第610話 何も出ない山
それから数日。
午前中は政務所で仕事をして、午後はアストンとアノー山を目指す日が続いていた。
学校の準備は、クルストが中心になって進めている。
教師候補との面談も始まった。
ローレンさんからは、教材の見本が届いたら、まず教室の準備を進めたいと報告を受けている。
道路や工房の建設も順調らしい。
そして、もう一つ。
「ルッツさん、調子はどう?」
「男爵様。ちょうど今、線路の位置を確認していたところです」
政務所の裏手にある、蒸気機関車の試験場だ。
以前は屋敷の庭で小さな蒸気機関車を走らせていた。
でも、もっと大きなものを作るなら、庭では狭すぎる。
そこで、新しい試験場を整備しているところだった。
地面には何本もの杭が打たれ、職人たちが線を張っている。
「ここに線路を敷くの?」
「はい。まずは真っすぐ走らせる予定です。その後、曲がる時や坂を上る時の試験もできるようにしたいと考えております」
「いいね」
少し離れた場所には、組み立て途中の部品が並んでいた。
「機関車の方は?」
「そちらも進めております。ただ、大きくすると車体が重くなりますので、車軸や車輪の強度も見直しております」
「なるほど」
「蒸気の圧力をどう使うかも、まだ試したいことがございます」
前世では当たり前に走っていた蒸気機関車。
でも、いざ作ろうとすると、考えなければならないことが山ほどある。
「急がなくていいからね。安全第一でお願い」
「承知しております」
俺は試験場を見回した。
いずれは、ここで作った機関車を使って、領都からアナハイムまで人や荷物を運びたい。
さらに、ノア山脈の鉱山まで線路を延ばすことができれば。
……夢が広がるな。
「じゃあ、また見に来るよ」
「はい。次にお越しになる時には、もう少し形になっていると思います」
楽しみだ。
◇
その日の午後。
アストンとピコを連れて、前回残した転移印へ向かった。
一瞬で景色が変わる。
川の音が聞こえてきた。
「ピー!」
ピコが元気よく鳴く。
「さて。今日こそアノー山に近づけるかな」
「先はまだ長いようですな」
「そうなんだよね」
川に沿って南へ進む。
前回よりも、さらに人の手が入っていない場所だった。
大きな石。
倒れた木。
草に隠れた窪み。
歩けそうな場所を選んで進むけど、なかなか距離を稼げない。
ただ、谷そのものは比較的広かった。
左右の山も、急な崖ばかりではない。
道を造るなら、地形をうまく利用できる場所もありそうだ。
「そういえば、昨日測量の人たちに相談してきたんだ」
「この谷のことでございますか?」
「うん。将来、アノー山を開発するなら、どういう道が必要になるかって」
「何か分かりましたか?」
「まずは実際に地形を測らないと、だって」
「そうでしょうな」
「でも、川沿いに道を通すことは検討できそうだって」
もちろん、川が増水する場所は避けなければならない。
地面の強さも確認する必要がある。
線路を敷くことになれば、坂の角度や曲がり方も重要だ。
まだまだ先の話だが。
◇
しばらく歩く。
南へ進むにつれて、岩に付いた青緑色の苔が増えてきた。
川岸だけじゃない。
倒木や木の根元にも広がっている。
「……本当に苔が多い山だね」
「そうですな」
「ピー!」
ピコは苔を避けるように石を選んで進んでいる。
何度か休憩を挟みながら進んだものの、日が傾く頃になってもアノー山の麓には着かなかった。
「今日はここまでかな」
「無理はなさらない方がよろしいでしょう」
「そうだね」
安全な場所を探し、新しい転移印を残す。
明日は、もう少し先まで進めるはずだ。
◇
翌日。
午前中の仕事を済ませ、昼食を取ってからアストンとピコを連れて出発した。
昨日残した転移印へ移動する。
「今日は着けるといいね」
「地図では、もうそれほど遠くないはずです」
「ピー!」
俺たちは再び南へ歩き始めた。
しばらくすると、木々の間から大きな山が見えてきた。
アノー山だ。
鋭く切り立った山というより、いくつもの尾根が重なったような形をしている。
斜面も、遠目には比較的緩やかだ。
川の近くには岩場があり、その向こうには森が広がっていた。
「おお。ようやく着いたね」
「はい」
思わず笑ってしまった。
転移魔法がなかったら、ここまで来るだけで何日もかかっていただろう。
でも、実際に山の近くまで来て、まず驚いたのは別のことだった。
「……苔だらけだ」
岩。
倒木。
地面。
あちらこちらが青緑色に覆われている。
