↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
45歳社長、転生先でハズレスキル「綻びの目」を武器に没落領地を再建する  作者: アカメノコバチ
第21章 リオン・ハル男爵

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
631/679

番外編⑩ 帰りたくない理由

今回は番外編です。

ガイルとナディアがリオンの領を出た後くらいの話です。

 アルスレイン王国の王都。


 リオン領を離れて数日後、私はセルヴァン大使館へ戻った。


 王都に着いたところで、ガイルさんとは別れた。


『じゃあな、ナディア。元気でな!』


『ガイルさんも、お気をつけて』


『おう。また会おう!』


 あの人は、いつものように大きな声で笑っていた。


 私も笑顔で見送った。


 ただ、馬の姿が街角へ消えたあと、しばらくそこから動けなかった。


 大使館へ戻れば、やることはいくらでもある。


 リオンさんの領で進めていた稲作の報告。王都で築いた人脈への連絡。


 ドラン帝国の軍が動いているという知らせも、次々に入ってきた。


 忙しくしていれば、余計なことは考えずに済む。


 ……そう思っていた。


 しばらくして、本国から帰国の指示が届いた。


 情勢が緊迫する中、父上は直接話を聞きたいらしい。


 大使館で仕事を引き継ぎ、私はセルヴァンへ向かった。


 故郷の王宮へ戻って間もなく、ドラン帝国がサハルへ侵攻したとの報せが届いた。


 そして、その数日後。


「ナディア。お前の婚約について、話しておきたい」


 父上に呼ばれ、私は王宮の執務室へ来ていた。


 母上と宰相もいる。


 机の上には、見慣れたセルヴァンの地図が広げられていた。


「カレイン公爵家との婚約を、解消する方向で話を進めている」


「……婚約を、ですか?」


「ああ」


 思わず聞き返した。


 幼い頃から、いずれカレイン公爵家の嫡男へ嫁ぐものだと思っていた。


 相手の方を嫌っていたわけではない。


 ただ、私が選んだ方ではなかった。


「何か、問題があったのでしょうか」


 父上はすぐには答えなかった。


「カレイン公爵家は、代々優秀な当主を輩出してきた名門だ。内政でも外交でも、この国を支えてもらっている」


「はい。よく存じております」


 先代の公爵は、財政が苦しかった地方を立て直したことで知られている。


 現公爵も、父上が信頼を寄せる方だ。


「だが、嫡男については、以前から問題が多かった」


「……」


 思い当たる話がないわけではない。


 酒席で騒ぎを起こしたこと。


 女性との付き合い方を巡る揉め事。


 使用人に対する理不尽な振る舞い。


 私の耳にも、断片的な噂は届いていた。


「もちろん、噂だけで判断したわけではない。王家として事実を確かめた」


「そうだったのですね」


「公爵自身は厳しく戒めてきたが、改まっていないこともある。

 王女の配偶者として、このまま見過ごすわけにはいかん」


 私は言葉を探した。


 幼い頃から決まっていた婚約だ。


 相手の方をよく知る機会は多くなかった。それでも、嫌っていたわけではない。


 ただ、噂が本当なら、結婚したあとどうなるのだろうと考えたことはあった。


「それに、情勢も変わった。ドラン帝国がサハルへ侵攻したことは、お前も知っているな」


「はい」


「次に何が起こるか分からん。セルヴァンも、今までと同じ外交を続けてはいられない」


 父上が地図の上へ手を置く。


 アルスレイン王国。


 サハル王国。


 そして、ドラン帝国。


 学院にいた頃より、国と国の距離が近く感じられた。


「国内の結びつきも大切だ。カレイン公爵家には、これからも国を支えてもらわねばならん」


「はい」


「公爵には調査結果を伝えた。嫡男の不始末を重く受け止めている。

 本人にも改めて確認し、婚約は双方の合意で解消する方向だ」


「公爵様は、反対されなかったのですか?」


「簡単な決断ではなかっただろう。それでも、王家への責任と、家の将来を考えてくださった」


 父上が続ける。


「公爵家そのものの功績まで否定するつもりはない。婚約解消の発表も、両家の合意として行う。

 公爵家との協力関係は維持する」


「……承知いたしました」


