第642話 研究を前に進めるために
翌日。
午前中の政務所での仕事を終えたところで、ヴァイスさんが訪ねてきた。
「ハル。少し時間をもらえるか?」
「あっ、ヴァイスさん! もちろんです。どうしたんですか?」
「アノー山の苔について、研究結果がいくつかまとまったんだ。よかったら、見に来ないか?」
「本当ですか!? ぜひ見たいです!」
アノー山の苔。
俺は以前から、この苔を使って水質を改善したり、鉱山から出る有害な物質を取り除いたりできないかと考えていた。
もし実用化できれば、ハル領だけでなく、王国全体に大きな影響を与える技術になるかもしれない。
「それでは、さっそく行きましょう!」
「ああ。実際に見てもらった方が早いだろう」
俺はヴァイスさんと一緒に政務所内の研究室へ向かった。
◇
研究室に入ると、机の上にいくつもの容器が並べられていた。
その中には、水の入った容器や、乾燥させた苔などが置かれている。
「まず、これを見てくれ」
ヴァイスさんが三つの容器を指さした。
「どれも同じ鉱物を含んだ水を使っている。左はアノー山の苔を入れていないもの。中央はアノー山の苔を入れたもの。そして右は、乾燥させたアノー山の苔を入れたものだ」
「苔の重さや、水に浸していた時間もそろえてあるんですよね?」
「ああ。水の量も、最初の鉱物の濃さも同じだ」
「それなら、結果を比較しやすいですね」
ヴァイスさんは、それぞれの容器から少量の水を取り出し、別の小さな容器に移した。
そして、同じ量の試薬を加えていく。
すると、水の色が変化した。
「……おお!」
苔を入れていない水は、濃い色に変わっている。
一方、生の苔を入れた水は、色の変化が明らかに小さい。
乾燥させた苔を入れた水も、生の苔ほどではないが、何も入れていない水より色が薄かった。
「苔を入れることで、鉱物の成分が減っているんですね」
「ああ。ただ、今回調べた成分については、という条件がつくがな」
「鉱物といっても、いろいろな成分がありますからね」
「そのとおりだ。すべてを取り除けるとは、まだ言えん」
「ちなみに、苔から溶け出した成分が試薬の反応に影響している可能性はありませんか?」
「そこも確認している。鉱物を含まない水に苔を入れたものでも試験しているが、今回のような色の変化は起きていない」
「そうなんですね」
「それに、日を変えて何度か試しているが、同じ傾向が出ている。少なくとも、偶然の結果ではなさそうだ」
……それなら、かなり期待できそうだ。
「それで、今回の研究で面白いのは、ここからなんだ」
ヴァイスさんが、乾燥させた苔を手に取った。
「生きた苔の方が効果は大きかったが、乾燥させたものでも、ある程度の吸着能力が確認できた」
「……それは大きいですね!」
俺は思わず身を乗り出した。
生きた苔でなければ効果を発揮しないのであれば、利用できる場所は限られる。
水や光、温度など、苔を育てるための環境を整える必要があるからだ。
でも、乾燥させても吸着能力が残るのであれば、加工して利用できる可能性が広がる。
「例えば、乾燥させた苔を細かくして、紙に混ぜ込む方法も試せそうですね」
「以前、君が話していた方法だな」
「はい。ただ、紙に混ぜたあとも効果が残るかは、別に確かめる必要がありますけどね」
「そのとおりだ。加工する際の熱や水分によって、性質が変わる可能性もある」
まだ実用化が決まったわけではない。
でも、可能性が一つ確認できたことには、大きな意味がある。
◇
「ところで、ヴァイスさん」
「何だね?」
「苔が吸着できる量にも、当然限界があるんですよね?」
「ああ。その点も調べ始めている」
ヴァイスさんは、別の紙を取り出した。
「同じ苔を何度も使うと、徐々に吸着する量が減っていくことがわかった。だが、どの程度で交換が必要になるかまでは、まだわかっていない」
「そこは実用化する前に確認しておきたいですね」
浄化装置を造るのであれば、性能だけでなく、維持管理のしやすさも重要だ。
交換時期がわからなければ、効果のなくなった苔を使い続けてしまうかもしれない。
「できれば、使用した水の量や簡単な検査で、交換時期を判断できるようにしたいんです」
「確かにな。研究者でなくても管理できる仕組みが必要というわけか」
「はい。それから、使い終わった苔の処分方法も考えないといけませんね」
「処分方法か?」
「例えば毒を吸着した苔を、そのまま捨てるわけにはいきませんよね? 雨に濡れて、また毒が流れ出すかもしれませんから」
「……なるほど。それは調べる必要があるな」
有害物質を取り除いたつもりが、別の場所へ移しただけでは意味がない。
