第622話 水を測る
新連載はじめました!
『王女殿下、まずは拳をお下げください ~転生執事と最強王女の成り上がり~』という作品です。
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数日後。
政務所で仕事をしていると、ヴァイスさんが訪ねてきた。
「ハル。少し時間をもらえるか?」
「もちろんです。どうしたんですか?」
「アノー山の水について、興味深い結果が出たんだ」
「おお!苔の研究が進んだんですか?」
「ああ。それに関連して、川の水も調べてみたのだよ」
「川の水?」
「アノー山から流れてくる水だ。ほかの地域の川や井戸の水と比較してみたんだ」
「へえ!」
ヴァイスさんが何枚もの紙を机に広げた。
そこには、採水した場所や調査した項目が細かく書かれている。
「まず、濁りが非常に少ない」
「そうですね」
「それから、同じ量の水をそれぞれ蒸発させて、残った物質の量も比較してみた」
「蒸発させるんですか?」
「ああ。水の中に溶けている物質の一部は、水が蒸発した後にも残るからな」
「なるほど!」
「アノー山の水は、その量も少なかったんだ」
「それって、すごくきれいな水ということですか?」
「調べた範囲では、そう考えてよいだろうね」
ヴァイスさんが頷いた。
「ほかにも、いくつかの成分について調べたが、有害なものはほとんど検出されなかった」
「おお!」
それはすごいな。
「もしかして、あの苔のおかげですか?」
「可能性はある。ただ、まだ断定することはできないな」
「そうなんですか?」
「ああ。苔が水質にどれほど影響しているのかを知るには、苔の多い場所と少ない場所で、さらに詳しく調べる必要がある」
「なるほど」
「だが、あの苔に水を浄化する能力があることは、これまでの研究でも確認できている。関係がある可能性は十分にあるよ」
……さすがだな。
ただ水がきれいだというだけでなく、その理由まで調べようとしているんだ。
「ヴァイスさん」
「何かね?」
「その水って、飲み水にも使えるんでしょうか?」
「水源としては有望だと思う」
「本当ですか!」
「ただし、まだ安全だと言い切ることはできないな」
「どうしてですか?」
「目に見えない病気の原因が含まれている可能性もあるからだ」
「ああ……」
そうか。
透明な水だからといって、そのまま飲んでいいわけじゃないんだ。
「だから、飲み水として使うなら、衛生面の対策も考える必要があるだろう」
「なるほど」
「それでも、これだけ良質な水が得られるのは大きい。さらに調べる価値は十分にある」
……いいな。
アノー山の苔が、こんなところでも役に立つなんて。
◇
「それから、もう一つ」
ヴァイスさんが別の資料を取り出した。
「水量についても調べた」
「水量ですか?」
「ああ。どれほど水質がよくても、使える水が少なければ意味がないだろう?」
「確かに!」
「そこで、何か所かで川幅や水深、それに水の流れる速さを調べてもらった」
「へえ!」
「そこから、おおよその流量を計算したんだ」
資料には、測定した場所ごとの数字が並んでいる。
「それで、どうでした?」
「現在の領都で必要とされている水の量と比べても、かなり余裕があると考えられる」
「おお!」
水質がよくて、水量も豊富。
これはすごいな!
「ただし、今回の調査は限られた期間のものだ」
「はい」
「雨の少ない季節にも同じように水が流れているか、引き続き調べる必要がある」
「ああ、そうですね」
「それに、川の水は農業にも利用されている。すべてを自由に使えるわけではない」
「もちろんです」
農業用水を減らして、農家の人たちを困らせるわけにはいかない。
ただ、これだけ良質な水がこれほど豊富に流れている。
だったら。
「ヴァイスさん」
「何かね?」
「この水を、領都まで引けないでしょうか?」
「……領都まで?」
「はい。上水道を作りたいんです」
ヴァイスさんが興味深そうに俺を見た。
「上水道?」
「川から水を引いて、水路を通して領都まで運ぶんです」
「ほう……」
「そうすれば、領都でも良質な水をたくさん使えるようになりますよね?」
「なるほど。面白い考えだ」
ヴァイスさんが腕を組んだ。
「ただ、かなりの距離があるのではないか?」
「そうなんですよね」
アノー山から流れてきた川は、アナハイムの近くを通っている。
ビダン山方面からの水も合流し、その先で川が東西に分かれている。
東側の流れは、レイ湿原へ向かっていた。
もし実現できれば、飲み水だけじゃない。
洗濯や掃除にも使えるし、工房でも利用できる。
火事が起きたときにも役立つだろう。
「ただ、アナハイムから領都までって、ほとんど平らだった気がするんですよね」
「そうだったか?」
「はい。馬車で移動したときも、大きな坂はなかったような……」
「ふむ」
ヴァイスさんが少し考えた。
「ハル。平らに見えることと、実際に高低差がないことは別だよ」
「……あっ」
そうか。
「水を自然に流すなら、取水地点と領都の高さを比べる必要がある」
「そうですよね」
「それに、途中に高い土地があれば、そこをどう通すか考えなければならない」
「ああ……」
確かに。
人が歩くには平らに見えても、水が流れるとは限らない。
水は、勝手に坂を上ってくれないからな。
「それに、仮に領都の方が低かったとしても、どこを通すかによって工事の難しさは変わるだろう」
「なるほど。だったら、まずは測量ですね!」
「そうなるだろうな」
……測量か。
そういえば、この世界ではどうやって土地の高さを測っているんだろう?
