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45歳社長、転生先でハズレスキル「綻びの目」を武器に没落領地を再建する  作者: アカメノコバチ
第21章 リオン・ハル男爵

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第615話 初夏の水田

 五月も終わりに近づいていた。


 朝の庭にはまだ涼しい風が通るが、日が高くなると汗ばむようになった。


 木々の葉は濃さを増し、遠くから鳥の声が聞こえてくる。


「リオン、今日はレイ湿原に行くんだよね?」


 朝食を終えたところで、ミラが尋ねた。


「うん。アーロンから、最初の試験水田で田植えがほとんど終わったって連絡が来たんだ」


「もう? この前まで、葦を刈っていたのに」


「本当だよね。俺も実際に見ておきたくてさ」


「私も行きたい!」


「もちろん。そのつもりだったよ」


 アノー山を調査してから、数日が過ぎていた。


 ヴァイスさんは持ち帰った苔を観察しながら、ルッツさんたちと蒸気機関の試験についても話し合っている。


 苔の方は、まだ分からないことだらけらしい。


 昨日も、木箱の中を確かめては、楽しそうに記録を書いていた。


 研究所の場所も考えないといけないけど、今日は別の仕事だ。


「アーロンさんも頑張ってるんだね」


「うん。セルヴァンの人たちから、毎日いろいろ教わってるみたい」


 俺たちは支度を済ませ、屋敷を出た。


 ◇


 レイ湿原。


 背丈ほどに伸びた草が、風を受けて一斉に傾く。


 少し離れたところでは、まだ水路を掘る人たちの姿が見えた。


 その先に。


「……あっ」


 ミラが身を乗り出す。


 四角く区切られた地面に、水が張られている。


 よく見ると、水面から細い緑の葉が伸びている。何本もの苗が、まだ頼りなげに並んでいた。


「田んぼだ……」


 思わず声が漏れた。


 風が通り抜ける。


 水面の雲がほどけ、細い苗が小さく揺れる。風がやむと、また空が映った。


 水田は、湿原全体から見ればほんの一角だ。


 手前には苗を植えたばかりの田んぼ。


 その隣では人々が畦を直し、さらに向こうには手つかずの湿原が続いている。


「……きれいだね」


 ミラがつぶやいた。


「うん。こんな景色になるんだな」


 何もなかった場所じゃない。


 ここにはもともと湿原があった。


 それを、人が暮らしを営める土地へ、少しずつ変えようとしているんだ。


 ◇


 田んぼのそばには、苗の入った籠がいくつか並んでいる。浅い水を踏む音と、作業する人たちの声が重なっていた。


「あっ、アーロン!」


 俺が呼ぶと、水田の中から一人の男が顔を上げた。


「男爵様!ミラ様も!」


 アーロンだった。


 膝を曲げて泥の中に立ち、片手に苗を持っている。裾も腕も、すっかり汚れていた。


「ずいぶん泥だらけだね」


「はは。これでも朝よりはましになったんですよ」


「田植えは、もう終わりそう?」


「はい。こちらの列を植えれば、最初の試験区画はひととおり終わります」


 その時、隣にいたセルヴァンの農業指導者が声をかけた。


「アーロンさん、そこはもう少し浅く植えてください」


「あっ、また深すぎましたか」


 アーロンが植えた苗をそっと抜き、教わったとおりに植え直す。


「今度はどうでしょう?」


「ええ。そのくらいで大丈夫です」


 アーロンがほっと息をついた。


「……まだまだですね」


「畑仕事の経験があるって聞いたけど、田んぼは違う?」


「まるで違います。泥の深さも、水の量も気にしなくてはいけません。それに、苗を植えるだけでなく、ちゃんと根づくまで見てやらないと」


 アーロンは足元の苗を見下ろした。


「ですが、面白いですよ。昨日まで知らなかったことが、今日は少しできるようになるんです」


 指導者が笑った。


「アーロンさんはよく覚えていますよ。教えたことを、ほかの人にも伝えてくれますから」


「いやあ、まだ自分のことで精いっぱいです」


 照れくさそうに笑いながらも、アーロンはまた腰をかがめた。


 セルヴァンの専門家が教え、領内の人々が学ぶ。


 同じ泥の中で、みんなが一つの田んぼを作っている。


 その光景が、何だか嬉しかった。


 ◇


 田植えを終えた区画へ案内してもらった。


 水の中には、まだ細い苗が規則正しく並んでいる。


 ところどころ列が曲がっているのは、植えた人によって少しずつ癖が違うかららしい。


「今年は試験ですからね。植えた場所や日付も、区画ごとに記録しています」


 アーロンが畦に置かれた木札を見せてくれた。


「田植えが終わったら、少しは楽になるのかな?」


「大人数で植える作業はひと段落します。でも、今度は水の管理が始まるんです」


 畦の脇には、目盛りを刻んだ木の棒が立っていた。


「これで水の深さを見ています。苗が水に沈みすぎても、土が出てしまっても困るそうで」


「毎日確認するの?」


「はい。特に新しい田んぼは、畦が落ち着いていませんから」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、アーロンの視線が水田の端へ向いた。