前世でも、公害を防ぐための設備から出た廃棄物が、新たな問題になることがあった。
同じ失敗は避けたい。
「それと、大量に使うことになったら、苔を栽培する方法も必要だと思うんです」
「ああ。アノー山から採り続けるわけにもいかんからな」
「そうなんです。自然の苔を採り尽くしてしまったら、本末転倒ですからね」
ヴァイスさんが頷いた。
「吸着能力の限界に、処分方法、栽培方法か。実用化までには、まだまだ調べることが多いな」
「でも、何を調べればいいのかがわかってきたのは、いいことだと思います!」
「……ははっ。確かにな!」
ヴァイスさんが笑った。
◇
「それで、もう一つ相談したいことがあるんだ」
ヴァイスさんが言った。
「例の蒸気機関から出る煙についてだ」
「あっ、はい!」
「以前、君が話していた、アノー山の苔を使って煙に含まれる有害な物質を取り除く方法だが、今回の研究結果を見る限り、試してみる価値はあると思う」
「本当ですか?」
「ああ。だが、水に含まれる毒を吸着することと、煙に含まれる有害物質を取り除くことは、別の話だ」
「そうですね。そこは慎重に調べたいと思っています」
蒸気機関から出る煙には、煤のような細かい粒子だけでなく、目に見えない気体も含まれている。
水の中の鉱毒を吸着できたからといって、気体にまで同じ効果があるとは限らない。
「だから、最初から大きなものを造るつもりはないんです」
「というと?」
「まずは小さな試験装置を造って、煙を通す前と後で、成分がどのくらい変わるか調べたいんです」
俺は持っていた紙に、簡単な図を描いた。
蒸気機関から出る煙。
煤を取り除く装置。
煙を冷やす装置。
そして、苔を使ったフィルター。
「こんな感じでしょうか。煙をそのまま紙に通したら、熱で傷んだり、煤で詰まったりする可能性がありますからね」
「なるほど。段階を分けて処理するわけか」
「はい。それに、布とかを使って煙の流れが悪くなったら、蒸気機関にも影響が出るかもしれません」
「確かにな。そのあたりも試験する必要があるな」
「まずは安全な条件で、小さく試してみましょう。苔がどの成分に効果を発揮するのかも、そこで確認したいです」
「わかった。その方針で進めよう」
ヴァイスさんが頷いた。
水の浄化も、煙の浄化も、すぐに完成する技術ではない。
でも、こうして一つずつ課題を解決していけば、きっと実用化に近づけるはずだ。
◇
「……さて、ハル」
「はい?」
「ここまで話をして、わかったと思うが……」
ヴァイスさんが、机の上に広げられた研究資料を見つめた。
「正直に言って、今の人数では手が足りん」
「……やっぱりそうですか」
「ああ。苔の基礎的な性質を調べるだけなら何とかなるが、実用化まで進めるとなると話は別だ」
「そうですよね」
「それに、私が取り組んでいる研究は苔だけではない。魔石に関する研究もあるし、蒸気機関の開発についても、ルッツたちから相談を受けることがある」
確かに、ヴァイスさんにはいろいろな分野で力を貸してもらっている。
このままでは、研究が増えるたびにヴァイスさんの負担も大きくなってしまう。
「それなら、研究員を増やしましょう」
「……いいのかね?」
「もちろんです。研究を進めるために必要なら、人を増やした方がいいと思うんです」
研究員を増やせば、その分だけ費用もかかる。
でも、新しい技術を実用化できれば、それ以上の成果が得られる可能性もある。
研究開発は、ハル領の将来を考えれば欠かせないものだ。
「ただ、一つだけ気になることがあるんです」
「何だね?」
「これからヴァイスさんが扱う研究には、ハル領の重要な技術だけでなく、王国全体に関わる機密情報も含まれるかもしれませんよね」
「ああ。そうだろうな」
「ですから、誰でもいいというわけにはいかないと思うんです」
以前、共鳴石通信機の情報を狙ったスパイが領に入り込んだ事件があった。
あのときのことを考えると、研究員を増やす際にも十分な注意が必要だ。
「研究者としての能力はもちろんですが、信頼できる人であることも大切だと思います」
「……なるほどな」
「それに、最初からすべての研究資料を見せる必要もありませんよね。担当する研究に必要な情報だけを共有する形にしたいんです」
「情報を分けて管理するわけだな」
「はい。今、蒸気機関の工房でもそうしてもらっています」
「それなら、研究室でも同じ方法を取り入れよう」
ヴァイスさんが頷いた。
すると、少し考えるような表情を浮かべた。
「……実はな、研究員のことなら、少し心当たりがあるんだ」
「……えっ?」
「王立研究所に、以前から目をつけている若い研究者が三人いてな」
「王立研究所に?」
