第614話 苔が覆う山
翌朝。
朝食の席で、ヴァイスさんは窓の外を気にしていた。
「ヴァイスさん、今日はいい天気になりそうですね」
ミラが声をかける。
「ああ。山へ行くにはありがたい天気だ」
「そんなに苔が気になるんですか?」
「気になるとも。何しろ、分からないことばかりだからな」
ヴァイスさんが嬉しそうに答える。
昨日も遅くまで、アノー山の地図を眺めていたらしい。
まだ調査を始めてもいないのに、すごい熱意だ。
「そういえば、一つ聞いてもいいですか?」
「何かな、ミラさん?」
「ヴァイスさんは、お一人で王都からいらしたんですよね。ご家族は大丈夫なんですか?」
あ。
そういえば、俺も聞きそびれていた。
研究の話ばかりしていたからな。
「妻はまだ王都にいるよ。家の片づけをしてくれていてな」
「じゃあ、奥様もこちらへ?」
「ああ。夫婦で相談して決めたことだ。子供たちはもう独立しているし、これからは二人で新しい土地に暮らしてみようということになった」
ミラが微笑んだ。
「それなら、奥様がいらっしゃるまでに住みやすい家を探さないといけませんね」
「そうだな。妻も、君たちに会えるのを楽しみにしているよ」
「どんな方なんですか?」
「そうだな……私の研究好きに、長年付き合ってくれた人だよ」
ヴァイスさんが苦笑する。
「退官すると話した時も、最初に聞かれたのは次の研究先だった。私がじっとしていられないと、よく知っているからな」
「あはは。よく分かっていらっしゃるんですね」
「ここへ来るときにも、食事を忘れるなと何度も念を押されたよ」
ミラが俺を見た。
……何で?
「リオンも、研究を始めるとご飯を忘れそうになるんですよ」
「ミラ、それは……」
「ほう。ハルも同じか」
二人が楽しそうに笑う。
……反論しづらいな。
「奥様が来られたら、ぜひ一緒に食事をしましょう」
「うむ。妻も喜ぶだろう」
◇
朝食を終えると、屋敷の庭にアストンとテオが待っていた。
俺とヴァイスさん、それにピコも一緒だ。
「本日もよろしくお願いいたします」
「うん。足場の悪いところには近づかないようにしよう」
「承知しました」
ヴァイスさんは旅用の鞄を肩に掛けている。
「ずいぶん身軽ですね」
「調査に必要なものだけだよ。記録用の紙と、小瓶をいくつかな」
「採取したものが増えたら、俺の亜空間収納に入れますよ」
「それは助かる。水の瓶も持ち帰ってもらおう」
「では、転移しますね」
「ここから直接かね?」
「はい。アノー山の近くに転移印を残してありますから」
ヴァイスさんが目を見開いた。
「王立研究所では転移魔法について散々議論したものだが……調査へ出かけるのに使うとなると、ずいぶん贅沢な話だな」
「あはは。便利ですよ」
みんなが集まったのを確認し、転移魔法を発動する。
次の瞬間。
庭の景色が消え、冷たい山の風が頬をなでた。
「……おおっ!」
ヴァイスさんが思わず声を上げる。
目の前には青緑色の山肌。遠くから川の音も聞こえていた。
「本当に、一瞬なのだな」
「はい。ここがアノー山です」
ヴァイスさんは振り返り、足元を見た。
「理屈は知っているつもりだった。しかし、つい先ほどまで屋敷の庭にいたのだぞ?」
「そうですね」
「馬車で何日もかかる場所へ、朝食の後に来られるとは……現地調査のやり方まで変えてしまう魔法だな」
なるほど。
ヴァイスさんは転移そのものより、研究に使えることに驚いているのか。
「もっとも、今日は転移の研究ではなかったな」
そう言って笑った。
◇
転移印のある高台から、アストンたちに先導してもらって斜面を下りる。
岩の表面にも、倒木にも、青緑色の苔が広がっていた。
「……これは」
ヴァイスさんが足を止めた。
「木箱で見た時とは、まるで違うな」
「すごいでしょ?」
「ああ。だが、全部が苔に覆われているわけではないらしい」
「え?」
ヴァイスさんが示したのは、苔だらけの斜面にある一つの岩だった。
その岩だけ、上の方に灰色の地肌が残っている。
「本当だ。あそこだけ少ないですね」
「日当たりのせいかもしれん。岩の性質が違うのかもしれん。今は分からないが」
