第611話 微かな魔力
それにしても、不思議な苔だな。
俺は昨日掘り返した場所を、改めて見下ろした。
灰色の岩肌に、青緑色の苔が薄く広がっている。
昨日、ここには何も生えていなかった。
岩を削った時の跡も覚えている。
それなのに、たった一日で苔が生えているんだから。
「アストン、テオ。この苔、少し持って帰ろうと思うんだけど」
「お調べになるのですか?」
テオが尋ねる。
「うん。どうしてこんなに早く増えるのか、気になるんだよね」
「確かに、普通の苔とは思えませんな」
アストンも頷いた。
俺は亜空間収納から、小さな木箱を取り出した。
以前、荷物を整理した時にしまっておいたものだ。
ちょうどいい。
苔が付いた岩を、小さく割って木箱に入れる。
周囲の土も少しだけ採取した。
「これくらいでいいかな」
「ほかの場所の苔もお持ちになりますか?」
「いや、まずはこれだけにしておこう」
何も分かっていない植物だ。
大量に持ち帰る必要はない。
木箱の蓋を閉める。
「それにしても、この山って変わってるよね」
「何がでございますか?」
「鉱石は見つからないし、魔物も出てこない。それなのに、苔だけはこんなに生えてるんだから」
アストンが山の斜面を見上げた。
「魔物が現れないのは、ありがたいことですが」
「うん。でも、何日も調べて一匹も見ないのは珍しいよね」
「たまたま遭遇していない可能性もございます」
「そうなんだよね」
もう少し詳しく調べたいところだ。
「ピー!」
足元でピコが鳴いた。
青緑色の苔に覆われた石の上で、こちらを見上げている。
「ピコ、そこ滑らない?」
「ピー!」
元気そうだな。
「じゃあ、今日は帰ろうか」
「承知しました」
アストンとテオが周囲を確認する。
俺たちはそのまま転移で屋敷へ帰った。
◇
その日の夕方。
俺は自分の部屋で、アノー山の調査記録を整理していた。
机の端には、持ち帰った木箱が置いてある。
蓋を開け、中を覗き込む。
青緑色の苔が、岩の表面に付いていた。
今のところ、特に変化はないようだ。
「……明日になったら増えてたりするのかな」
もし、この苔が屋敷でも同じように増えるなら、アノー山以外でも繁殖できることになる。
逆に、増えなかったら?
あの山の環境に、何か秘密があるのかもしれない。
水。
土。
気温。
日当たり。
いろいろ考えられるな。
ただ、条件をいくつも変えてしまうと、何が原因なのか分からなくなる。
まずは採取した場所と日時を記録しておこう。
俺は紙を一枚取り出した。
アノー山の南側。
川から少し離れた斜面。
掘り返してから、およそ一日で苔が発生。
その時の様子を書いていると。
コンコン。
扉が叩かれた。
「はーい」
「リオン、入ってもいい?」
ミラの声だ。
「もちろん」
扉が開き、ミラが顔を出した。
「リオン、そろそろ夜ご飯だよ」
「あ、もうそんな時間?」
「うん。ケーラが準備してくれてるよ」
「ありがとう。ちょうど調査の記録をまとめてたんだ」
俺はペンを置いた。
「またアノー山に行ってきたの?」
「うん。今日もちょっと調べてきたよ」
「何か見つかった?」
「それがね……」
そう答えようとした時だった。
ミラが不思議そうに首を傾げた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「リオン、今、何か魔法を使ってる?」
「え? 使ってないよ」
「そうなの?」
「うん。どうして?」
ミラが部屋を見回す。
「何となくだけど、魔力を感じるの」
「魔力?」
「うん。でも、すごく弱い。気のせいかもしれないくらい」
俺は部屋の隅を見る。
ピコがくつろいでいた。
「ピコじゃない?」
「ううん。ピコとは違う気がする」
「じゃあ、転移用の魔力印かな」
「それとも違うと思うんだけど……」
ミラが少し考える。
そして、ゆっくりと机へ近づいてきた。
「……この辺りかな」
「机?」
「うん。ちょっと待ってね」
ミラが目を閉じる。
しばらく、そのまま動かなかった。
やがて、目を開く。
「……これかも」
ミラが指さしたのは、机の端に置いてある木箱だった。
「それ?」
「うん」
「苔だよ?」
「苔?」
ミラが不思議そうな顔をする。
「今日、アノー山から持って帰ってきたんだ」
俺は木箱の蓋を開けた。
「へえ。きれいな色だね」
「そうでしょ?」
ミラが顔を近づける。
「……やっぱり」
「何?」
「この苔から、魔力を感じる気がする」
「え?」
思わず聞き返した。
「苔から?」
「うん。でも、本当に微かだよ。意識を集中させないと、分からないくらい」
「へえ……」
俺も木箱を覗き込む。
青緑色の苔。
見た目は、普通の苔とそれほど変わらない。
試しに、魔力を感じ取ろうとしてみる。
……。
駄目だ。
何も感じない。
「俺には分からないな」
「そうなの?」
「うん」
自分の魔力なら、意識を向ければ感じ取れる。
ピコと従魔契約を結んだ時も、二人の魔力がつながったことで、ピコの魔力を感じられるようになった気がする。
でも、今回は違う。
自分とつながっていない、ごく微弱な魔力を感じ取るのは苦手らしい。
「ミラはすごいね。そんなに弱い魔力まで分かるんだ」
「でも、私もはっきり感じられるわけじゃないよ」
「そうなの?」
「うん。本当に少しだけ。どんな魔力なのかまでは分からないの」
「なるほど」
それでも十分すごいと思う。
そういえば、《綻びの目》ではどうなんだろう?