「……あれ?」


「どうしたの?」


「あそこの水の流れが、少しおかしいですね」


 アーロンが畦に沿って歩き始めた。


 俺とミラも後を追う。


 田んぼの角から、細い水の筋が外へ流れ出していた。


 泥の一部が崩れ、小さな穴ができている。


「水が漏れてる!」


「はい。このままだと畦がもっと削られます」


 アーロンは近くの農民を呼んだ。


「ここの土を少し持ってきてくれ。それと、向こうの水口を一度絞ってもらえるか?」


「分かった!」


 指導者も近づいてくる。


「よく気づきましたね。まず水の勢いを弱めましょう」


「はい。前に教わったとおり、漏れたところだけ埋めても、また崩れるかもしれませんから」


 アーロンは運ばれてきた土を足で丁寧に踏み固めた。


 しばらくすると、外へ流れていた水が止まった。


「……ふう。これでどうでしょう?」


 指導者が畦を確かめる。


「大丈夫そうです。あとで、もう一度見に来ましょう」


「はい!」


 アーロンが泥の付いた額を腕で拭った。


「田植えが終わっても、やることは多いね」


「ええ。でも、今のは前に教わっていたので、慌てずに済みました」


「ちゃんと身についてるじゃない」


 ミラが言うと、アーロンは少し照れた。


「まだ先生方に見てもらわないと不安ですけどね」


 ……それでいいと思う。


 最初から何でもできる人なんていない。


 こうして一つずつ覚えて、やがてアーロンがほかの人に教えるようになるんだろう。


 ◇


 少し歩き、田んぼに水を送る用水路へ向かった。


 浅い流れの底には、丸い小石が見えている。日の光が差すたび、水の模様が石の上を動いた。


「……本当に澄んだ水だね」


 ミラがしゃがみ込む。


「ビダン山から流れてくる水です」


 アーロンが答えた。


「最初に調べた時から濁りが少なくて、セルヴァンの方々にも驚かれました」


 指導者が頷く。


「今のところ、水量も安定しています。これほど澄んだ水が使えるのは、ありがたいことです」


「米作りには、すごくいい水なんですね」


「ええ。ただ、少し冷たいのが難点です」


 ミラが指先を水につけた。


「わっ。冷たい!」


 俺も触ってみる。


 初夏の日差しの下だというのに、指の先からひんやりとした冷たさが伝わってきた。


「山からの冷たい水を、苗に直接たくさん入れないようにしているんです」


 指導者が、ゆるく曲がった浅い水路を示した。


「日が当たるところを通して、少しでも水温が上がるようにしています」


 なるほど。


 水質がよくても、冷たすぎれば稲にはよくないのか。


「それに、濁っていないからといって、何でも安心というわけではありません」


 指導者が続けた。


「今は田んぼの水として問題が出ていませんが、これからも様子を見る必要があります」


「うん。そこは慎重にやろう」


 俺はもう一度、流れを眺めた。


 澄んだ水が絶え間なく運ばれていく。


 アーシタ山の銅、ビダン山の共鳴石と硬化石、リンクス山の石炭。


 ノア山脈の資源ばかりに目を向けていたけど、水だって立派な恵みじゃないか。


 しかも、鉱石と違って、流れてくる限り毎日の暮らしを支えられる。


 ……待てよ。


「リオン?」


 ミラが俺の顔を覗き込む。


「また何か考えてるでしょ?」


「……分かる?」


「分かるよ。急に黙ったもの」


 俺は笑いながら、用水路を指さした。


「この水、領都まで引けないかなって思ったんだ」


「領都まで?」


「うん。上水道みたいなものを作れたら、便利じゃない?」


「じょうすいどう?」


「ああ、山や川からきれいな水を引いて、町の人たちが使えるようにする仕組みだよ」


「そんなことができるの?」


「できると思う。最初は町の何か所かに水汲み場を作るだけでもいいんだ。そうすれば、遠くまで水を汲みに行かなくて済むでしょ?」


「それは助かるね。毎日のことだもの」


 ミラの目が、水を汲む人たちの姿を思い描くように細められた。


「それに、きれいな水を安定して使えるなら、暮らしも変わりそう」


「でしょ?」


 すると、アーロンが少し困ったような顔をした。


「男爵様。田んぼの水も、残していただけますよね?」