ヴァイスさんが岩の周りを回る。
「ハル。苔がたくさん生える理由を知りたいなら、生えていない場所も調べた方がよいぞ」
「比べられるからですか?」
「そういうことだ」
俺は山の斜面を見渡した。
今までは青緑色の場所ばかり目で追っていた。
でも、よく見ると、灰色の岩肌も点々と残っている。
「それに、もう一つ気になることがある」
「魔力ですか?」
「うむ」
ヴァイスさんは苔の厚い岩に近づき、目を閉じた。
少しして、隣の苔が薄い場所へ移る。
「……ほう」
「何か違いますか?」
「わずかだが、苔が多い場所の方が、あの魔力を感じやすい気がする」
「じゃあ、魔力は苔から出てるんでしょうか?」
「まだ何とも言えん。苔が集まりやすい場所に、魔力も集まっているのかもしれんからな」
ああ、そうか。
苔があるから魔力があるのか。
魔力があるから苔が増えるのか。
それさえ、まだ分かっていないんだ。
「ハルにも感じられるかね?」
俺も意識を集中してみた。
……。
「駄目です。やっぱり分かりません」
「気にすることはない。私も意識して探さなければ見落とすほど弱い」
ヴァイスさんは手帳に何か書き込んだ。
ただ苔を眺めているだけなのに、もう新しい疑問が増えている。
◇
「先日、岩を掘り返した場所はこの先です」
「ぜひ見せてくれたまえ」
しばらく歩いて、見覚えのある岩場へ着いた。
俺が削った跡にも、すっかり青緑色が広がっている。
「ここです。岩肌を出した翌日には、もう苔が付いていました」
「ふむ。削った直後には見えていなかったのだな?」
「はい。アストンたちも確認しています」
ヴァイスさんがアストンを見る。
「間違いございません。翌日には色が変わっておりました」
「そうか。ならば、一日で様子が変わったことは確かなようだ」
ヴァイスさんは、岩の表面をじっと見つめた。
「ただ、新しく育ったのか、周囲から広がったのか、目に見えないものが残っていたのかは分からんな」
「そこまで違うんですね」
「ああ。だから、今度は変化するところを確かめよう」
俺たちは足元の安全な場所を選び、岩の表面を二か所だけ小さく削った。
一つは苔が厚く生えた岩。
もう一つは、苔がまばらな岩だ。
アストンが目印を置き、テオが場所を記録する。
「これでいいですか?」
「うむ。明日、同じ場所を見てみよう。今日は余計なことをせず、まず観察だ」
簡単なことのように聞こえる。
でも、俺一人だったら、いきなり水を掛けたり、土を入れ替えたりしていたかもしれない。
「……そういえば、ハル」
「はい?」
「昨日話した、魔物除けの研究のことを覚えているかね?」
「もちろんです。ここの苔と魔力が似てるっていう」
「そうだ。公表されている範囲の話になるが、王立研究所では以前、魔物を遠ざける魔法を研究していてな」
「実際に効いたんですか?」
「効いた例はあった。だが、同じように試しても、うまくいかないことがあった」
「……再現できなかったんですね」
「ああ。それに、魔力を安定して保つのも難しく、数を揃えることもできなかった」
ヴァイスさんが苔を見下ろした。
「街道や村を守れれば、どれほど役に立つか。皆で考えたものだが、結局、広く使える形にはできなかったよ」
いつもの明るい声とは、少し違った。
「残念でしたね」
「そうだな。だが、失敗したからこそ、覚えていることもある」
ヴァイスさんが、足元の苔を指さす。
「この苔の魔力は、その時のものに似ている。そして、もし本当に自然に増え続けるのだとしたら……」
「大量に作れなかった魔物除けを、苔で代わりにできるかもしれない?」
「そういう可能性はあるな」
おお……。
もし実現したら、すごいぞ。
山道や村の周りで、魔物との遭遇を減らせるかもしれない。
「ただし、ハル。今はまだ期待しすぎない方がよい」
「はい」
「この苔が魔物を避けさせるかどうかも、山を離れて同じ働きをするかどうかも分かっていない」
ヴァイスさんは口元を緩めた。
「だから、面白いのだがね」
◇
その時だった。
ガサッ。
近くの茂みが揺れた。
「男爵様、お下がりください」
アストンとテオが前に出る。
俺も身構えた。
まさか、魔物か?
