第7話 事故に見せかけて
翌朝、朝食の席に現れたバスクは、いつも以上に穏やかな顔をしていた。
まるで昨日の騒ぎなど最初からなかったかのように、落ち着いた声で父へ頭を下げる。
「ガルド様。昨夜の件で皆が騒がしくしておりますゆえ、今日は少しでも良い知らせをお届けしたく存じます」
父はまだ顔色が悪い。
だが、薬を止めたぶんだけ昨日よりわずかに目に力が戻っていた。
「……何だ」
「北の水路で小さな崩れが見つかりました。大事には至っておりませんが、早めに手を打つべきかと」
そこでバスクは、ゆっくりと俺へ目を向けた。
「ちょうど良い機会です。リオン様も、これからは少しずつ領地の実情を学ばれるべきでしょう。近場でございますし、視察に出られてはいかがですかな」
食堂が静かになる。
母エマはすぐに眉をひそめた。
「昨日あれだけのことがあったばかりです。リオンを外へ出すのは――」
「ですが奥方様」
バスクは柔らかく言った。
「領主家の御子が何も知らぬままでは、かえって周囲を不安にさせます。北水路なら屋敷からも遠くなく、兵もつけられます。ほんの短い視察でございます」
いかにももっともらしい。
視界の端に文字が浮かぶ。
《虚飾》
《外出誘導》
《事故誘発の意図》
《本日中の実行を希望》
やっぱり今日か。
俺はスープの匙を静かに置いた。
「行くよ」
母がはっとこちらを見る。
「リオン」
「父上から任されたんだ。だったら領地を見る」
父は少しだけ目を細めた。
昨日、自分の口で「やれ」と言った手前、ここで俺を止めづらいのだろう。
バスクは満足そうに微笑んだ。
「頼もしいお言葉です」
その言葉の裏にあるものを、視界の文字は隠さない。
《障害排除を優先》
《成功率:高と判断》
――舐められたものだ。
だが、そのほうが都合がいい。
◇
出発前、厩舎には三頭の馬が引き出されていた。
俺の分。
案内役の兵の分。
そして、付き添いを装ったバスク配下の若い騎兵の分。
馬のことは詳しくない。
前世でも競馬は新聞の片隅で見る程度だった。
それでも、《綻びの目》は必要なものだけを浮かび上がらせる。
俺の馬に視線を向けた瞬間、文字が流れた。
《鞍帯に切断痕》
《留め具の緩み》
《馬:興奮誘導済み》
《一定距離走行後に不安定化》
《事故誘発の意図》
さらに、馬の口元につけられた鉄具を見た瞬間、別の文字。
《刺激物の付着》
《痛覚反応を増幅》
《暴走誘導》
なるほど。
即死ではなく、ちゃんと“事故”に見せかけるつもりだ。
俺は何も気づかないふりをして近づいた。
「リオン様、こちらの馬を」
若い騎兵が手綱を差し出してくる。
視界に浮かぶ文字。
《命令に従属》
《自発的悪意なし》
《詳細は知らない》
末端か。
「ありがとう」
受け取ってから、わざと少し手間取るふりをする。その間に、背後へ立っていたミアへだけ聞こえるくらいの小声で言った。
「母上に伝えて。俺が戻ったら、最初に鞍と鐙を見てほしいって」
ミアの肩がぴくりと揺れる。
「そ、それは……」
「いいから」
続けてもう一つ。
「ノルは?」
「裏庭の道具小屋を見に……」
「今すぐ呼んで。北水路へ行くと伝えて、少し遅れて来てもらって」
ミアは一瞬だけ怯えた顔をした。
だが、俺の目を見て、すぐに小さく頷いた。
「……はい」
古い執事ノル。
寡黙で目立たないが、昔から屋敷にいて、バスクにも必要以上には媚びない男だ。
今の段階で味方と断定はできない。
けれど少なくとも、《綻びの目》はあの男に《忠誠に綻び》を出したことがない。
なら、賭ける価値はある。
◇
北水路までの道は、痩せた畑の間を縫うように続いていた。
空はよく晴れている。
こんな日に事故など、いかにも起きそうにない。
だからこそ、起きれば自然に見える。
先頭に案内役の兵。
その後ろに俺。
少し離れて若い騎兵。
そして最後尾にバスク。
直接手を汚さず、全体を見渡せる位置だ。
「足元に気をつけてください、リオン様」
後ろから聞こえる穏やかな声。
《事故発生地点まで誘導中》
《成功を確信》
腹が立つほど冷静だな。
やがて道は細くなり、片側が水路、片側が低い斜面になった。
昨日の雨もないのに、足元の土だけが妙に柔らかい場所がある。
そこを見た瞬間、文字が浮かぶ。
《西側の地盤:軟》
《落下時の致命傷率:低》
《東側石畳:致命傷率:高》
つまり、落ちるなら西だ。
俺は何食わぬ顔で、少しだけ馬の位置をずらした。
その数秒後だった。
馬が突然、耳を伏せた。
次の瞬間、鋭くいななき、前脚を跳ね上げる。
「うわっ――!」
予想していても、衝撃は本物だった。
鞍がずれる。
腹帯が一気に緩む。
体が横に持っていかれる。
後ろから誰かの叫び声がした。
「リオン様!」
馬が暴れ、視界が激しく揺れる。
鐙から足が外れかける。
ここで無理に残れば、東の石へ叩きつけられる。
俺は半ば自分から体を投げ出すようにして、西側へ落ちた。
柔らかい土と草が肩と背を打つ。
