第557話 使える土地
レイ湿原の中を歩く。
「うわっ」
右足が一気に沈んだ。
慌てて引き抜く。
靴が泥だらけになった。
「男爵様、大丈夫ですか?」
「大丈夫。でも、こっちは駄目だな」
草が生えているから歩けると思ったけど、その下はかなり柔らかい。
「このような場所を農地にするのでしょうか?」
「全部は無理だね」
実際に来てみるとよく分かる。
同じ湿地でも、場所によって全然違う。
水が深いところ。
泥が深くて歩くのも難しいところ。
草が密集しているところ。
少し高くなっていて、普通に歩けるところ。
「資料だけじゃ分からないな」
「はい」
紙に大まかな位置を書き込んでいく。
正確な測量は、また人を連れてきてやればいい。
今日は、どんな土地なのかを見るのが目的だ。
「こっちは歩けそうだね」
少し高くなっている場所を進む。
アストンは俺の少し前を歩きながら、周囲を警戒している。
「魔物がいる可能性もございます。あまり離れないでください」
「分かった」
「ピー!」
ピコは俺の肩の上だ。
自分で歩く気はないらしい。
しばらく進むと、浅い水が広がる場所に出た。
「ここはさっきよりいいな」
近くに落ちていた長い枝を拾い、水の中へ差し込んでみる。
そこまで深くない。
足を入れても、さっきの場所ほど沈まなかった。
「……」
目を凝らす。
視界の端に、薄青い文字が浮かんだ。
《地盤:比較的安定》
《水深:浅》
《水流:緩》
《流出方向:東》
《開拓適性:中》
さっきの場所とは明らかに違う。
足元は比較的安定している。
水も浅い。
しかも、わずかに東へ流れているらしい。
「男爵様?」
「ちょっとこっち」
「何かございましたか?」
「水の流れを見たい」
もちろん、《綻びの目》のことをアストンに話すつもりはない。
少し先へ進む。
よく見ると、水面に浮かんだ草がゆっくり東へ動いていた。
「ここから向こうに流れてるね」
「確かに」
アストンもしゃがみ込んで水を見る。
「かなり緩やかですが」
「うん。でも、流れてるなら大きい」
「大きいのですか?」
「水を入れるだけじゃ駄目だからね。多すぎたら抜かないといけない」
「なるほど」
米作りのすべてを知っているわけじゃない。
前世でも農家だったわけじゃない。
でも、水田では水を入れたり抜いたりする必要があるくらいは知っている。
「男爵様がおっしゃっていた、コメという作物ですか?」
「そう。ここなら試せるかもしれない」
周囲を見渡す。
湿原全体から見れば、ごく一部だ。
「この辺りだけでしょうか?」
「最初はね」
「これほど広い土地があるのに?」
「これだけ広いから、最初から全部なんてできないよ」
アストンが俺を見る。
「失敗するかもしれないものに全部賭けられない。まず小さく試す」
「成功すれば広げると?」
「そう。駄目なら原因を調べる」
「なるほど」
「まだ、本当に米が作れるのかも分からないからね」
紙に印をつける。
試験するなら、この辺りが候補だ。
実際に米を作ったことのある人にも見てもらいたいな。
ナディアから返事が来れば、セルヴァンの農家や詳しい人を紹介してもらえるかもしれない。
◇
さらに南へ歩く。
湿地はまだ続いている。
「広すぎるな……」
「はい」
その先には、ノア山脈が見えた。
かなり遠い。
しかし、ここからでも分かるほど大きな山々が連なっている。
「男爵様。あちらがノア山脈ですね」
「うん」
地図を確認する。
位置も合っている。
「……あっちを調べるにしても、まずこっちだな」
「どういうことでしょう?」
「道がない」
アストンも湿地を見る。
「確かに、この場所に荷車を通すのは難しいかと」
「だよね」
馬ですら途中で進めなくなった。
仮にあの山に何か価値のあるものがあっても、ここを越えて運べなければ意味がない。
「南部を本格的に使うなら、道も必要になるな」
「湿地を通すのでしょうか?」
「分からない。避けた方がいいかもしれないし、場所によっては通せるかもしれない」
道路。
水路。
人が住める場所。
そこまで考えると、とんでもない規模になる。
今の俺の領地に、そんな金はない。
「……まだ先だね」
「はい」
「まずは目の前からだ」
米が作れるのか。
この湿地が何に使えるのか。
それを確かめる。
◇
昼を過ぎても調査を続けた。
場所によって水の深さも、地面の固さもかなり違う。
細い水の流れもいくつか見つけた。
ノア山脈の方から来ているのかもしれない。
その度に位置を書き込む。
「ここも――」
「男爵様」
「何?」
「あちらに建物があります」
「建物?」
アストンが指差す方向を見る。
湿地の端。
少し高くなった場所に、小さな建物があった。
「小屋かな?」
「そのようです」
近づいていく。
かなり古い。
屋根の一部は傾き、壁もところどころ傷んでいる。
扉も斜めになっていた。
「誰かいるかな?」
「確認いたします」
アストンが先に中へ入る。
しばらくして顔を出した。
「誰もおりません」
「ありがとう」
俺も中へ入る。
狭い小屋だ。
古い机。
壊れた桶。
腐りかけた木箱。
壁際には、錆びた農具らしきものまで残されている。
「昔、誰かここで何かやってたみたいだな」
「そのようですね」
錆びた農具を見る。
「湿地を使おうとしたのかな」