◇
俺はローレンを呼んだ。
「リオン様。お呼びでしょうか」
「うん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「何でしょう?」
「道路や水路を造るときって、土地の高さをどうやって調べているの?」
「土地の高さ、ですか?」
「うん。離れた場所同士で、どちらが高いか調べる方法」
「それでしたら、土木工事を担当する者たちが測量をしております」
「どういう道具を使っているの?」
「水を使って水平を確かめる道具や、目盛りのついた棒などですな」
「実際に見せてもらえる?」
「もちろんです。手配いたしましょう」
◇
翌日。
俺はヴァイスさんと一緒に、領都の道路工事現場を訪れた。
ローレンが手配してくれた職人が、測量道具を用意してくれている。
「リオン様。こちらが水平を確かめる道具です」
木製の台の上に、細長い容器が載っていた。
中には水が入っている。
「この水面を基準にして、水平を確認します」
「なるほど!」
「それから、こちらが目盛りをつけた棒です」
「これで高さを測るんだね」
「はい。水平を確かめながら、離れた場所の高さを比べていきます」
職人が実際に測ってみせてくれた。
ちゃんと工夫されているんだな。
「これって、遠くまで測ることもできるの?」
「できます。ただ、少しずつ場所を移しながら調べることになります」
「そっか」
「そのたびに水平を確かめ直しますので、距離が長くなるほど手間がかかります」
領都からアナハイムまで測るとなれば、大変な作業になりそうだ。
そこで、ふと考えた。
水面が水平になる性質を使うなら……。
「ヴァイスさん」
「何かね?」
「水を使って、もっと簡単に二つの場所の高さを比べられませんか?」
「ふむ。何か考えがあるのか?」
「例えば、二つの容器を管でつないだらどうでしょう?」
「……管?」
「はい」
俺は紙とペンを借りた。
二本の細長い容器を描き、その下を一本の管でつなぐ。
「こんな形です」
ヴァイスさんと職人が図を覗き込んだ。
「ほう……」
「片方をこっちに置いて、もう片方を少し離れた場所に置くんです」
「なるほど」
「水って、つながっていれば同じ高さになりますよね?」
「ああ。静止した水なら、つながった容器の水面は同じ高さになる」
「だったら、両方に目盛りをつければ、高さの違いがわかりませんか?」
ヴァイスさんが頷いた。
「原理としては可能だろうね」
「はい!」
「ただ、管の中に空気が残ったり、水が動いている途中だったりすれば、正しく測れないかもしれない」
「ああ……」
「それに、長い管を使うなら、扱いやすさも考えなければならないな」
……そっか。
でも、試してみる価値はありそうだ。
すると、職人が口を開いた。
「短い距離なら、作れるかもしれません」
「本当?」
「はい。両端にガラス管をつけ、間を水が通る管でつなげればよいのでしょう?」
「そうそう!」
「ただ、つなぎ目から水が漏れないようにする必要があります」
「なるほど」
ヴァイスさんが図を見つめた。
「面白い。まずは試してみるか」
「じゃあ、お願いできますか?」
「承知しました」
職人が頷いた。
……よし!
◇
数日後。
試作品ができたというので、再び工事現場へ向かった。
そこには、二本の透明なガラス管と、それらをつなぐ細い管が用意されていた。
両端のガラス管は、目盛りをつけた木製の棒に固定されている。
「リオン様。ご提案いただいたものを作ってみました」
「おお!」
思っていたより、しっかりした作りだ。
「では、水を入れてみましょう」
職人が慎重に水を注いだ。
両方のガラス管に、水が入っていく。
「なるほど……」
ヴァイスさんが興味深そうに覗き込んだ。
「まずは、二つの棒を同じ高さに置いてみよう」
「はい」
職人たちが、あらかじめ高さを揃えておいた二つの台に棒を立てる。
水の動きが落ち着くのを待った。
「……どうでしょう?」
ヴァイスさんが目盛りを確認する。
「ふむ……」
……ん?
