第612話 一人の研究者として
「私を、この領で働かせてくれないか?」
「……え?」
思わず聞き返した。
ヴァイス所長が、俺の領で働く?
王立研究所の所長が?
「それは、来ていただけるなら嬉しいですけど……所長のお仕事は?」
王立研究所は、王国でも有数の研究機関だ。
その責任者が、簡単に職を離れられるとは思えない。
ヴァイス所長は、少しだけ笑った。
「ハル。私はもう所長ではないのだよ」
「……はい?」
「先日、王立研究所を退官した」
「ええっ!?」
思わず声が大きくなった。
近くにいたミアまで、驚いたようにこちらを見る。
「退官って、王立研究所を辞められたんですか?」
「ああ。正式な手続きを済ませてな」
「でも、所長がいなくなったら、研究所は困りませんか?」
「そこを心配してくれるのか」
ヴァイスさんは、どこか嬉しそうだった。
「もともと定年まで、あと数か月だったのだ。後任の育成はずっと前から進めていたし、引き継ぎにも十分な時間を取った」
「後任の方は、もう決まっているんですか?」
「すでに正式に就任している。私は役目を終えてから、ここへ来たのだよ」
「そうだったんですね」
「後任を育てるのも、所長の仕事だからな」
……なるほど。
前世で会社を経営していたから、その言葉の重みは分かるつもりだ。
優秀な人が抜けた途端、仕事が止まってしまう。
そんな組織では困る。
自分がいなくても回る仕組みを作る。
ヴァイス所長は、そこまで終わらせてきたんだ。
「ただ、もう一つ確認してもいいですか?」
「もちろんだ」
「王立研究所には、外に出せない研究もありますよね?」
「ああ」
「その内容を知っている人が、ほかの領地で働いても大丈夫なんでしょうか」
俺も王立研究所で、公にできない研究に関わったことがある。
ヴァイス所長なら、俺の知らない機密だって数多く知っているはずだ。
どれほど歓迎したくても、この点は曖昧にできない。
「もっともな質問だな」
ヴァイス所長は鞄から一通の書状を取り出した。
「退官にあたっては、王宮の正式な承認を受けている。引き継ぎの完了も確認されているし、今後この領で暮らし、研究に携わる意向も届け出てある」
「この領に来ることまで、伝えてあるんですね」
「無論だ。機密に関する書類や研究資料は一切持ち出していない。知り得た秘密を口外したり、新たな研究に流用したりすることも許されん」
「それなら安心です」
「今後、住まいや所属が変わる場合の届け出も必要だ。王宮から協力を求められれば、定められた範囲で応じることにもなっている」
俺は書状を受け取り、目を通した。
退官と転居について、王宮の承認が記されている。
「ありがとうございます。念のため、こちらからも王宮へ確認しておきますね」
「それがよい。雇う側にも責任があるからな」
ヴァイス所長が頷く。
こんな質問をしたら気を悪くするかとも思ったけど、むしろ当然だと受け止めてくれたようだ。
「それで、ヴァイス所長――」
「ハル」
「はい?」
「私は、もう所長ではないと言っただろう」
「あ。そうでした」
「今の私は、ただのアルベルト・ヴァイスだよ」
そう言って、穏やかに笑った。
「……では、ヴァイスさん?」
「ああ。それでいい」
何だか、まだ慣れないな。
俺にとっては、ずっと所長だった人だから。
「それで、ヴァイスさん。どうしてこの領へ?」
ヴァイスさんは、少し考えてから口を開いた。
「私はな、研究所長だったことを後悔しているわけではないのだよ」
「はい」
「王国の研究を支え、若い研究者を育ててきた。皆が成果を上げるのを見るのは、嬉しかった。あの仕事には誇りを持っている」
窓の外へ目を向ける。
「ただ、所長になると、自分で実験する時間がどうしても減ってしまう」
「そうでしょうね」