中には、大きな岩の表面をすっぽり包んでいるような場所もあった。
「ほかの山では、ここまで見かけませんでしたな」
「そうだね」
アーシタ山やビダン山にも苔は生えていた。
でも、こんなに多くはなかったはずだ。
「ピー!」
ピコが苔のない石の上へ飛び乗った。
「ピコ、滑るから気をつけてね」
「ピー!」
元気そうだ。
◇
山の麓を歩いていると、川の流れが少し広くなった場所に出た。
「……そういえばなんだけど」
「どうされました?」
「この川、すごくきれいじゃない?」
思わず足を止めた。
川底の石が、はっきり見える。
水深がある場所でも、石の形が分かるほど透明だった。
流れの緩いところでは、水面に周囲の木々が映っている。
近づいて覗き込む。
「おお……」
すごいな。
前世でも山の中できれいな川を見たことはあったけど、ここまで澄んでいる水は珍しい気がする。
「確かに、随分と澄んでおりますな」
「だよね」
川上を見る。
さらに奥の山から、水が絶えず流れてきている。
近くに村や工房があるわけでもない。
人の手がほとんど入っていない場所だ。
試しに《綻びの目》を使ってみる。
「……ん?」
何も出ない。
もう一度、水の流れに目を向ける。
やっぱり反応しなかった。
レイ湿原でもそうだったけど、今回も何もない。
少なくとも、今の俺には異常が見つけられなかった。
「リオン様?」
「いや、なんでここの水はこんなに綺麗なんだろうって思ったんだよ」
そう答えながら、水面を見つめる。
それにしても、きれいだ。
水底まで見えるし、変な臭いもしない。
このままでも飲めそうだな。
もちろん、本当に飲用に適しているかどうかは、ちゃんと調べないと分からない。
でも、少しだけ味を確かめてみたくなった。
流れのある場所で水をすくい、少量を口に含む。
「……あ、お待ちください!」
冷たい。
それに。
「おいしい」
思わず声が出た。
「おいしいのですか?」
「うん。すごくおいしい」
余計な味がしない。
冷たくて、すっと喉を通る。
これまで飲んできた水とは、何だか違う気がする。
「アストンも飲んでみる?」
「いえ。私は飲用に適していると確認できてからにいたします」
「……それが正しいと思う」
ちょっと先走ったかな。
でも、確かにおいしかった。
「ピー?」
ピコが俺を見上げている。
「ピコも気になる?」
「ピー!」
「でも、ピコはちゃんと安全だと分かってからね」
「ピー……」
少し不満そうだ。
俺は川の水をもう一度眺めた。
これだけきれいで、おいしい水なら。
「……この水、領都まで持ってこられないかな」
「領都まで、でございますか?」
「うん。こんな水が領都でも飲めたら、嬉しいでしょ?」
今の領都にも井戸や水路はある。
水がまったく足りないわけじゃない。
でも、飲み水の質がもっとよくなるなら、それは領民にとっても嬉しいことだと思う。
「ここから領都までは、かなり距離がございますな」
「そうなんだよね」
アノー山からアナハイムへ。
さらにレイ湿原と穀倉地帯を越えて、領都へ。
川の水が北へ流れているとはいえ、そのまま飲み水として使えるわけじゃない。
途中で別の水も混ざるし、水を引くなら専用の設備が必要になる。
全部を水路や管でつなぐとなれば、大変な工事だ。
「でも、いずれ考えてみたいな」
「まずは水質の調査が必要でしょう」
「そうだね。それに、水量も調べないと」
せっかくの川だ。
どれくらいの水が流れているのか。
季節によって変わるのか。
飲み水として使えるのか。
調べてみる価値はありそうだ。
「とりあえず、水の採取も専門家に相談してみようかな」
「よろしいかと」
俺は川を振り返った。
鉱山の調査に来たつもりだったけど、思わぬものが見つかったな。
◇
その後は、山の周辺を調べることにした。
川沿いの岩場。
木々の少ない斜面。
地面から露出している石。
あちこち歩き回ってみる。
アーシタ山では銅が見つかった。
ビダン山では共鳴石と硬化石。
リンクス山では石炭。
だから、少しは期待していたんだけど。
「……何もないね」
「こちらも、特に変わったものは見つかりません」
アストンが拾った石を見せてくれた。
普通の灰色の石だ。
俺が見つけたものも、特に変わったところはない。
もちろん、俺たちに鉱石を見分ける専門知識があるわけじゃない。
気になったものは持ち帰って、詳しい人に見てもらう必要がある。
ただ、今のところ目立った発見はなかった。
「……そう簡単には見つからないか」