茂みから飛び出したのは、小さな山鳥だった。
鳥は勢いよく羽ばたき、頭上の枝に止まる。
「……鳥か」
ほっと息をつく。
「ピー!」
ピコが鳥を追いかけるように跳ねた。
「こら、ピコ。行っちゃ駄目だよ」
「ピー……」
残念そうに動きを止める。
ヴァイスさんがその様子を眺めていた。
「普通の鳥は、ここにいるのだな」
「はい。ピコも元気ですし」
「ピコは魔物なのだろう?」
「そうです。普通のスライムとはちょっと違いますけど」
「ならば、そこも大切な手がかりだ。魔物除けの性質があるとしても、すべての魔物に同じように働くとは限らん」
「そもそも、苔が原因じゃないかもしれませんしね」
「そのとおりだ」
山鳥がもう一度鳴いた。
何日も調べて魔物を見かけなかったから、いないものだと思い始めていた。
でも、調べていない場所まで含めて、何もいないと決めつけるのは早いんだな。
◇
帰る前に、川にも立ち寄った。
岩の間を流れる水は、相変わらず驚くほど澄んでいる。
「これは……確かに見事な透明さだな」
「前に少し飲んだんですけど、すごくおいしかったんですよ」
ヴァイスさんがこちらを見た。
「……飲んだのかね?」
「ちょっとだけです」
「見た目がきれいでも、安全とは限らんぞ」
「はい。アストンにも注意されました」
「ならば、次は検査してからにしたまえ」
……二人に怒られてしまった。
ヴァイスさんは、持ってきた小瓶を取り出す。
「水も持ち帰ろう。採った場所が分かるようにしておきたい」
「苔が多い場所と少ない場所ですか?」
「それもあるが、水の流れも記録しておこう。上流と下流では、苔以外の条件も違うからな」
アストンたちに手伝ってもらい、数か所で少量ずつ水を採った。
瓶の印を確かめてから、鞄へしまう。
「これで、今日の調査は終わりですか?」
「そうだな。帰ったら記録をまとめたい」
「何か分かりそうですか?」
「今日一日で答えは出ないよ」
ヴァイスさんが、苔に覆われた岩を振り返った。
「だが、何を確かめればいいかは、ずいぶん見えてきた」
苔が少ない場所。
魔力を感じる場所。
新しく削った岩肌。
そして、あの透明な川の水。
同じ山を見ているのに、ヴァイスさんの目には、俺とは違うものが映っているらしい。
「ハル」
「はい?」
「王立研究所では、魔物除けを誰でも使えるものにできなかった」
「そうでしたね」
「今度は、まだ何の役に立つかさえ分からない苔から始めるわけだ」
ヴァイスさんが笑った。
「もし魔物除けにならなかったとしても、構わん。何か一つでも、この苔について新しいことが分かれば、それは研究の成果だからな」
……ああ。
この人は、使い道があるから調べたいんじゃない。
知らないことを、知りたいんだ。
「帰ったら、早速記録をまとめましょうか」
「うむ。それから、明日の岩場の様子も楽しみだな」
ヴァイスさんの足取りは、来た時より軽く見えた。
何もないと思っていたアノー山。
でも、この人にとっては、調べたいことが尽きない山になったようだ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
ミラがいなかったらずっと研究の話しかしないであろうリオンとヴァイスさん。
そこにルッツとヴィクトルが加わったら、どんな化学反応を起こすのでしょうか?