「予算、人事、王宮との調整。必要な仕事ばかりだ。だが、実験の途中で呼ばれて席を立つたび、少しばかり名残惜しかった」
ヴァイスさんが苦笑した。
「私は、研究が好きなのだよ。ハル」
「……はい」
「分からないものを前にして、仮説を立てる。試してみる。外れる。また考える」
言葉に、少しずつ熱がこもっていく。
「そして、ある日突然、それまで見えなかったものが見えるようになる」
その顔を見て、王立研究所で過ごした日々を思い出した。
実験が失敗しても、ヴァイス所長は怒らなかった。
どうしてそうなったのか、俺と一緒に考えてくれた。
「若い頃は、翌朝になるのが待ち遠しくてな。前の日の続きを早く確かめたかった」
「……分かる気がします」
昨日の俺も、ミラに夕食へ連れ出されなかったら、いつまでも苔の記録を眺めていたかもしれない。
「定年が近づいて、考えたのだよ。残された人生を、何に使いたいのかとな」
ヴァイスさんが俺を見る。
「もう一度、自分の手で実験をしたい。まだ誰も知らないことが分かる、その瞬間に立ち会いたい」
その目は、驚くほど生き生きとしていた。
……すごいな。
長い間、王国の研究を率いてきた人が、今もこんなに新しい発見を楽しみにしているんだ。
「でも、それなら王立研究所に研究員として残る方法もあったんじゃないですか?」
「ああ。そういう話もあった」
「それなら、設備も整っていますよね」
「そのとおりだ。しかし、前の所長がそこに居座っていては、後任もやりにくかろう?」
「……確かに」
「若い者も私に判断を求めるだろう。そうなれば、私も放っておけない。気がつけば、また管理の仕事をしているに違いない」
なるほど。
前の社長が会社に残って何かあるたび口を出していたら、新しい社長もたまったものじゃないだろう。
「だから、きちんと任せてきた。あそこはもう、彼らの研究所だ」
そう言い切ったヴァイスさんの顔に、未練はなかった。
「それに、君の領には、まだ答えの出ていないものがたくさんあるそうではないか」
「俺の領ですか?」
「硬化石を使った道路、共鳴石の通信機。それに、蒸気を利用する新しい機械も作っていると聞いた」
「はい。まだ試験の途中ですけど」
「だからこそ面白い。完成品を眺めるより、どうすれば完成するのかを考える方が、私は好きなのだよ」
ヴァイスさんが楽しそうに笑った。
「以前、君を王立研究所へ誘ったことがあったな」
「あ、はい」
「まさか今度は、私の方が君の領へ来たいと思うとはな」
「あはは。本当にそうですね」
なんだか、不思議な縁だ。
「実は俺も、昨日ちょうど研究所が欲しいと思っていたんです」
「ほう?」
「蒸気機関も共鳴石も、分からないことが多くて。鉱山からも次々に新しい課題が出てきています」
俺は机の上に広げた領地の地図を見る。
「ルッツさんたちも頑張ってくれているんですけど、みんな製作や工事で忙しいんですよね。もっと腰を据えて実験できる場所があったらと思って」
「研究を継続するための場所か」
「はい。実験の記録を残して、違う分野の人たちも知恵を出し合えるような」
「よい考えだと思うぞ」
……嬉しいな。
でも、ふと気づいた。
王立研究所の元所長が来てくれるなら、運営のことまで頼みたくなってしまいそうだ。
ところが。
「ただし、ハル。一つ条件がある」
「何でしょう?」
「私は、もう所長にはなりたくない」
先に言われてしまった。
「研究所を造るのは大歓迎だ。だが、運営まで任されるなら、今回の話は考え直さねばならん」
「分かりました。俺がお願いしたいのは研究です」
「そうか」
「研究所の運営は、別の人に任せる形を考えます。ヴァイスさんには、研究に集中してもらいたいです」
ヴァイスさんが、ほっとしたように息をついた。
「ありがたい」
「ただ、今の領には、まだ十分な設備がありません。最初は小さな場所から始めることになると思います」
