ突き立てた。
「そんなこと、じゃない」
少しだけ声が強くなった。
「今の北村に足りないのは、気合いじゃない。順番だよ」
その言葉に、自分で少し驚いた。
でも、本心だった。
前世でもそうだった。
潰れかけた現場は、だいたい努力が足りないんじゃない。順番が壊れている。
村長が黙って俺を見つめる。
やがて、大きく息を吐いた。
「……わかりました」
「村長?」
「やるしかないでしょう。このまま全部抱えて沈むよりはましです」
完全に納得した顔ではない。
でも動く覚悟の顔だった。
そこからは早かった。
ノルが村の男たちをまとめ、石組みの崩れた箇所へ入る。
ミアは帳面を抱えたまま、誰に何を運ばせるかを俺の指示どおりに回していく。
「その桶は子どもじゃなくこっち!」
「麻袋は納屋の前に集めて!」
「板は長いものから分けて!」
最初はたどたどしかったが、だんだん声に張りが出てくる。
女たちは不満げだったが、近い畑に集中して作業させると、いつもより手が止まらないことに気づき始めた。
老人たちも、水運びより座ってできる土嚢づくりのほうが速い。
俺は水路と畑を行き来しながら、浮かぶ綻びを読み続ける。
《石材配置:不適》
《右側土嚢不足》
《西三枚畑:通水改善余地あり》
《少年:疲労再上昇》
「そこで石を縦に置かないで、横に寝かせて!」
「そっちの土嚢、右側に二つ回して!」
「ミア、その子は休ませて。水だけ持たせるな」
声を出すたび、少しずつ現場が噛み合っていく。
昼を過ぎるころには、誰も「坊ちゃんの遊びだ」とは言わなくなっていた。
代わりに、確認の声が飛ぶ。
「次はどこだ!」
「坊ちゃん、この石で足りるか!」
「水は西から先でいいんだな!」
いい傾向だ。
命令に従っているんじゃない。
手応えがあるから動いている。
それが大事だ。
午後の遅い時間、崩れかけていた西水路の一角は、ようやく土嚢と石で押さえ込まれた。
応急処置だ。綺麗じゃない。
でも、水の流れは持ち直している。
畑のほうを見ると、西側の三枚にはちゃんと水が回り始めていた。
いつもなら夕方にはへたり込んでいたという九つの男の子も、今日は母親の横で座っているだけで済んでいる。
母親は何度も水路と息子を見比べていた。
村長が俺の横へ来た。
「……不思議なものですな」
「何が?」
「人手は増えておりません。畑も減りました。なのに、いつもより回っている」
俺は少し笑った。
「減らしたからだよ」
村長は目を細める。
「全部を守ろうとするのは、聞こえはいい。でも今の北村には無理だった」
村長は西の畑を見た。
そこには、今日守れた緑が確かにあった。
「……本当に、少し楽になったな」
その一言は小さかった。
でも、たぶん今日いちばん大きかった。
俺は何も言わず、水路の脇に置かれた濡れた帳面を開く。
ミアが今日の動きと人数を書き込んでいる。
その帳面の上に、また文字が浮かんだ。
《徴税経路:なお不透明》
《借財処理:継続流出》
《関与者:複数の可能性》
やっぱり、そこか。
水路はひとまず持たせた。
でも北村の首を本当に絞めているのは、まだ別にある。
税。
借り入れ。
そして、その流れを作った誰か。
俺は帳面を閉じた。
「坊ちゃん」
村長が呼ぶ。
「今日のことは、礼を言っておきます」
「まだ早いよ」
俺は西水路を見たまま答えた。
「持たせただけだ。本当に変えるのは、ここからだから」
村長は少し黙ってから、ゆっくり頷いた。
最初の時のような、露骨な拒絶の目ではなかった。
信用まではいかない。
でも、次の話を聞いてもいい、くらいの目にはなっている。
それで十分だ。
最初の仕事としては。
夕方の風が、土と水の匂いを運んでいく。
俺は西水路の流れを最後にもう一度確認してから、小さく息を吐いた。
小さくても、今日変わった。
それが大事だ。
次は、この村から若い働き手を吸い上げている流れを切る番だ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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