俺は苔に目を向け、スキルを使ってみた。
……。
何も表示されない。
もう一度確かめても同じだった。
もっとも、《綻びの目》は魔力そのものを感知するためのスキルじゃない。
魔力があるからといって、必ず何かが表示されるわけではないだろう。
それにしても、苔から魔力か。
これは予想していなかったな。
「実はね、この苔、ものすごく早く増えるんだよ」
「そうなの?」
「うん。昨日、土を掘って岩を露出させたんだけど、今日見に行ったら、もう苔が生えてたんだ」
「一日で?」
「そう」
「それは早いね」
「でしょ?」
俺はアノー山で起きたことを説明した。
山のあちこちに広がる青緑色の苔。
驚くほど澄んだ川。
そして、何日も調査しているのに魔物の姿を見かけないこと。
「魔物に一度も会ってないの?」
「うん。足跡も見つかってないんだ」
「それは珍しいね」
「そうなんだよ。ほかの山では結構出てきたのに」
ミラが苔を見つめる。
「この苔と関係があるのかな?」
「どうだろう。魔力があるって分かっただけじゃ、何とも言えないよね」
「そうだね」
ただ、気になることはある。
「それに、ピコはいつもどおりだったんだよ」
「ピコ?」
「うん。ほら、ピコも魔物でしょ?」
ミラが部屋の隅へ目を向けた。
「そうだね」
「アノー山でも普通にしてたし、苔の上にも乗ってたんだ」
「じゃあ、魔物がいない理由が苔だとは限らないね」
「そうなんだよね」
「ピー?」
名前を呼ばれたと思ったのか、ピコがこちらを見た。
「いや、ピコのことを話してたんだよ」
「ピー!」
元気に返事をする。
ピコは普通のスライムとは少し違う気がする。
外部の魔力を取り込むこともできるし、俺と従魔契約も結んでいる。
だから、ほかの魔物と反応が違っていても不思議ではないのかもしれない。
もっとも、それもただの想像だ。
そもそも、苔が魔物に何か影響を与えるという証拠すらない。
「……分からないことばっかりだな」
俺は机に置いた調査記録を見る。
苔の繁殖速度。
生育条件。
微弱な魔力。
川の水質。
魔物を見かけない理由。
どれも、今のところ答えがない。
「もう少し調べたいな」
思わずペンに手が伸びた。
「リオン」
「ん?」
「そろそろ行こう?」
ミラが優しく笑っている。
「あ、ごめん。そうだったね」
「続きは夕ご飯の後でもできるでしょ?」
「うん。そうなんだけど……」
俺は机の上にある木箱を見る。
苔の繁殖。
魔力の有無。
それに、水のことも気になる。
ちゃんと調べたいな。
でも、俺一人で全部調べるのは難しい。
……そういえば。
「ミラ」
「何?」
「今の領って、研究することがすごく増えてるよね」
「研究?」
「うん。蒸気機関もそうだし、共鳴石通信機もそう。鉱山だって、まだ分からないことが多いでしょ?」
「そうだね」
「それで、今度はこの苔」
ミラが木箱を見る。
「確かに、いろいろあるね」
「そうなんだよ」
蒸気機関はルッツさんたちが頑張ってくれている。
共鳴石通信機も、製作や改良が進んでいる。
鉱山には専門家がいる。
でも、みんなそれぞれの仕事を抱えている。
新しい技術を作りながら、その仕組みまで詳しく研究するのは大変だろう。
何より、研究というのは時間がかかる。
一度うまくいっても、条件を変えれば失敗するかもしれない。
何度も試し、結果を記録して、なぜそうなるのか考える。
そういう仕事に、継続して取り組める人が必要なんじゃないだろうか。
「……研究所が欲しいな」
「研究所?」
「うん。王都にある王立研究所みたいな施設」
「この領に?」
「そう」
俺は頷いた。
もちろん、王立研究所と同じ規模のものを、いきなり造るのは無理だ。
建物も設備も必要だし、何より研究者がいない。
でも、最初から大きなものを作る必要はない。
「小さくてもいいんだ。研究する場所があって、必要な道具があって、実験や調査を続けられる人がいる」
「うん」