「構わん。必要な道具を、一つずつ揃えればよい」
「研究費や報酬も、王立研究所と同じにはできないかもしれません」
「その点は相談しよう。研究に必要なものは、遠慮なく希望を伝えるつもりだ」
「もちろんです。研究の成果をどう扱うかも、最初に決めておきたいです。王国の機密と混ざってはいけませんから」
「うむ。研究記録の管理も含め、きちんと取り決めよう」
やっぱり、この人は話が早いな。
俺はミアを見る。
「ミア、後でローレンさんにも相談して、研究者を迎えるための条件を整理してくれる?」
「かしこまりました」
「王宮への確認もお願い。正式な契約は、その後にしよう」
「承知しました」
雇用の手続きは、きちんと進めたい。
でも、俺の気持ちは決まっていた。
「ヴァイスさん。ぜひ、この領で研究をしてください」
「……いいのかね?」
「こちらからお願いしたいくらいです。ただ、研究所も設備も、これから一緒に作っていくことになりますけど」
「それがよいのだよ」
ヴァイスさんは嬉しそうに笑った。
「出来上がった場所へ入るのではなく、研究をする場所そのものを作る。その過程にも興味がある」
俺も思わず笑顔になる。
「それと、もう一つお願いしてもいいですか?」
「何だね?」
「この領で、学校を始めるんです。最初は読み書きと計算からなんですけど」
「ほう」
「将来、勉強が好きになった子供たちに、学問の面白さを教えてもらえたら嬉しいなと思って」
ヴァイスさんは少し驚いたようだった。
「子供たちに、か」
「もちろん、研究の邪魔にならない範囲でいいんです」
「……面白そうだな」
ヴァイスさんが頷く。
「私も、いつか自分の学んできたことを、後の世代に残せる形にしたいと思っていた」
「本当ですか?」
「ああ。難しい理論を教える前に、なぜそうなるのか不思議に思う楽しさを伝えたいな」
いいな、それ。
子供たちの中から、将来研究者になる人が出てくるかもしれない。
昨日、ミラと話していたことが、少しだけ現実に近づいた気がした。
「では、改めまして」
ヴァイスさんが椅子から立ち上がった。
「ヴァイスさん?」
俺も立ち上がる。
ヴァイスさんは背筋を伸ばし、俺に向かって丁寧に頭を下げた。
「これからお世話になります。よろしくお願いします、男爵様」
「えっ!?」
思わず声が裏返った。
「ちょ、ちょっと待ってください。頭を上げてください!」
ヴァイスさんが顔を上げる。
その口元には、楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「何をそんなに驚くのだね?」
「だって、ヴァイスさんは俺の先生みたいな人じゃないですか!」
「それとこれとは別だよ。君はこの領を治める男爵だ。私は、この領に雇われる一研究者になる」
「でも……」
「礼儀は必要だろう?」
そう言われると、確かにそうなんだけど。
「もっとも、研究の場ではこれまでどおりハルと呼ばせてもらいたいがね」
「あはは。もちろんです!」
「そして、君の考えがおかしいと思ったら、遠慮なく言わせてもらう」
「それもお願いします」
よかった。
急に他人行儀になってしまうのは、ちょっと寂しいからな。
「まずは住まいを決めないとですね」
「王都から持ってきた荷物は、宿に預けてある」
「そうなんですか? よければ、うちの屋敷に空き部屋がありますよ」
「それはありがたい。落ち着いたら自分の住まいを探すとしよう」
「はい。手配しますね」
研究所の場所も考えないといけない。
蒸気機関車の試験場や工房と行き来しやすいところがいいかな。
……おっと。
まずは、一つずつだ。
◇
昼食を済ませた後。
午後に予定していたルッツさんとの打ち合わせは、少し時間をずらしてもらった。