 たった一人の問題で、代々の功績が消えてよいわけではない。


 父上は、そこまで考えているのだ。


 それなら、私が口を挟むことではない。


「承知いたしました」


 父上が少し眉を動かした。


「……それだけか?」


「はい?」


「長い付き合いのある婚約だ。寂しくはないのか」


 寂しい。


 その言葉を胸の中で繰り返した。


 けれど、思い当たるものがない。


「ご迷惑をおかけするのは心苦しいですが、両家の合意であれば、私に異存はございません」


「そうか」


 母上が何か言いたそうに私を見た。


 でも、結局何も言わなかった。


 ◇


 執務室を出て、長い廊下を歩いた。


 窓の向こうには、子供の頃から見慣れた庭がある。


 婚約が解消される。


 もう、あの方と結婚することはない。


 胸に手を当ててみた。


 ……不思議だ。


 悲しいわけではない。


 嬉しくて仕方がないわけでもない。


 ずっと決まっていた将来が変わったというのに、思っていたほど心が動かない。


 私はいつから、自分の結婚をこんなふうに考えるようになったのだろう。


 ◇


 セルヴァンの王女として生まれた私は、幼い頃から多くのことを教わった。


 礼儀。


 歴史。


 外交。


 兄が二人、妹が二人いる。


 王位は兄上たちのどちらかが継ぐのだろう。それでも、私に役割がないわけではない。


 ある日、母上に尋ねたことがある。


『私は、どなたと結婚するのでしょうか』


 まだ幼かった私に、母上は穏やかに答えた。


『ナディアが大きくなった時、セルヴァンにとって大切な方でしょうね』


『好きな方と結婚するのではないのですか?』


 母上は、すぐには答えなかった。


 だから、分かった。


『王女だからですか?』


『……ええ』


『分かりました』


 泣いた記憶はない。


 兄上には兄上の役割がある。


 私には私の役割がある。


 それだけのことだと思っていた。


 だから、あまりわがままを言わなかった。


 ……ただ、一度だけ。


 自分から父上にお願いしたことがある。


『アルスレイン王立学院へ留学させてください』


 父上は驚いた。


『お前が?』


『はい』


『なぜ、わざわざ他国へ行きたいのだ』


 外交を学ぶため。


 他国を知るため。


 将来のセルヴァンのため。


 理由ならいくつもあった。


 でも、その時は違うことを言いたかった。


『……私が、行ってみたいのです』


『国のためではなく?』


『もちろん、国のためにもなると思います。でも、一番は私の希望です』


 父上は、しばらく黙っていた。


 叱られると思った。


 けれど。


『そうか。なら、行ってこい』


 父上は笑った。


『三年間だ。その間に学べるだけ学んでこい』


『……ありがとうございます!』


 嬉しかった。


 自分で行き先を選んだ。


 あの日のことは、今でもよく覚えている。


 ◇


「お姉様!」


 庭に出ると、妹たちが駆け寄ってきた。


「お帰りなさいませ!」


「先ほども会いましたよ」


「でも、また会えました!」


 そんなことを言われたら、笑うしかない。


「走ると転びますよ」


「大丈夫です!」


「昨日も同じことを仰って、転んだでしょう?」


「あれは、たまたまです!」


 思わず笑った、その時だった。


 頭上に大きな影が落ちた。


 ばさり、と風が吹く。


「きゃっ!」


 妹が髪を押さえた。


 大きな鳥が庭へ降りてくる。


 私の従魔、ガルーダのポロリだ。


「ポロリ。ただいま」


 呼びかけると、大きな頭を私の胸元へ押しつけてきた。


「もう。そんなに押したら倒れてしまいます」


 羽毛を撫でる。


 ポロリは、気持ちよさそうに目を細めた。


「寂しかったのですか?」


 返事の代わりに、また頭を寄せてくる。


 妹たちが笑った。


 私も笑う。


 父上がいる。


 母上がいる。


 兄上たちも、妹たちも、ポロリもいる。


 セルヴァンは、私の大切な故郷だ。


 なのに。


 卒業してから、どうしてすぐに帰国する気になれなかったのだろう。


 王都の大使館に勤めれば、国のためになる。


 学院で築いた人脈も生かせる。


 それは間違いなく本心だった。


 でも、帰国の話が出るたびに、胸のどこかで思っていた。