息が詰まり、肺の空気が一瞬で抜けた。
「――ぐっ!」
痛い。
腕も肩も痺れる。
思ったよりきつい。
難なく、なんてものじゃない。
少しでも角度が違えば、首を折っていた。
だが、まだ終わっていない。
水路脇の草むらが揺れた。
灰色の影が飛び出してくる。
顔を布で半分隠した男。手には短い刃物。
転落直後の俺へ、迷いなく突っ込んできた。
視界に文字。
《止めの一撃》
《盗賊偽装》
《口封じ優先》
やっぱり二段構えか。
男が刃を振り下ろす、その直前。
「そこまでだ」
低い声が飛んだ。
横合いから、黒い影が割って入る。
ノルだった。
老執事とは思えない速さで男の腕を払う。刃が逸れ、俺の頬をかすめて地面へ突き立った。
さらに後方から二人の兵が駆け込んでくる。
屋敷の兵だ。ミアが母へ伝え、そこから回したのだろう。
「取り押さえろ!」
ノルの短い命令で、兵たちが灰色の男へ飛びかかった。
男は一瞬抵抗したが、逃げるには遅すぎた。
腕を捻り上げられ、地面へ押し倒される。
土の上にうずくまったまま、俺はようやく息を吸った。
胸が痛い。
肩もじんじんする。
だが生きている。
目の前に、馬具の切れた腹帯が落ちていた。
視界に文字が出る。
《刃物による事前加工》
《自然破断ではない》
《証拠保全推奨》
よし。
遅れてバスクが馬を降り、顔色を変えて駆け寄ってくる。
「リオン様! ご無事ですか!」
見事な演技だ。
その視界の端には、いつもより濃い文字。
《動揺:中》
《失敗を認識》
《口封じの継続を検討》
俺は泥だらけのまま身を起こし、息を整えた。
「……危なかった」
それだけ言う。
バスクは俺の肩へ手を伸ばしかけたが、ノルが一歩前へ出てそれを遮った。
「お手を煩わせるほどではございません、バスク様」
ノルの声音は平坦だった。
だが、その位置取りは明らかに俺を守るものだった。
面白い。
やはり、この男は使える。
若い騎兵は青ざめていた。
案内役の兵も、切れた腹帯を見て顔色を変える。
「こ、これは……」
「自然に切れたようには見えんな」
ノルがしゃがみ込み、腹帯の切断面を見た。
視界に文字。
《証言価値:高》
《ノルの発言は重い》
ありがたい。
取り押さえられた灰色の男が、地面に押しつけられたまま笑った。
「運がいいな、坊ちゃん」
声はしゃがれていた。
「だが次は、こんなぬるいやり方じゃ済まねえ」
兵の一人が男の口を殴りつけようとしたが、俺は止めた。
「待って」
俺は立ち上がり、ふらつく体をこらえて男の前へ行く。
男の腰袋を見ると、粗末な革袋の中に小さな金属片があった。
丸い、鈍い色の札。
それを見た瞬間、文字が浮かぶ。
《王都裏路地の仲介印》
《闇取引の符牒》
《地方では稀少》
やっぱり王都筋か。
バスクの視線が、ほんの一瞬だけその札へ落ちた。
そのわずかな動きだけで十分だった。
《認識あり》
《関連性:極めて高》
疑いじゃない。
もう、ほとんど答えだ。
「その男と、腹帯と、馬の口輪。全部そのまま屋敷へ」
俺ははっきり言った。
「父上と母上の前で確認する」
バスクが穏やかな顔のまま口を開く。
「もちろんでございます。ですがまずは、リオン様のお身体を――」
「平気じゃないよ」
わざと遮った。
「本当に死にかけた」
周囲の兵が息を呑む。
そうだ。
ここは曖昧にしない。
これは運の悪い事故なんかじゃない。
誰かが俺を殺そうとした。そういう空気を、ここで作る。
「だから、なおさら曖昧にしたくない」
俺はバスクを見た。
「そうですよね、バスク」
数秒の沈黙。
そして彼は、完璧な礼を返した。
「仰る通りに」
だが視界の文字は違っていた。
《敵意:高》
《計画修正》
《次はより確実に》
まだ終わっていない。
だが今日、相手の一手は確かに折った。
しかも、証拠つきで。
ノルが小さく言った。
「お立ちになれますか」
「なんとか」
肩が痛む。
左の肘も擦りむけている。
足も少しひねった。
でも、それで十分だ。
俺は泥のついた手で腹帯を拾い上げた。
切断面は、見れば見るほど人工的だった。
これを父の前へ出せば、ただの落馬事故では済まない。
倉庫の横流し。
父上への毒。
そして今の“事故”。
もう繋がっている。
屋敷へ戻る道すがら、俺は振り返らなかった。
振り返る必要もない。
背後から伝わってくる空気だけでわかる。
バスクは今も穏やかな顔をしている。
けれどその胸の内では、俺をどう殺すかしか考えていない。
そして俺も、もう同じだった。
あいつをどう止めるか。
どう追い詰めるか。
それしか考えていない。
風が水路の上を抜けていく。
俺は切れた腹帯を握りしめたまま、静かに思った。
――バスク。
お前の綻びは、もう見えている。
次はこっちの番だ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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