「ああ。三人とも、まだ若いが、なかなか優秀な連中だ」
「それは心強いですね!」
「それに、以前からこの領の研究に興味を持っているんだよ」
「……本当ですか!?」
「ああ。実験用の資材を取り寄せる時にやり取りをしているんだが、この領で進んでいる研究について、いろいろ聞かれていたんだ」
「へえ! それは嬉しいですね!」
「一人は魔石の研究に興味を持っている。もう一人は植物の研究が好きで、特にアノー山の苔について知りたがっていたな」
「それなら、今回の研究にも参加してもらえそうですね!」
「ああ。そして、最後の一人は蒸気機関だ」
「蒸気機関ですか?」
「そうだ。どうやら、この領で蒸気機関を開発しているという話を聞いて、ずいぶん興味を持ったらしい」
「そうなんですね!」
蒸気機関の研究に興味を持ってくれるのは、ありがたい。
今はルッツさんたちが中心になって開発を進めているが、研究者の視点から新しい発見が生まれることもあるだろう。
「三人とも、ここで今までにない研究が進んでいると聞いて、研究してみたいと話していたんだ」
「……それはすごく嬉しいです!」
俺は思わず笑顔になった。
研究者の方から、この領で働いてみたいと思ってもらえる。
それだけ、この領地で進めている研究が注目されているということだ。
「ただ、三人とも興味を持っている分野は違うんですね」
「ああ。だから、全員に苔の研究をさせるつもりはないぞ」
「そうですよね。せっかく来てもらうなら、それぞれ興味のある研究に取り組んでほしいです」
「私もそう考えている。苔に興味を持っている者には、今回の研究を中心に担当してもらう。ほかの二人にも、それぞれの分野で力を発揮してもらいたい」
「それなら、ヴァイスさんが一人で抱えている研究も分担できますね」
「そういうことだ。私も苔の研究に、もっと時間を割けるようになるだろう」
……なるほど。
研究員を増やすことは、単に人手を増やすことではない。
それぞれの得意分野を生かせる体制を造ることが大切だ。
「でも、ヴァイスさん」
「何だね?」
「王立研究所から三人も来てもらって、大丈夫なんでしょうか?」
「……何がだ?」
「王立研究所だって、研究員が必要だから雇っているわけですよね? 三人がいなくなったら、担当している研究に影響が出ないかと思いまして」
すると、ヴァイスさんが笑った。
「はははっ! そんな心配をしていたのか!」
「はい」
「王立研究所には、研究員だけで百五十人もいるんだぞ。二人や三人、こちらに来たところで研究所全体がどうにかなることはない」
「確かに、あれだけ大きな研究所ですもんね」
以前、俺も王立研究所に出入りしていたことがある。
研究室がいくつも並び、それぞれの分野で大勢の研究者が働いていた。
研究員だけで百五十人という話を聞いても、不思議ではない。
もちろん、人数が多いからといって、誰が抜けても問題ないというわけではないだろう。
それぞれ担当している研究もあるはずだ。
「ただ、今進めている研究の引き継ぎなんかは必要になりますよね?」
「ああ。もちろんだ。そこは研究所の責任者と話をつけるつもりだ」
「それなら安心ですね」
「それに、研究者というのは、自分が興味を持ったことを研究できる場所でこそ力を発揮するものだ」
ヴァイスさんが、机の上の資料を指さした。
「王立研究所では、研究したいことがあっても、予算や設備、研究方針の関係で自由に進められないこともある」
「ここなら、比較的自由に研究できるかもしれませんね」
「ああ。それに、君の領には工房もある。新しい技術を考えたら、実際に造って試すこともできるだろう?」
「確かに、それはこの領の強みかもしれませんね」
研究と製造が近い場所にある。
これは、前世の企業経営でも重要だったことだ。
研究室で新しい材料を造っても、実際に使えなければ意味がない。
逆に、製造現場で問題が見つかれば、研究者が原因を調べ、改良につなげることができる。
研究者と職人が協力できる環境は、これからの領にとって大きな財産になるはずだ。
「それにしても、ヴァイスさんが以前から目をつけていた三人なんですよね?」
「ああ。研究に対する姿勢は、私もよく知っている」
「それなら、ぜひ一度会ってみたいです」
「わかった。まずは三人に連絡してみよう」
「ありがとうございます!」
「もっとも、本人たちが本当に移住する気があるかは、改めて確認しなければならんがな」
「それはもちろんですね」
俺は頷いた。
「それと、採用する前に、身元やこれまでの経歴も確認させてもらいたいんです」
「……ふむ。慎重だな」