 ――まだ、帰りたくない。


 その理由だけが、分からなかった。


 ◇


 帰国してしばらく経った頃、父上に呼ばれた。


「ナディア。これを見てくれ」


 机の上には、小さな箱と板が置かれていた。


「あ……」


「知っているのか?」


「はい。共鳴石通信機です」


 リオンさんが開発したものだ。


 私も、リオン領を離れる時に一台いただいている。


「アルスレイン王宮との間で、試験的に通信を始めることになった」


「もう届いたのですね」


「ああ。まずは決まった相手と、限られた内容をやり取りする。重要な情報の扱いには、まだ慎重でなければならんそうだが」


「それがよろしいと思います」


 宰相が通信機を見下ろした。


「しかし、これほど早く連絡できる道具が実用になるとは。国境の砦から知らせを受けるだけでも、今までとは違います」


「伝える相手がいれば、離れた場所でも連絡できます。ただし、通信機を置くだけではいけません。

 誰が受け取り、誰へ伝えるかも決める必要があります」


 父上が頷いた。


「なるほど。道具と、それを動かす者が必要か」


「はい」


「量産もできるのか?」


「リオンさんたちは、そのつもりで工房を整えておられました。材料となる共鳴石は、ビダン山という山で採掘されています」


「一人の男爵が、国同士の連絡まで変えようとしているのか……」


 父上が感心したように呟く。


 私は少し笑ってしまった。


 リオンさんなら、きっとまだ別のことも考えている。


「アルスレインとの関係は、これからますます重要になるな」


 父上の言葉に頷いた。


 同時に、なぜか一人の顔が浮かんだ。


 ……どうして、今なのだろう。


 ◇


『分からん』


 学院の教室で、ガイルさんが腕を組んでいた。


『どこが分からないのですか?』


『全部だ』


『全部では説明できません』


『じゃあ、ここ』


『そこは先ほど説明しました』


『そうだったか?』


『そうでした』


『もう一回頼む』


 私は小さく息を吐いて、もう一度説明した。


 ガイルさんは筆記試験が得意ではなかった。


 でも、分からないことを分かったふりはしない。


 私が王女だからと、変に遠慮することもなかった。


『ああ、分かった!』


『本当ですか?』


『たぶん!』


『では、こちらを解いてください』


『……厳しいな』


『試験では誰も助けてくれませんから』


 ガイルさんは文句を言いながらも、問題へ向かった。


 しばらくして。


『できたぞ!』


『正解です』


『よし!』


 嬉しそうに笑う。


 それから、こちらを見て言った。


『お前の説明、分かりやすいな』


『……ありがとうございます』


 たった一言だった。


 もっと立派な褒め言葉をいただいたことはある。


 もっと大勢の前で評価されたことだってある。


 それなのに、あの時のガイルさんの顔は、今でもすぐに思い出せた。


 卒業前にも、こんなことがあった。


『ナディアがいなくなると、寂しいな』


 ガイルさんは、いつもの調子でそう言った。


『……私もです』


 私は、それ以上言えなかった。


 もっと話していたい。


 また一緒に勉強したい。


 もう少し、このままでいたい。


 胸の中には、いくつも言葉があったのに。


 私には帰る国があり、婚約者もいる。


 だから、ただ微笑んだ。


 ◇


 それから数日後。


 父上は、カレイン公爵家との婚約解消の手続きが正式に整ったことを知らせてくださった。


 公爵家との協力関係は今後も続く。


 嫡男はしばらく公の役目を離れ、現公爵の監督のもとで行動を改めることになったそうだ。


 婚約解消の発表では、個々の問題をことさらに広めず、外交情勢の変化と両家の合意を理由とする。


 これまで国を支えてきたカレイン家の人々にまで、いらぬ不名誉を負わせる必要はない。


 そういう父上の考えだった。


 ほっとした。


 でも、その安堵は婚約者を失う悲しさとは違っていた。


「ナディア」


「はい」


「アルスレイン王国との婚姻も、選択肢として考えている」


 父上が言った。


「ドラン帝国の動きを考えれば、両国の関係はさらに強くしておきたい」


「承知いたしました」


「……また、すぐに承知するのだな」


 父上が苦笑する。