「それは分かりませんが、何かの作業に使われていた可能性はありそうです」
「途中でやめたのかもしれないね」
いつ、誰が、何をしようとしていたのか。
それは分からない。
政務所から持ってきた資料にも、この小屋のことは載っていなかった。
「戻ったらローレンに調べてもらおう」
「承知しました」
改めて小屋を見る。
屋根は直す必要がある。
壁も補修した方がいい。
それでも、雨風を避けるくらいならできそうだ。
「ここ、使えるな」
「この小屋をですか?」
「うん。次から湿地を調べる時の拠点にしよう」
毎回、領都から馬で一日掛けて来る必要はない。
俺は小屋の中央に立った。
魔力を集中させる。
「……」
「男爵様?」
「少し待って」
転移するための魔力印を残す。
魔力が定着したのを確認する。
「よし」
「何をなさっていたのですか?」
「うん。あとで分かるよ」
「……?」
アストンは不思議そうな顔をした。
◇
夕方。
「今日はここまでにしよう」
「はい。それでは馬のところへ戻り、野営の準備をいたします」
「いや、帰ろう」
アストンが足を止めた。
「帰る?」
「うん」
「領都へ、でしょうか?」
「そう」
アストンが空を見る。
日が傾き始めている。
「男爵様。この足元で夜道を進むのは危険ではないかと」
「大丈夫」
「……」
「ただ、その前に一つお願い」
「何でしょうか?」
「今から起きることは、まだ誰にも話さないでほしい」
アストンの表情が変わった。
「何をなさるおつもりですか?」
「帰る」
「それは伺いました」
「領都に」
「それも伺いました」
「じゃあ大丈夫」
「男爵様、大丈夫ではありません」
珍しく食い下がってくる。
「ご説明をお願いします」
「説明するより、実際に体験した方が早いと思う」
「……体験?」
「うん」
アストンの顔に警戒が浮かんだ。
「危険はないのでしょうか?」
「たぶん大丈夫」
「たぶん?」
「馬二頭を一緒に連れていくのは初めてだから」
「男爵様」
アストンの顔が引きつった。
「でも、仕組みは同じだから大丈夫だと思う」
「また『思う』とおっしゃいましたが」
「気になる?」
「ええ。かなり」
「嫌なら、アストンは馬で戻ってもいいよ」
「それはできません」
即答だった。
「でも――」
「私は男爵様の護衛です」
アストンが俺を見る。
「男爵様だけを、何が起こるかも分からないものに向かわせて、私だけ馬で帰るわけにはいきません」
「何が起こるか分からないって……」
「何をなさるのか教えていただいておりませんので」
「それもそうか」
思わず笑ってしまう。
「じゃあ、一緒に帰ろう」
「……はい」
「大丈夫。俺から離れなければ」
アストンが少しだけ迷った。
それから頷く。
「分かりました」
「うん」
「男爵様を信じます」
一瞬、言葉に詰まった。
「……ありがとう」
◇
馬をつないだ場所まで戻る。
二頭とも無事だった。
「じゃあ、準備しよう」
右手で一頭の馬に触れる。
左手でもう一頭に触れる。
ピコは当然のように俺の肩へ乗った。
「ピー!」
「ピコは慣れてるよね」
「ピー!」
アストンを見る。
「俺に触って」
「どのように?」
「肩でも腕でもいい。とにかく離れないように」
「承知しました」
アストンが俺の肩をしっかり掴む。
「そんなに強くなくても大丈夫だけど」
「離れてはいけないのでしょう?」
「そうだけど……」
「では、このままで」
かなり緊張してるな。
「じゃあ行くよ」
「お待ちください」
「何?」
「少々、心の準備を」
「……分かった」
少し待つ。
アストンが大きく息を吐いた。
「どうぞ」
「じゃあ今度こそ」
目を閉じる。
領都。
屋敷。
自室に残した魔力印を探す。
見つけた。
そこへ意識を集中させる。
右手には一頭。
左手にも一頭。
肩にはピコ。
そしてアストンが俺を掴んでいる。
全員を意識する。
魔力を流した。
次の瞬間。
景色が変わった。
「……」
俺の自室。
机。
ベッド。
窓。
出発した時のままだ。
「着いた」
「……」
返事がない。
「アストン?」
「……」
まだ俺の肩を掴んでいる。
「大丈夫?」
「……ここは」
「俺の部屋」
「……」
「領都の屋敷だよ」
アストンがゆっくり周囲を見る。
窓。
机。
ベッド。
それから俺を見る。
「先ほどまで、レイ湿原に……」
「いたね」
「馬で一日ほど離れた場所に?」
「うん」
「……」
完全に言葉を失っている。
「これが転移魔法」
「転移……魔法」
「今日見たことは、まだ誰にも言わないでね」
「……承知しました」
その時だった。
「ブルルッ!」
一頭の馬が大きく鼻を鳴らした。
「あ」
そうだった。
馬も二頭いる。
しかも突然場所が変わったせいか、落ち着かない。
一頭が足を動かす。
べちゃ。
「……」
床に泥が落ちた。
もう一頭も動く。
べちゃ。
湿地を歩いてきた馬の蹄は、当然ながら泥だらけだ。
俺もアストンもよく見たら相当汚れている。
床。
絨毯。
どんどん汚れていく。
アストンが無言で俺を見る。
部屋を見回す。
「ここはまずかったか」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
このあと、ケーラが物音を聞いて部屋に入ってきたとき、どんな顔をしたのか。
読者様の想像にお任せいたします。