「あっ、もちろん!」


 そうだ。


 せっかく苦労して水田を造ったのに、町へ水を送ったせいで干上がってしまったら意味がない。


「取るなら、この用水路からじゃなくて、もっと上流だね。農業用水とは分けないと」


「それなら安心です。ただ、今は十分でも、雨の少ない時期や冬にどうなるかは分かりません」


「水の量も、一年を通して調べる必要があるってことか」


「はい」


 アーロンが頷いた。


 農業を学んでいるからこそ、気づくこともあるんだろう。


「それから、飲み水にするなら調べることがもっと増えるよね」


 ミラが言った。


「うん。この水が澄んでいるからって、そのまま飲めるとは限らないし」


 つい先日、アノー山でヴァイスさんにも注意されたばかりだ。


 水源を守ること。


 水質を確かめ、必要ならきれいにすること。


 そして、領都まで水を運ぶ方法。


 前世のように、各家庭で蛇口をひねれば水が出るところまで、いきなり目指すつもりはない。


 まずは、共同の水汲み場からでも十分だ。


「ただ、領都まで水が流れるかどうかは、高低差を調べないと分からないな」


「高低差?」


「取水する場所と領都の高さだよ。途中で高い土地を越えないといけないなら、そのまま流すのは難しいから」


 ミラが遠くの山並みを見た。


「思っていたより、大がかりな話なんだね」


「そうなんだよ。硬化石で水を通す設備を作れるかもしれないけど、そっちもまだ実験していないし」


 まずは調べることが先だ。


「帰ったら、ローレンさんと相談してみる。水源と地形の調査からだね」


「うん。それがいいと思う」


 ミラが微笑んだ。


「でも、もし実現したら、喜ぶ人がたくさんいそうだね」


 俺は用水路へ目を戻した。


「……そうだね」


 ◇


 帰る前に、もう一度、最初の試験水田を見渡した。


 最後の列にも苗が植えられたらしい。


 泥だらけの人たちが畦へ上がり、互いに顔を見合わせて笑っている。


「終わりました!」


 アーロンがこちらへ歩いてきた。


「試験区画の田植えは、これでひととおり終わりです」


「お疲れさま!」


 俺が言うと、近くにいた人たちも笑った。


 セルヴァンの専門家は、まだ水面を確かめている。


「ここからが大切ですよ。明日も朝から見回りましょう」


「はい。よろしくお願いします!」


 アーロンの返事は、疲れているはずなのに力強かった。


 少し前まで草に覆われていた一角に、今は田んぼがある。


 小さな苗は、まだ頼りない。


 秋に米が実るかどうかだって、分からない。


 それでも、ここには今日までの仕事が残っている。


 草を刈った人。


 水路を掘った人。


 畦を築いた人。


 苗を育て、田に植えた人。


 そして、覚えたことを次の人へ伝えようとしている人。


 俺はアーロンに声をかけた。


「収穫まで、よろしくね」


「はい。セルヴァンの皆さんから、もっと学びます」


「無理はしないでね」


「ありがとうございます。でも、毎朝ここを見るのが楽しみなんです」


 そう言って、アーロンは苗の並ぶ水田を振り返った。


 風が吹く。


 水面に映る雲が揺れ、細い緑の葉がいっせいに傾く。


 向こうでは、ビダン山からの水が流れていた。


 この水が、田んぼを育てる。


 いつかは、領都で暮らす人たちの毎日も支えてくれるかもしれない。


 でも、まずは目の前の小さな苗からだ。


 初夏の光の中で、田植えを終えたばかりの水田が、静かに空を映していた。



最後まで読んでいただきありがとうございます。

水田を見ながら上水道について考えるリオン。

彼は思い出していた。かつてYoutubeでみた玉川上水の歴史を。

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― 新着の感想 ―
あれ?ミラは転移魔法を知ってるっけ?
2026/10/21 21:54 アルテイシア
コメが出来たら次はカレーの開発ですな。
山からの冷水対策は、奈曽川温水路群を参考に。 ここにきて、水利権の話が出てきたか。
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