「ですが、私にできることなのであれば」


「相手も決まっておらん。まだ何も承知する必要はない」


「……はい」


 父上は、なぜか少し寂しそうだった。


 ◇


 後日、候補となる家について話を聞く機会があった。


 公爵家。


 王家と縁の深い家。


 国境を守る大貴族。


 宰相が、一つずつ説明していく。


 家格。


 年齢。


 継承の事情。


 両国にとっての利点。


 どれも大切なことだ。


 私も王女として、その意味は理解している。


「ヴァレスト公爵家の嫡男、ルーク殿は、まだ十三歳ですな」


「ナディアには年が離れすぎている」


「将来的には、妹姫との縁組を考える余地はあるかもしれません」


 父上が頷いた。


 その次の名前を聞いた時だった。


「ベイルン辺境公家の嫡男、ガイル殿も候補になります」


 胸が、どきりとした。


「国境を守る家か」


「はい。アルスレイン王国でも有数の武門でございます」


 知っている。


 私が知っているガイルさんは、そんな説明だけで収まる方ではない。


 力が強くて。


 声が大きくて。


 時々、驚くほど単純で。


 でも、仲間のことになると誰よりも真剣になる。


「ナディア」


「……はい」


「顔色が変わったが、どうした?」


「いえ。ガイルさんとは、学院で一緒でしたので」


「そうだったか」


 それ以上は言えなかった。


 どうして、名前を聞いただけでこんなに落ち着かないのだろう。


 ◇


 夜、一人になってから、リオン領で過ごした時間を思い出した。


 あの時、ミラさんとセレナさんと三人で、遅くまで話したことがあった。


『……ガイルじゃなくて?』


 ミラさんが、何気ない調子で聞いた。


『ミラさん?』


『違うの?』


『違います』


『今、少し間があったわね』


 セレナさんが笑う。


『ございません』


『あったわよ』


 もう。


 どうして、この二人はこうなのだろう。


『ガイルさんは友人です。それに、私には婚約者がおります』


 私は、二人へきちんと説明した。


 王女としての婚約。


 家と家のつながり。


 私の立場。


 どれも、大切なことだ。


『ナディアは、それをちゃんと分かってるんだね』


 ミラさんが頷いた。


『はい』


『だから、簡単にやめたいなんて言えないんでしょ?』


『……はい』


 理解してもらえて、ほっとした。


 でも、ミラさんは続けた。


『それでもね。誰かを好きになったからって、ナディアが今まで大切にしてきたものが減るわけじゃないと思うの』


『……』


『お父様やお母様のことも、国のことも。大切なままでいいんじゃないかな』


『ですが、叶わない気持ちなら……』


 思わず口にしてしまった。


『叶わないなら、好きだったことにも意味はないのでしょうか』


 ミラさんは少し考えた。


『叶わないと、好きだったことまでなくなっちゃうの?』


 何も答えられなかった。


『私は、そうは思わないな』


 セレナさんが小さく息を吐く。


『ミラって、時々すごいことを言うわね』


『そう?』


『そうよ』


 二人が笑った。


 私も、つられて少し笑った。


 灯りを消してからも、話は続いた。


『ナディア。卒業してからも、ずっとアルスレインにいるよね』


『王都の大使館で仕事がございますから』


『それだけ?』


 ミラさんに聞かれ、私は暗い天井を見つめた。


 答えが出ない。


 しばらくして、ようやく口を開いた。


『……帰りたくないのです』


『セルヴァンに?』


 セレナさんの声がした。


『はい。父も母も、兄も妹も好きです。ポロリにも会いたいです』


『うん』


『でも、帰りたくないのです』


 自分で口にして、初めて分かった。


 私は、本当にそう思っていたのだ。


『どうしてなの?』


『……分かりません』


 静かになった。


 やがて、ミラさんが言った。


『いつか分かるよ』


『何がでしょうか』


『帰りたくない理由』


『……分かるでしょうか』


『うん。きっとね』


 それ以上、ミラさんは何も言わなかった。


 ◇


 その間も、アルスレインとの協議は進んでいった。


 父上は、共鳴石通信の利用だけでなく、王都の大使館にいる者たちにも働きかけていた。