「そこで、蒸気機関や共鳴石だけじゃなくて、魔法や新しい素材についても研究できたらいいなって」
王立研究所へ通った日々を思い出す。
あそこでは、一つの疑問について、何人もの研究者が意見を出し合っていた。
実験が失敗すれば、原因を調べる。
成功すれば、同じ結果が出るか確かめる。
そして、次の研究につなげていく。
研究を進めるための仕組みが、ちゃんとあった。
この領にも、そんな場所を作れないだろうか。
「それに、今度学校を作るでしょ?」
「うん」
「将来、そこで勉強した子供たちが研究者になってくれたら、嬉しいな」
ミラが微笑んだ。
「いいね、それ」
「でしょ?」
「領地の子供たちが、自分たちの領地で新しいものを発見するんだね」
「そうそう」
想像すると、何だか楽しくなってきた。
最初は、文字の読み書きや計算を教える学校だ。
でも、そこで学んだ子供たちが、もっと勉強したいと思うかもしれない。
いずれ王立学院へ進む子もいるだろう。
その知識を持ち帰って、領内で新しいものを作ってくれたら。
……いいな。
今いる大人たちだけで、ずっと領地を発展させていくわけじゃない。
次の世代にも、いろいろな可能性を残しておきたい。
「……問題は、人材なんだけどね」
「研究する人?」
「うん。建物を造るだけなら何とかなると思うけど、研究者がいないと意味がないから」
「王都から来てもらうのは?」
「そう簡単じゃないと思うよ」
王立研究所には優秀な研究者がたくさんいる。
でも、みんな自分の研究があるだろうし、生活だってある。
この決して豊かとはいえない男爵領へ移り住んでもらうのは現実的ではない。
研究できる環境。
生活する場所。
報酬。
それに、研究所をどう運営するかも考えなければならない。
「……まずは、必要な研究分野を整理してみようかな」
俺は再びペンを手に取った。
すると、ミラが俺の手にそっと触れた。
「リオン」
「ん?」
「研究所は、今日中に作らなくてもいいでしょ?」
「……あ」
ミラが笑っている。
「今は、一緒にご飯を食べよう?」
俺は手元の紙を見た。
まだ何も書いていない。
それなのに、頭の中では研究所の建物や設備のことを考え始めていた。
……またやってしまった。
「そうだね。ごめん」
「謝らなくてもいいよ」
ミラが微笑む。
「リオンが領地のことを考えるのは、いいことだと思う。でも、休むことも大切だよ」
「うん。ありがとう」
俺はペンを置き、椅子から立ち上がった。
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
「ピコも行くよ」
「ピー!」
ピコが元気よく返事をする。
ミラと一緒に部屋を出た。
廊下を歩きながら、ふと思う。
領地に来てから、やりたいことがどんどん増えている。
道路。
学校。
鉱山。
蒸気機関車。
そして、研究所。
前世では会社を経営していた。
今は領地を経営しているようなものだ。
でも、経営するというのは、何でも自分でやることじゃない。
仕事を任せられる人を増やす。
その人たちが力を発揮できる環境を作る。
そして、次の世代を育てる。
そういうことが、これからますます大切になるんだろうな。
「リオン?」
「ん?」
「また仕事のこと考えてる?」
「……ばれた?」
「うん」
ミラが楽しそうに笑った。
「もう。今夜くらいは、私の話も聞いてね」
「あはは。もちろん」
……気をつけよう。
◇
翌日。
午前中は政務所で仕事をしていた。
ローレンさんからは、学校の準備状況について報告を受けた。
クルストが中心になって、教室に必要な備品を整理しているらしい。
最初は十人ほどから始める予定だが、希望者が増えた場合のことも考えているそうだ。
「順調そうだね」
「はい。教材の見本が届けば、授業の内容も具体的に決められると思います」
「ありがとう。引き続きお願いね」
「承知しました」
その後は、道路工事の報告を確認した。
ローレンさんといくつか確認し、必要な指示を出しておく。