何だか、難しい顔をしているな。
「ヴァイスさん?」
「左右の目盛りが一致していない」
「……えっ?」
俺も覗いてみた。
確かに、少しずれている。
「あれ?」
高さを揃えた台に置いているんだから、同じ位置を示すはずなのに。
「もしかして、道具の作り方が悪かったのでしょうか?」
職人が心配そうに言った。
「いや、まだわからない」
ヴァイスさんが答えた。
「まずは、原因を調べてみよう」
「はい」
「ハル。君は、何が原因だと思う?」
「えっ? 俺ですか?」
「ああ。せっかく考えた道具だからね」
……うーん。
水が同じ高さにならない理由か。
容器の太さ?
いや、つながっているなら、普通は同じ高さになるはずだ。
だったら……。
「あっ。管の中に空気が入っているとか?」
「可能性はある」
ヴァイスさんが管を指さした。
「ここを見てごらん」
……ん?
よく見ると、管の途中に小さな泡があった。
「あっ!」
「これが水のつながりを妨げているのかもしれない」
「なるほど!」
職人が管を持ち上げ、ゆっくりと傾けた。
すると、中の泡が少しずつ移動していく。
水を足しながら、空気を外へ追い出した。
「これでどうでしょう?」
「もう一度、確かめてみよう」
職人が二本の棒を台に戻す。
水の動きが落ち着くのを待った。
ヴァイスさんが目盛りを確認する。
「……ふむ」
「どうですか?」
「さっきより、ずいぶん近づいた」
「おお!」
やった!
……と思ったけど。
「ただ、まだわずかな違いがある」
「えっ?」
「目盛りの位置が完全に揃っているかも調べた方がよさそうだ」
そうか。
目盛りそのものがずれていたら、水面の高さが合っていても違う数字になる。
職人も頷いた。
「確かに、二本の棒は別々に目盛りをつけました。そこにも誤差があるかもしれません」
「なるほど」
ヴァイスさんが笑った。
「測る道具を作るというのは、なかなか難しいものだな」
「あはは。本当ですね」
「だが、だからこそ面白い」
……ヴァイスさんらしいな。
「では、棒の目盛りも調べ直そう」
「はい!」
職人たちは二本の棒を並べ、目盛りの位置を確かめた。
すると、片方の目盛りがわずかにずれていた。
「……ありました」
「おお!」
職人が目盛りを修正する。
そして、もう一度測定した。
今度は、左右の水面がほぼ同じ位置を示した。
「やった!」
思わず声を上げてしまった。
ヴァイスさんも嬉しそうに頷く。
「うん。これなら、次の試験に進めそうだ」
◇
「では、今度は片方の台を高くしてみよう」
ヴァイスさんが言った。
「はい」
職人が片方の台に、厚さを測っておいた木片を置いた。
その上に棒を立てる。
水面が落ち着くのを待った。
「……あっ!」
俺は思わず声を上げた。
「今度は、目盛りの位置が違う!」
左右の水面は同じ高さにある。
でも、地面から棒の上端までの高さが違うから、目盛りで読む数字に差が出るんだ。
ヴァイスさんが木片の厚さと測定結果を比べる。
「ふむ。おおむね一致しているね」
「おお!」
「では、棒の位置を入れ替えてみようか」
「えっ? どうしてですか?」
「道具に癖があって、たまたま正しい数字が出ている可能性もあるからだよ」
「……なるほど!」
職人が左右の棒を入れ替えた。
もう一度、水面が落ち着くのを待つ。
結果は、最初の測定とほぼ同じだった。
「今度はどうですか?」
「うん。よさそうだ」
ヴァイスさんが頷いた。
「ただし、まだ完成ではない」
「はい」
「何度も使って、同じような結果が得られるか確かめなければならない」
「そうですね」
「それから、今の管では長い距離を測るのが難しいだろう。実際に使うなら、もっと改良する必要がある」
……確かに。
管を引っ張りながら、何十キロも歩くわけにはいかない。
「だったら、今までの測量方法と組み合わせたらどうでしょう?」
「ほう?」
「短い距離ではこの道具を使って、それぞれの高さを記録するんです。その記録をつなげていけば、遠くまで調べられませんか?」
「なるほど」
ヴァイスさんが頷いた。
「その方法なら、現実的かもしれないな」
「はい!」
「ただ、測定を繰り返せば、誤差も積み重なっていく可能性がある」
「確かにそうですね」
「だから、測量の途中に基準となる地点を決めて、何度も確かめる必要があるだろう」
測った結果を記録する。
同じ場所を測り直す。
違う道具でも確かめてみる。
そうやって、少しずつ正確な数字に近づけていくわけだ。
「じゃあ、測量の記録も残すようにしましょう!」
「それがいいだろう」
「あと、重要な場所には目印を置いておくのはどうですか?」
「うむ。後から同じ場所を測れるようにしておくのは大切だ」
……いいね。
道具だけじゃなくて、測り方まで工夫できそうだ。
◇
その後、俺たちは工事現場の短い区間で、試しに高さを測ってみた。
職人が二本の棒を立てる。
水面が落ち着くのを待ち、目盛りを読み取った。
「こちらの方が、少し高いですね」
「どのくらい?」
職人が数字を読み上げる。
ヴァイスさんが記録用紙に書き込んだ。
「では、もう一度測ってみよう」
「はい」
今度は、道具を一度片づけてから、同じ場所を測り直した。
「……あれ?」
職人が首を傾げる。
「先ほどと、少し数字が違います」
「えっ?」
また失敗?
