第615話 初夏の水田
五月も終わりに近づいていた。
朝の庭にはまだ涼しい風が通るが、日が高くなると汗ばむようになった。
木々の葉は濃さを増し、遠くから鳥の声が聞こえてくる。
「リオン、今日はレイ湿原に行くんだよね?」
朝食を終えたところで、ミラが尋ねた。
「うん。アーロンから、最初の試験水田で田植えがほとんど終わったって連絡が来たんだ」
「もう? この前まで、葦を刈っていたのに」
「本当だよね。俺も実際に見ておきたくてさ」
「私も行きたい!」
「もちろん。そのつもりだったよ」
アノー山を調査してから、数日が過ぎていた。
ヴァイスさんは持ち帰った苔を観察しながら、ルッツさんたちと蒸気機関の試験についても話し合っている。
苔の方は、まだ分からないことだらけらしい。
昨日も、木箱の中を確かめては、楽しそうに記録を書いていた。
研究所の場所も考えないといけないけど、今日は別の仕事だ。
「アーロンさんも頑張ってるんだね」
「うん。セルヴァンの人たちから、毎日いろいろ教わってるみたい」
俺たちは支度を済ませ、屋敷を出た。
◇
レイ湿原。
背丈ほどに伸びた草が、風を受けて一斉に傾く。
少し離れたところでは、まだ水路を掘る人たちの姿が見えた。
その先に。
「……あっ」
ミラが身を乗り出す。
四角く区切られた地面に、水が張られている。
よく見ると、水面から細い緑の葉が伸びている。何本もの苗が、まだ頼りなげに並んでいた。
「田んぼだ……」
思わず声が漏れた。
風が通り抜ける。
水面の雲がほどけ、細い苗が小さく揺れる。風がやむと、また空が映った。
水田は、湿原全体から見ればほんの一角だ。
手前には苗を植えたばかりの田んぼ。
その隣では人々が畦を直し、さらに向こうには手つかずの湿原が続いている。
「……きれいだね」
ミラがつぶやいた。
「うん。こんな景色になるんだな」
何もなかった場所じゃない。
ここにはもともと湿原があった。
それを、人が暮らしを営める土地へ、少しずつ変えようとしているんだ。
◇
田んぼのそばには、苗の入った籠がいくつか並んでいる。浅い水を踏む音と、作業する人たちの声が重なっていた。
「あっ、アーロン!」
俺が呼ぶと、水田の中から一人の男が顔を上げた。
「男爵様!ミラ様も!」
アーロンだった。
膝を曲げて泥の中に立ち、片手に苗を持っている。裾も腕も、すっかり汚れていた。
「ずいぶん泥だらけだね」
「はは。これでも朝よりはましになったんですよ」
「田植えは、もう終わりそう?」
「はい。こちらの列を植えれば、最初の試験区画はひととおり終わります」
その時、隣にいたセルヴァンの農業指導者が声をかけた。
「アーロンさん、そこはもう少し浅く植えてください」
「あっ、また深すぎましたか」
アーロンが植えた苗をそっと抜き、教わったとおりに植え直す。
「今度はどうでしょう?」
「ええ。そのくらいで大丈夫です」
アーロンがほっと息をついた。
「……まだまだですね」
「畑仕事の経験があるって聞いたけど、田んぼは違う?」
「まるで違います。泥の深さも、水の量も気にしなくてはいけません。それに、苗を植えるだけでなく、ちゃんと根づくまで見てやらないと」
アーロンは足元の苗を見下ろした。
「ですが、面白いですよ。昨日まで知らなかったことが、今日は少しできるようになるんです」
指導者が笑った。
「アーロンさんはよく覚えていますよ。教えたことを、ほかの人にも伝えてくれますから」
「いやあ、まだ自分のことで精いっぱいです」
照れくさそうに笑いながらも、アーロンはまた腰をかがめた。
セルヴァンの専門家が教え、領内の人々が学ぶ。
同じ泥の中で、みんなが一つの田んぼを作っている。
その光景が、何だか嬉しかった。
◇
田植えを終えた区画へ案内してもらった。
水の中には、まだ細い苗が規則正しく並んでいる。
ところどころ列が曲がっているのは、植えた人によって少しずつ癖が違うかららしい。
「今年は試験ですからね。植えた場所や日付も、区画ごとに記録しています」
アーロンが畦に置かれた木札を見せてくれた。
「田植えが終わったら、少しは楽になるのかな?」