そんなことをしているうちに、昼近くになった。
「……よし。午前中はここまでかな」
俺は最後の書類を机に置いた。
「ミア、午後の予定はどうなってる?」
「まず、ルッツさんから試験場の整備について報告を受ける予定です。その後、アナハイムから届いた工房の建設状況を確認していただきます」
「分かった。ありがとう」
午後もやることがあるな。
昼食を取ってから、順番に片づけよう。
そう思った時だった。
コンコン。
扉が叩かれる。
「失礼いたします」
政務所の職員が顔を出した。
「どうしたの?」
「男爵様に、お客様がお見えです」
「お客様?」
「はい。王都からお越しになった方で、男爵様にお会いしたいと」
「誰だろう?」
今日は、そんな予定は入っていなかったはずだ。
「お名前は?」
「アルベルト・ヴァイス様とおっしゃっています」
「……え?」
思わず椅子から立ち上がった。
「ヴァイス所長!?」
どうして?
王立研究所の所長が、突然この領地に?
「すぐにお通しして!」
「承知しました」
職員が部屋を出ていく。
俺はミアを見る。
「ミア、ごめん。午後の予定、少し変更になるかもしれない」
「かしこまりました」
それにしても、何だろう。
王立研究所で何かあったのかな。
それとも、以前一緒に研究した魔法のことだろうか。
考えているうちに、再び扉が叩かれた。
「アルベルト・ヴァイス様をお連れしました」
「どうぞ!」
扉が開く。
そこに立っていたのは、懐かしい人物だった。
白髪交じりの髪。
鋭い目つき。
そして、どこか楽しそうな表情。
間違いない。
「ヴァイス所長!」
「久しぶりだな、ハル」
「お久しぶりです!」
思わず笑顔になった。
王立研究所では、本当にお世話になった。
浮遊魔法。
転移魔法。
亜空間収納魔法。
あの人と一緒に、いろいろな実験をしたものだ。
「お元気そうで何よりです」
「君も元気そうだな」
「はい!」
ヴァイス所長が部屋の中を見回す。
机に積まれた書類。
壁に掛けられた領地の地図。
そして、窓の外に広がる領都の景色。
「……ずいぶん忙しそうだな」
「そうなんですよ。やることが多くて」
「そのようだな」
ヴァイス所長が小さく笑った。
「それにしても、今日はどうされたんですか?」
「少し、君に話があってな」
「話、ですか?」
「ああ」
何だろう。
王立研究所に関係することかな。
「まずは座りませんか?」
「そうさせてもらおう」
ヴァイス所長が椅子に腰を下ろす。
俺も向かいの席に座った。
ミアがお茶の準備をしてくれている。
「突然訪ねてきて、すまなかったな」
「いえ。所長なら、いつでも歓迎ですよ」
「そう言ってもらえるとありがたい」
ヴァイス所長が俺を見つめた。
「ハル」
「はい」
「君が王立研究所に来なかったのは、今でも少し残念に思っている」
「……そうでしたか」
「だが、君がこの領地で何を始めるのか、ずっと気になっていた」
そう言って、再び窓の外へ目を向ける。
「王立研究所にも、いろいろと話が届いているぞ」
「そうなんですか?」
「ああ。硬化石を使った道路に、共鳴石の通信機。最近では蒸気の研究をしているそうだな」
「はい。まだまだですけど」
「それでいい」
ヴァイス所長が頷いた。
「新しいものは、最初から完成しているわけではないからな」
懐かしい言葉だ。
王立研究所でも、何度も同じようなことを教わった気がする。
「それで、今日は研究のお話ですか?」
「いや」
ヴァイス所長は首を横に振った。
「今日は、君に頼みがあって来た」
「頼み、ですか?」
「ああ」
王立研究所の所長が、俺に頼み?
一体、何だろう。
ヴァイス所長は少しだけ表情を緩めた。
そして、思いがけないことを口にした。
「私を、この領で働かせてくれないか?」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
連載を始めてからもうすぐ半年ですが、書きたいことが多すぎて渋滞しています。