「はい。ヴァイスさんが信頼している人たちでも、領主として必要な確認はしておきたいですから」
「ははっ! それでいい。むしろ、その方が安心だ」
ヴァイスさんが笑った。
「ところで、ハル」
「はい?」
「もし三人が来ることになったら、研究室の設備も増やしたいんだが、構わないか?」
「もちろんです!」
俺はすぐに頷いた。
「ただ、必要な設備と費用は、一度整理してもらえますか?」
「ああ。それは私も考えていた」
「魔石、苔、蒸気機関では、研究に必要な設備も違いますからね」
「そうだな」
「それに、三人がどんな研究をしたいのか、実際に話を聞いてから決めた方がいいものもあると思うんです」
「確かにな。最初から何もかも揃える必要はないか」
「はい。まずは、今ある設備を活用できないか考えましょう。それでも足りないものは、順番に整えていけばいいと思います」
研究設備にはお金がかかる。
必要な投資を惜しむつもりはないけど、何に使うのかもわからないまま設備を買い揃えるのは避けたい。
「それから、研究員の待遇もちゃんと考えたいんです」
「待遇か?」
「はい。給料や住む場所もそうですが、研究に必要な予算や、仕事の進め方も大事だと思うんです」
「……なるほどな」
「この領に来てもらうなら、安心して研究に集中できる環境を整えたいですから」
研究者を雇うだけでは意味がない。
その人たちが持っている能力を、十分に発揮できる環境が必要だ。
「それと、研究員同士で協力できるようにもしたいですね」
「……共同研究か?」
「はい。専門分野が違っても、研究しているうちに共通する問題が出てくるかもしれませんよね?」
例えば、苔を使った排ガス浄化装置を造るなら、実際の蒸気機関で試験する必要がある。
そのときには、苔を研究している人だけでなく、蒸気機関を研究している人の知識も役立つはずだ。
「でも、機密情報については共有する範囲をきちんと決めておきたいんです」
「ああ。研究を進めるために必要な情報と、機密として守るべき情報は分けて管理しよう」
「ありがとうございます!」
「そのあたりは、私が責任を持って進めるつもりだ」
ヴァイスさんが頼もしく頷いた。
◇
そのあと、俺たちは今後の研究の進め方について話し合った。
まずは、苔の研究を優先することにした。
水に含まれる鉱毒をどの程度取り除けるのか。
どのくらい使うと吸着能力が落ちるのか。
そして、乾燥や加工によって性質がどう変化するのか。
このあたりを詳しく調べることが、実用化への第一歩になる。
「まずは、水の浄化から進めたいですね」
「私もそのつもりだ。今の研究成果を生かしやすいからな」
「煙の方は、試験装置の準備を進めながら、少しずつ調べていきましょう」
「ああ。こちらも準備しておこう」
「それから、もし苔の研究に必要な人手がまだ足りなかったら、遠慮なく言ってくださいね」
「わかった。そのときは相談させてもらおう」
俺は頷いた。
新しい技術を造るとき、一度に何もかも完成させる必要はない。
まず、確かめられることから始める。
結果を調べ、問題を見つけて、改良する。
それを繰り返していくことが大切なんだと思う。
「それでは、三人への連絡はお願いしてもいいですか?」
「ああ。まずは共鳴石通信ですぐに連絡する」
「よろしくお願いします!」
「任せておけ」
ヴァイスさんが頷いた。
◇
研究室を出る前に、俺はもう一度、机の上に置かれた苔を見つめた。
アノー山で見つかった、小さな植物。
今はまだ、鉱毒を吸着するという性質の一部がわかっただけだ。
でも、その性質を詳しく調べていけば、水をきれいにしたり、煙に含まれる有害物質を減らしたりできるかもしれない。
そして、そのためには、研究を続けてくれる人たちが必要だ。
昨日は、経験豊富な四人の職人が工房に加わった。
今度は、王立研究所の若い研究者たちが、この領に来てくれるかもしれない。
経験を生かして、新しいものを造ろうとする人たち。
そして、まだ誰も知らないことを解き明かそうとする人たち。
そんな人たちが集まって、一緒に仕事ができる領地になっていったら嬉しいな。
……よし。
研究者たちが来てくれることになったら、しっかり迎え入れられるように準備しよう。
もちろん、研究が進むのも楽しみだ。
魔石に、苔に、蒸気機関。
どれも、まだまだ可能性を秘めているものばかりだ。
これから、どんな発見が生まれるんだろう。
考えただけで、わくわくしてきた!
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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