「大人数で植える作業はひと段落します。でも、今度は水の管理が始まるんです」
畦の脇には、目盛りを刻んだ木の棒が立っていた。
「これで水の深さを見ています。苗が水に沈みすぎても、土が出てしまっても困るそうで」
「毎日確認するの?」
「はい。特に新しい田んぼは、畦が落ち着いていませんから」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、アーロンの視線が水田の端へ向いた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「あそこの水の流れが、少しおかしいですね」
アーロンが畦に沿って歩き始めた。
俺とミラも後を追う。
田んぼの角から、細い水の筋が外へ流れ出していた。
泥の一部が崩れ、小さな穴ができている。
「水が漏れてる!」
「はい。このままだと畦がもっと削られます」
アーロンは近くの農民を呼んだ。
「ここの土を少し持ってきてくれ。それと、向こうの水口を一度絞ってもらえるか?」
「分かった!」
指導者も近づいてくる。
「よく気づきましたね。まず水の勢いを弱めましょう」
「はい。前に教わったとおり、漏れたところだけ埋めても、また崩れるかもしれませんから」
アーロンは運ばれてきた土を足で丁寧に踏み固めた。
しばらくすると、外へ流れていた水が止まった。
「……ふう。これでどうでしょう?」
指導者が畦を確かめる。
「大丈夫そうです。あとで、もう一度見に来ましょう」
「はい!」
アーロンが泥の付いた額を腕で拭った。
「田植えが終わっても、やることは多いね」
「ええ。でも、今のは前に教わっていたので、慌てずに済みました」
「ちゃんと身についてるじゃない」
ミラが言うと、アーロンは少し照れた。
「まだ先生方に見てもらわないと不安ですけどね」
……それでいいと思う。
最初から何でもできる人なんていない。
こうして一つずつ覚えて、やがてアーロンがほかの人に教えるようになるんだろう。
◇
少し歩き、田んぼに水を送る用水路へ向かった。
浅い流れの底には、丸い小石が見えている。日の光が差すたび、水の模様が石の上を動いた。
「……本当に澄んだ水だね」
ミラがしゃがみ込む。
「ビダン山から流れてくる水です」
アーロンが答えた。
「最初に調べた時から濁りが少なくて、セルヴァンの方々にも驚かれました」
指導者が頷く。
「今のところ、水量も安定しています。これほど澄んだ水が使えるのは、ありがたいことです」
「米作りには、すごくいい水なんですね」
「ええ。ただ、少し冷たいのが難点です」
ミラが指先を水につけた。
「わっ。冷たい!」
俺も触ってみる。
初夏の日差しの下だというのに、指の先からひんやりとした冷たさが伝わってきた。
「山からの冷たい水を、苗に直接たくさん入れないようにしているんです」
指導者が、ゆるく曲がった浅い水路を示した。
「日が当たるところを通して、少しでも水温が上がるようにしています」
なるほど。
水質がよくても、冷たすぎれば稲にはよくないのか。
「それに、濁っていないからといって、何でも安心というわけではありません」
指導者が続けた。
「今は田んぼの水として問題が出ていませんが、これからも様子を見る必要があります」
「うん。そこは慎重にやろう」
俺はもう一度、流れを眺めた。
澄んだ水が絶え間なく運ばれていく。
アーシタ山の銅、ビダン山の共鳴石と硬化石、リンクス山の石炭。
ノア山脈の資源ばかりに目を向けていたけど、水だって立派な恵みじゃないか。
しかも、鉱石と違って、流れてくる限り毎日の暮らしを支えられる。
……待てよ。
「リオン?」
ミラが俺の顔を覗き込む。
「また何か考えてるでしょ?」
「……分かる?」
「分かるよ。急に黙ったもの」
俺は笑いながら、用水路を指さした。
「この水、領都まで引けないかなって思ったんだ」
「領都まで?」
「うん。上水道みたいなものを作れたら、便利じゃない?」
「じょうすいどう?」
「ああ、山や川からきれいな水を引いて、町の人たちが使えるようにする仕組みだよ」