 王宮同士で連絡するより、先に実務担当者が条件を整理しておいた方が話は早い。


 もちろん、通信機があれば何でも即座に決められるわけではない。


 それでも、共鳴石通信を使えば、王宮同士の確認は以前よりずっと早い。


 朝に試験通信を送れば、日をまたがずに返答が来ることもある。


 もちろん、重要な内容を何でも送ってよいわけではない。正式な書状や使節も必要だ。


 それでも、今までなら使者の往復に何日もかかっていた。


 連絡の速さだけは、明らかに変わっていた。


 リオンさんが作った通信機が、私の結婚の話にまで関わるなんて。


 少しだけおかしかった。


 それから十日ほど経った頃。


 アルスレイン王国の使節団が、セルヴァン王宮へ到着した。


 ガイルさんの出席については、ベイルン家にも事前に打診があったそうだ。


 ドラン帝国への警戒が続く中、ベイルン領では騎士団の幹部が守りを固め、その間にガイルさんが正式な協議へ参加することになったという。


 父上たちとともに出迎える。


 使節団の中に、見慣れた大きな体があった。


 目が合う。


「ナディア!」


 ガイルさんが笑った。


「……お久しぶりです、ガイルさん」


「おう! 元気だったか?」


「はい。ガイルさんもお変わりないようで」


「ああ!」


 いつもの声だった。


 いつもの笑顔だった。


 それだけで、肩の力が抜けた。


 ……どうして、こんなに安心するのだろう。


 ◇


 正式な会談には、父上と母上、宰相、アルスレイン側の使節、それにベイルン家の方々が出席した。


 ドラン帝国への警戒。


 国境での協力。


 共鳴石通信の運用。


 交易。


 いくつもの議題が話し合われる。


 その中で、婚姻の話になった。


 セルヴァンの王女がアルスレインへ嫁ぐ。


 それは、私だけの話ではない。


 両国の関係を、長く支える約束になる。


 宰相が資料をめくる。


「第一王女殿下のご婚姻となれば、相手方の家格はもちろん、将来お住まいになる場所や、殿下が続けられる公務についても確認が必要です」


「そのとおりです」


 アルスレインの使節が頷いた。


「ベイルン辺境公家としても、王女殿下をお迎えするのであれば、双方の役割を明確にしておきたいと考えます」


 家格。


 公務。


 国益。


 どれも正しい。


 けれど、私は気づいてしまった。


 もし条件が一つでも合わなければ、この話はなくなるかもしれない。


 そう考えた時、胸が苦しくなった。


 今までなら、決められた相手を受け入れればよかった。


 でも今は、この人でなければ嫌だとどこかで思っている。


「陛下」


 突然、ガイルさんが口を開いた。


 室内が静まる。


「恐れながら、一つ申し上げてもよろしいでしょうか」


「許す」


 父上が答えた。


 ガイルさんが立ち上がる。


 手を、少し強く握っていた。


 ……緊張している。


 こんなガイルさんを見るのは、久しぶりかもしれない。


「今回の話が、両国にとって大切だということは分かっています」


「うむ」


「ベイルン家の嫡男として、果たすべき役目があることも」


 ガイルさんが一度言葉を切った。


「でも、その前に一つ、確かめたいんです」


 私を見た。


「ナディア殿下は、この婚姻を望んでおられるのでしょうか」


 息が止まった。


 そんなことを、ここで聞くのですか。


「私は、ナディア殿下が望んでおられないなら、この話を進めたくありません」


 ガイルさんの声は、いつもより低かった。


 真剣だった。


「国のためだと言われれば、もちろん考えます。でも、ナディア殿下を困らせてまで、結婚したいわけじゃありません」


 学院にいた頃。


 リオンさんたちの前で、何度も言っていた。


 分からないことは分からない。


 納得できないことは、納得できない。


 いつも真っすぐな人だった。


 そして、今も。


「ただ……」


 ガイルさんが大きく息を吸った。


「私は、ナディア殿下と結婚したいと思っています」


 胸が大きく鳴った。


「家のためだけじゃありません。国のためだけでもありません」


 言葉を探している。


 そういうところも、昔から変わらない。


「私は、ナディア殿下をお慕いしています」


 ……え?


 私を?


 ガイルさんが?