ヴァイスさんは、落ち着いた様子で記録を見比べた。
「ふむ。違いは小さいが、確かに一致していない」
「どうしましょう?」
「もう一度、測ってみよう。その前に、棒をしっかり立て直した方がよさそうだ」
職人が棒を確認する。
「あっ。こちらが少し傾いていました」
「なるほど」
確かに、棒が傾いていたら、正しい高さを測れない。
今度は、棒がまっすぐ立っていることを確かめてから測った。
「……どうでしょう?」
ヴァイスさんが数字を読み取る。
「うん。最初の結果にかなり近いね」
……なるほど。
道具が正しくても、使い方が悪ければ正しい数字は出ないのか。
「ヴァイスさん」
「何かね?」
「測量って、思った以上に難しいですね」
「ああ。特に長い距離を測るなら、わずかな違いも無視できないだろう」
「そうですよね」
「だから、道具を改良するだけでなく、誰が測っても同じ結果に近づけられるようにする必要がある」
蒸気機関車の試験と同じだ。
条件を揃えて、記録する。
失敗したら、原因を調べる。
そして、もう一度試す。
「これって、蒸気機関車の試験と似ていますね」
俺が言うと、ヴァイスさんが笑った。
「そのとおりだよ」
「やっぱり、研究ってそういうものなんですね」
「ああ。だからこそ、一度の結果だけで判断してはいけないのだ」
さすがだな。
◇
試験を終えた後、俺はローレンさんに話しかけた。
「ローレンさん」
「はい」
「アナハイム方面から領都まで、測量を始めたいんだ」
「承知しました」
「まずは、今ある道や川の位置がわかる資料を集めてもらえる?」
「はい。取水候補となる地点についても確認いたします」
「お願い!」
「測量に必要な人員についても、調べておきましょう」
「助かるよ!」
もちろん、いきなり水路を掘り始めるわけじゃない。
雨の少ない季節でも十分な水があるのか。
農業用水に影響はないのか。
飲み水として使うためには、どんな対策が必要なのか。
調べなければならないことは、まだたくさんある。
そして、何より大切なのが土地の高さだ。
アナハイムから領都までは、ほとんど平らだと思っていた。
でも、実際にはどうなんだろう?
取水地点より領都が低ければ、自然に水を流せるかもしれない。
逆に、途中に高い場所があれば、水路の通し方を考え直さなければならない。
ヴァイスさんが俺を見た。
「なかなか大きな仕事になりそうだな」
「そうですね」
「うまくいくと思うかね?」
「……正直、まだわかりません」
前世では、長い水路が造られていたことを知っている。
でも、同じことがこの領地でもできるとは限らない。
「ただ、調べてみたいんです」
「ほう」
「どこが高くて、どこが低いのか。それがわかれば、水を運ぶ方法も考えられますよね?」
「ああ。そのとおりだ」
ヴァイスさんが楽しそうに笑った。
「では、まずは測ってみよう」
「はい!」
アノー山から流れてくる、豊富で良質な水。
いつか、この水を領都まで届けたい。
そのためには、まず土地の高さを知らなければならない。
……よし!
上水道の建設に向けて、最初の一歩が始まった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
質の良い水を確保できるかどうかは領の成長にとって大事なことだと思います。