「山に入るたび、価値のあるものが見つかるわけではございませんからな」
「それはそうだね」
アストンの言うとおりだ。
これまでが順調すぎたのかもしれない。
それから、もう一つ気になったことがあった。
「そういえば、魔物も見かけないね」
「はい」
ここまで歩いてきた間も、魔物には出会っていない。
アノー山に着いてからも同じだ。
「ほかの山では、結構いたのにね」
「たまたま遭遇していないだけかもしれません」
「そうだね。油断はしないようにしよう」
魔物がいないならありがたい。
でも、本当にいないのかどうかは分からない。
その日の調査は、日が傾く前に切り上げた。
山の麓に転移印を残して、屋敷へ戻る。
◇
翌日。
「今日は私も同行いたします」
テオがアストンの隣に並んだ。
「ありがとう、テオ。助かるよ」
「お任せください」
今日はテオにも一緒に来てもらうことにした。
もちろん、ピコも一緒だ。
「ピー!」
午前中の仕事を片づけ、午後になってから山へ向かう。
転移印へ移動すると、アストンとテオがすぐに周囲を確認した。
「異常はありません」
「こちらも問題なさそうです」
「じゃあ、今日は昨日と違う場所を見てみようか」
「承知しました」
川から少し離れた斜面。
木々の少ない岩場。
土が露出している場所。
三人で手分けしながら、周辺を調べていく。
でも。
「……やっぱり何もないな」
出てくるのは普通の石ばかりだ。
テオが、手元の石を眺めている。
「ほかの山では、いろいろ見つかっておりますが」
「うん。ここまで何もないと、ちょっと意外だね」
「本当に何もない山なのでしょうか」
「どうだろう。地面の下は分からないからね」
それにしても。
アノー山は、何だか静かだった。
鳥の声は聞こえる。
風が木々を揺らす音もする。
でも、魔物の気配がない。
「テオ。魔物の足跡とかは見つかった?」
「いえ。今のところ確認できておりません」
「そうなんだ」
アストンも周囲を見回す。
「ただ、警戒は続けます」
「うん。お願い」
これまでの山では、何度も魔物に襲われた。
それが、この山では一度も出てこない。
珍しいな。
◇
しばらく調べたところで、休憩することにした。
ケーラが用意してくれたサンドイッチを取り出す。
「ピー!」
「ピコもお腹が空いた?」
「ピー!」
「はいはい。これ、ピコの分ね」
ピコが嬉しそうに食べ始めた。
俺もサンドイッチを頬張る。
……おいしい。
それにしても、どうしようかな。
地表で見られる範囲は、ある程度調べた。
でも、目立った鉱物は見つからない。
「アストン、テオ。少し掘ってみようと思うんだけど、どうかな?」
「試し掘りですか?」
「うん。前にビダン山でやったみたいに」
アストンが周囲を確認する。
「場所を選べば可能かと。ただし、崩れそうな斜面は避けた方がよろしいでしょう」
「もちろん」
本格的な坑道を造るつもりはない。
今日は、地面の下を少し確かめるだけだ。
川から離れた、比較的平らな場所を探す。
大きな木の根がなく、崩れそうな岩も近くにない。
周囲を確認し、《綻びの目》も使ってみた。
少なくとも、目立った異常は見つからなかった。
「ここならどうかな?」
「よろしいかと」
「では、最初は私が見張ります」
テオが少し離れた場所へ移動する。
アストンには、掘り出した土や石の運搬を手伝ってもらうことにした。
「じゃあ、始めようか」
《身体強化》を使う。
全身に力がみなぎった。
亜空間収納から取り出したシャベルを地面へ突き立てる。
ザクッ。
ザクッ。
土を掘り返し、石を取り除く。
アストンが次々に土を運んでくれる。
「相変わらず、すごい速さですな」
「身体強化してるからね」
「それでも、普通では考えられません」
「そうかな」
しばらくすると、大きな岩に当たった。
「あ、岩だ」
「かなり大きそうですな」
「少し周りを掘ってみるよ」
さらに土を取り除いていく。
少しずつ、岩の表面が現れてきた。
灰色の岩だ。
特に変わったところはない。
「何かありそうですか?」
「今のところ何も」
岩の一部を削ってみる。
中も同じような色だった。
「……普通の岩だね」
「そのようですな」
もう少し離れた場所も掘ってみる。
でも、そちらも同じだった。
途中でアストンとテオが交代する。
一人が土や石を運び、もう一人が周囲を警戒する。
俺は《身体強化》を使って、地面を少しずつ掘り進めた。
時々、崩れそうなところがないか確認する。