 頭の中が真っ白になった。


『お前の説明、分かりやすいな』


『ナディアがいなくなると、寂しいな』


『ガイルじゃなくて?』


『帰りたくないのです』


『いつか分かるよ』


 いくつもの声が、胸の中によみがえった。


 ああ。


 ……そうだったんだ。


 卒業したくなかった。


 王都を離れる日が決まるのが嫌だった。


 名前を聞くだけで、落ち着かなくなった。


 今日、顔を見ただけで安心した。


 全部、同じ理由だった。


 私は、ずっと……。


 ガイルさんが好きだったんだ。


「ナディア」


 父上の声がした。


「……はい」


「お前は、どうしたい?」


 答えようとして、言葉が詰まった。


 頬を、温かいものが伝う。


 涙だった。


「……申し訳ございません」


「なぜ謝る?」


「このような場で……」


「ナディア」


 父上が少し笑った。


「覚えているか。お前がアルスレイン王立学院へ行きたいと言った時のことを」


 ……あ。


「はい」


「あれは、お前が初めて私に言ったわがままだった」


 父上も、覚えていた。


「私は、あの時嬉しかった」


「父上……」


「お前は王女として、いつも自分の役目を考えてきた。

 だからこそ、一度くらい、自分の行きたい場所を選んでもよいと思ったのだ」


 涙が止まらなかった。


「今度も、言ってみなさい」


「……よろしいのですか?」


「国のことは、私たちが責任を持って考える。お前の答えを聞かずに決めるつもりはない」


 父上は、私をまっすぐ見た。


「ナディア。お前はどうしたい?」


 いつもの言葉が、喉まで出かかった。


 セルヴァンのためになるのであれば。


 両国のためになるのであれば。


 私は王女として――。


 でも、今聞かれているのは、それではない。


 父上は、私自身の答えを待っている。


 ガイルさんを見る。


 目が合った。


 あの日、自分の意思でアルスレインへ行った。


 その先で、この人に出会った。


「私は……」


 声が震えた。


「私は、ガイルさんと一緒にいたいです」


 言えた。


 ガイルさんが目を見開く。


 父上が微笑んだ。


 隣で、母上がそっと目元を押さえている。


 私も、また泣いてしまった。


 人生で二度目のわがままだった。


 ◇


 会談が終わったあと。


 ガイルさんと王宮の庭を歩いた。


 婚姻については、両家でまだ確認しなければならないことがある。


 住む場所も、公務も、簡単には決められない。


 正式な婚約の発表は、すべて整ってからだ。


 けれど、少なくとも私たちは、互いの気持ちを知ることができた。


「……さすがに緊張したぞ」


 ガイルさんが言った。


「そうでしょうね」


「ああ。戦う方がずっと楽だ」


 思わず笑ってしまった。


「父上の前で、あのようなことを仰るとは思いませんでした」


「まずかったか?」


「とても驚きました」


「……すまん」


 急にしょんぼりする。


「謝らないでください」


「いいのか?」


「はい」


 少しだけ勇気を出す。