「そんなことができるの?」
「できると思う。最初は町の何か所かに水汲み場を作るだけでもいいんだ。そうすれば、遠くまで水を汲みに行かなくて済むでしょ?」
「それは助かるね。毎日のことだもの」
ミラの目が、水を汲む人たちの姿を思い描くように細められた。
「それに、きれいな水を安定して使えるなら、暮らしも変わりそう」
「でしょ?」
すると、アーロンが少し困ったような顔をした。
「男爵様。田んぼの水も、残していただけますよね?」
「あっ、もちろん!」
そうだ。
せっかく苦労して水田を造ったのに、町へ水を送ったせいで干上がってしまったら意味がない。
「取るなら、この用水路からじゃなくて、もっと上流だね。農業用水とは分けないと」
「それなら安心です。ただ、今は十分でも、雨の少ない時期や冬にどうなるかは分かりません」
「水の量も、一年を通して調べる必要があるってことか」
「はい」
アーロンが頷いた。
農業を学んでいるからこそ、気づくこともあるんだろう。
「それから、飲み水にするなら調べることがもっと増えるよね」
ミラが言った。
「うん。この水が澄んでいるからって、そのまま飲めるとは限らないし」
つい先日、アノー山でヴァイスさんにも注意されたばかりだ。
水源を守ること。
水質を確かめ、必要ならきれいにすること。
そして、領都まで水を運ぶ方法。
前世のように、各家庭で蛇口をひねれば水が出るところまで、いきなり目指すつもりはない。
まずは、共同の水汲み場からでも十分だ。
「ただ、領都まで水が流れるかどうかは、高低差を調べないと分からないな」
「高低差?」
「取水する場所と領都の高さだよ。途中で高い土地を越えないといけないなら、そのまま流すのは難しいから」
ミラが遠くの山並みを見た。
「思っていたより、大がかりな話なんだね」
「そうなんだよ。硬化石で水を通す設備を作れるかもしれないけど、そっちもまだ実験していないし」
まずは調べることが先だ。
「帰ったら、ローレンさんと相談してみる。水源と地形の調査からだね」
「うん。それがいいと思う」
ミラが微笑んだ。
「でも、もし実現したら、喜ぶ人がたくさんいそうだね」
俺は用水路へ目を戻した。
「……そうだね」
◇
帰る前に、もう一度、最初の試験水田を見渡した。
最後の列にも苗が植えられたらしい。
泥だらけの人たちが畦へ上がり、互いに顔を見合わせて笑っている。
「終わりました!」
アーロンがこちらへ歩いてきた。
「試験区画の田植えは、これでひととおり終わりです」
「お疲れさま!」
俺が言うと、近くにいた人たちも笑った。
セルヴァンの専門家は、まだ水面を確かめている。
「ここからが大切ですよ。明日も朝から見回りましょう」
「はい。よろしくお願いします!」
アーロンの返事は、疲れているはずなのに力強かった。
少し前まで草に覆われていた一角に、今は田んぼがある。
小さな苗は、まだ頼りない。
秋に米が実るかどうかだって、分からない。
それでも、ここには今日までの仕事が残っている。
草を刈った人。
水路を掘った人。
畦を築いた人。
苗を育て、田に植えた人。
そして、覚えたことを次の人へ伝えようとしている人。
俺はアーロンに声をかけた。
「収穫まで、よろしくね」
「はい。セルヴァンの皆さんから、もっと学びます」
「無理はしないでね」
「ありがとうございます。でも、毎朝ここを見るのが楽しみなんです」
そう言って、アーロンは苗の並ぶ水田を振り返った。
風が吹く。
水面に映る雲が揺れ、細い緑の葉がいっせいに傾く。
向こうでは、ビダン山からの水が流れていた。
この水が、田んぼを育てる。
いつかは、領都で暮らす人たちの毎日も支えてくれるかもしれない。
でも、まずは目の前の小さな苗からだ。
初夏の光の中で、田植えを終えたばかりの水田が、静かに空を映していた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
水田を見ながら上水道について考えるリオン。
彼は思い出していた。かつてYoutubeでみた玉川上水の歴史を。