大きな亀裂があれば、そこで止めるつもりだ。
ただ、今のところ危険そうな場所は見当たらない。
「リオン様。少し休まれてはいかがでしょうか」
テオが声をかけてきた。
「あ、そうだね」
《身体強化》を解除する。
思ったより疲れたな。
掘った場所を覗き込む。
出てきたのは、普通の土と石ばかりだった。
「……何も出なかったね」
「残念ですな」
アストンが答える。
「まあ、ちょっと掘ったくらいで分かることじゃないけど」
鉱脈があるかどうか。
どのあたりに、どんな鉱石があるのか。
そもそも、何もないのか。
そういうことは専門家に任せた方がいい。
俺たちがあちこち掘り続けても、効率が悪いだけだろう。
「とりあえず、今日はここまでにしようか」
「承知しました」
テオが、掘った場所を覗き込む。
「岩肌がきれいに見えていますね」
「うん。土を取り除くと、こんな感じなんだね」
灰色の岩が露出している。
周囲の石には青緑色の苔がびっしり付いているけど、掘り出したばかりの岩には何も付いていない。
削ったところは、さらに色が明るく見えた。
「明日、もう一度ここを調べてみようかな」
「では、場所が分かるようにしておきます」
アストンが目印を置く。
穴に誰かが落ちないよう、周囲を確認し、必要なところには土を戻した。
その日の調査は、それで終わりにした。
◇
翌日。
また午前中の仕事を片づけ、午後になってからアノー山へ向かった。
今日もアストンとテオが一緒だ。
もちろん、ピコもいる。
「ピー!」
「今日も元気だね」
昨日の転移印へ移動する。
そこから少し歩いて、掘った場所へ向かった。
周囲は相変わらず静かだった。
魔物にも出会わない。
聞こえてくるのは、風に揺れる木々の音と、川のせせらぎくらいだ。
「……そういえば、この山の川は本当にきれいだったね」
「昨日もその話をされておりましたな」
アストンが答える。
「うん。領都でもあんな水が飲めたらいいなと思って」
「距離が問題になりそうですが」
「そうなんだよね。でも、まずは調べるところからかな」
水の量。
水質。
輸送方法。
考えることは多い。
でも、あれだけきれいな水なんだ。
何かに利用できたらいいな。
「ピー!」
ピコが前を向いて鳴いた。
「あ、もうすぐだね」
昨日置いた目印が見えてきた。
「あそこだ」
近づく。
そして。
「……あれ?」
思わず足が止まった。
「どうされました?」
アストンが聞く。
「いや……」
昨日掘った場所を見下ろす。
土を掘り返し、岩肌を露出させた場所。
昨日は、灰色の岩がはっきり見えていたはずだ。
ところが。
「……苔?」
青緑色の苔が生えていた。
穴の周囲だけじゃない。
昨日掘り返した土の上にも。
露出した岩の表面にも薄い苔が広がっている。
「アストン。昨日、ここって苔があった?」
「いえ。掘り返したばかりでしたので、なかったはずです」
「だよね」
テオも穴を覗き込んだ。
「確かに、昨日は岩肌が見えていました」
「そうだよね?」
しゃがみ込んで確かめる。
昨日、土の下から出てきたばかりの岩だ。
つるはしで削った部分も覚えている。
昨日は、そこに苔なんてなかった。
それなのに。
「……一日で?」
「そのようですな」
アストンも驚いている。
テオが周囲を見回した。
「そういえば、この山はどこも苔が多いですね」
「うん。来る途中も、南へ進むほど増えてたんだ」
川沿いの岩。
倒木。
木の根元。
山の麓に来た時には、あちらこちらが苔だらけだった。
でも、昨日掘った場所にまで生えているなんて。
「……この苔、繁殖するのが早すぎない?」
「少なくとも、私が知る苔とは違いますな」
アストンが答えた。
「ピー?」
「いや、ピコ。ちょっと不思議だなと思って」
「ピー!」
俺は改めて、掘った場所を見る。
昨日は何もなかった岩肌が、もう青緑色になっていた。
こんなに早く増える苔があるんだろうか。
アノー山を見上げる。
鉱石は見つからない。
魔物にも出会わない。
川の水は驚くほどきれいで、おいしかった。
そして、この苔。
……何だか、変わった山だな。
もう一度、昨日掘った穴へ目を戻す。
それにしても、たった一日でこんなに苔が生えるものなのか?
最後まで読んでいただきありがとうございます。
番外編ナディア×ガイルで多くのリアクション、コメントを頂けて嬉しいです。
この番外編の構想はリオン達が一年生の頃にはできていたんですが、実現まで500話くらいかかってしまいました。