「……嬉しかったです」


 ガイルさんが足を止めた。


「本当に?」


「はい」


「そっか!」


 ぱっと笑う。


 学院にいた頃と同じ顔だった。


 その時。


 ばさっ、と大きな羽音がした。


「あ」


 ポロリが庭へ降りてきた。


「でかっ!」


 ガイルさんが思わず後ずさる。


「ポロリです」


「こ、これが?」


「はい。私の従魔です」


 ポロリは大きな目でガイルさんを見つめた。


「……なあ。俺、睨まれてないか?」


「どうでしょう」


「絶対睨んでるだろ!」


「気のせいではございませんか?」


 気のせいではない。


 私は笑いをこらえながら、ポロリの首を撫でた。


「大丈夫ですよ。ガイルさんは、私の大切な方です」


 ガイルさんが黙った。


 ……あ。


 今、私は何を。


 顔が熱くなる。


 すると、ポロリがもう一度ガイルさんを見た。


「……今度は何だ?」


 大きな頭が、ぐいっと差し出される。


「撫でてほしいのか?」


「たぶん、そうだと思います」


「そうか!」


 ガイルさんが、手を伸ばした。


 ポロリは気持ちよさそうに目を細める。


 その姿が、なぜだかおかしくて。


 私は、声を出して笑った。


 ◇


 その夜。


 私はポロリの羽毛にもたれ、庭から星を見上げていた。


「ポロリ」


 大きな目が、こちらを向く。


「私、ずっと分からなかったのです」


 どうしてアルスレインから帰りたくなかったのか。


 セルヴァンは好きだ。


 父上も、母上も。


 兄上たちも、妹たちも。


 もちろん、ポロリも。


 ここは私の故郷だ。


 帰ってくる場所だ。


 それなのに、帰ることを考えると、胸が苦しかった。


 ……やっと分かった。


 本当は、故郷に帰りたくなかったわけじゃない。


 私はただ。


 ガイルさんと、離れたくなかったんだ。


「ミラさんの言った通りでした」


 いつか分かる。


 本当に、分かった。


 私は最初のわがままで、アルスレインへ行った。


 そこでガイルさんと出会った。


 そして、二度目のわがままで。


 あの人と一緒にいたいと、初めて口にした。


 ポロリが頭を寄せてくる。


 その温かさに笑いながら、私はもう一度星空を見上げた。


 これから先、決めなければならないことはまだたくさんある。


 でも、もう迷わない。


 私は、あの人の隣にいたい。



最後まで読んでいただきありがとうございます。

ガイル&ナディアの話はいかがでしたか?

なかなか本編で書けなかったので番外編にしてみました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
キャラクター事典に名前のあるリオンの同級生、お相手がいないのヴィクトルとフィーネだけなのは偶然なのかな・・・。
良し!元婚約者、グッジョブ!! ← ガイル、ナディアさんを大事になっ!(≧∀≦)
よかったよかった! 涙腺崩壊だよ!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。