俺はヴァイスさんを屋敷へ案内した。
「実は、見ていただきたいものがあるんです」
「ほう。何だね?」
「ちょっと変わった苔です」
「……苔?」
ヴァイスさんが興味深そうに眉を上げた。
自分の部屋に入る。
机の端には、昨日持ち帰った木箱が置いたままになっていた。
蓋を開ける。
中には、青緑色の苔が付いた岩がある。
「これです」
「鮮やかな色をしているな」
「アノー山で見つけました。昨日、掘り出したばかりの岩に、次の日にはもう苔が生えていたんです」
「一日で?」
「はい。周りの石にも、倒れた木にも、山じゅうに生えていて」
ヴァイスさんは木箱を覗き込んだ。
そして、不意に口を閉じた。
「……ん?」
「どうしました?」
「ハル。少し静かにしてくれるかね」
「はい」
ヴァイスさんが苔へ目を向ける。
しばらく、そのまま動かなかった。
「……なるほど」
「何か分かるんですか?」
「微かだが、魔力を感じる」
「あ、やっぱり!」
「やっぱり?」
「昨日、ミラもそう言ってたんです。俺には全然分からなかったんですけど」
「ほう。あの娘が気づいたのか。よく分かったものだな」
ヴァイスさんが感心したように頷く。
「私でも、意識を集中しなければ見落とすほど弱い」
やっぱり、そんなに微かな魔力なんだな。
ところが、ヴァイスさんは木箱から目を離さなかった。
「……待てよ。この感じは」
「どうしたんですか?」
「以前、似た魔力を調べたことがある」
「似た魔力?」
「ああ。魔物除けの魔法だ」
「……魔物除け?」
思わず聞き返した。
「魔物が本能的に避ける魔力の性質を調べたことがあってな。この苔から感じるものが、それに少し似ている」
「じゃあ、この苔が魔物を遠ざけているんですか?」
「そこまでは分からん」
ヴァイスさんは即座に首を振った。
「似た性質に感じるだけだ。魔力があまりに弱いし、実際に魔物がどう反応するか確かめていない。
まして、苔そのものが原因かどうかも、まだ調べておらん」
「なるほど……」
でも、思い当たることがある。
「実は、これがとれたアノー山では魔物を一匹も見かけてないんです」
「……何?」
「何日も調査してるのに、足跡さえ見つからなくて。ほかの山とは全然違うんですよ」
「その山は、この苔に覆われているのか?」
「はい。北から南へ進むほど増えて、麓は苔だらけでした」
ヴァイスさんの目つきが変わった。
「ほう……」
「ただ、ピコは平気だったんです」
「ピコ?」
「俺の従魔のスライムです。一緒に山へ行っても、苔の上で普通にしていて」
「ならば、ますます決めつけるわけにはいかんな」
「そうですよね」
「すべての魔物が同じように反応するとは限らんし、そもそも魔物が見つからなかった理由が別にある可能性もある」
ヴァイスさんが、今度は楽しそうに笑った。
「だが、気になるではないか」
「はい」
「異常な繁殖速度。微弱な魔力。そして、魔物を見かけない山」
一つずつ、指を折る。
「まずは苔がどんな条件で育つのか調べたい。魔力については、別の苔や岩と比べる必要もあるな」
「はい。川の水も、すごくきれいだったんですよ。そちらも調べたいと思っていて」
「ほう。水までか」
ヴァイスさんの顔が、さらに明るくなった。
「面白い。実に面白いな」
……ああ。
王立研究所で、何度も見た顔だ。
肩書も、立場も変わった。
でも、未知のものを前にした時の、この人は何も変わっていない。
「ハル」
「はい」
「どうやら、退官して最初の研究課題には困らずに済みそうだ」
ヴァイスさんが、嬉しそうに笑った。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
苔に関して様々な感想を頂いていますが、ファンタジーな感じになります。
この作品はファンタジーなのです。




