第556話 南へ
お手すきの際に是非!
《剣聖》になった弟に家を追い出された俺のスキルは《会員》でした
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それから、さらに一週間が過ぎた。
希望退職の手続きも、ほとんど終わった。
朝、西部政務所へ入る。
「……静かになったな」
以前は人で埋まっていた机の間に、空席が目立つ。
当初四十六人いた職員は、今では二十六人まで減っていた。
「人員整理は、ほぼ完了しております」
ローレンが答える。
「半分近くになったね」
「はい」
人が減った分、仕事も減らした。
同じ数字を何度も書く帳簿。
誰も読まない報告書。
重複していた承認。
そういうものをかなりなくしたおかげで、今のところ仕事は回っている。
騎士団も同じだ。
二十九人いた騎士は半分以下まで減った。
俺に挑んできたスレッガーたちを中心に残し、それ以外には希望退職を募った。
騎士団長も退職することになった。
人数だけ見れば心細い。
でも、訓練もしない二十九人を抱えるよりはいい。
問題は、残った騎士を誰が鍛えるかだ。
「……こっちも早く何とかしないとな」
◇
久しぶりに屋敷へ戻る。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
迎えてくれたのはケーラだけだった。
少し前まで二十八人いた屋敷雇いの使用人は、もう一人もいない。
配置転換された人。
希望退職を選んだ人。
屋敷専属の使用人はゼロになった。
ケーラは王宮から一時的に来てもらっているので別だ。
廊下を歩く。
以前は毎日磨かれていた床に、うっすらと埃が見える。
庭も少しずつ草が伸び始めている。
使っていない部屋は扉を閉めたままだ。
「やっぱり、一人じゃ大変だよね」
「できる範囲で行っておりますので」
ケーラはそう言うけど、この広い屋敷を一人で維持できるはずがない。
「使ってない部屋は掃除しなくていいよ」
「ですが――」
「誰も使わないんだから。必要になった時にやればいい」
「……承知しました」
広い屋敷。
人がいなくなると、余計に広く感じる。
ふと、ミラのことを思い出した。
領地が落ち着いたら来てもらう。
そう言って別れた。
「……」
廊下を見る。
薄く埃の積もった床。
手入れが追いついていない庭。
そして、この屋敷の外にはもっと厳しい現実がある。
税収はほとんど期待できない。
農村は弱っている。
騎士団も作り直し。
領地の再建策すら、まだ形になっていない。
「まだ呼べないな」
自室へ入り、机に座った。
紙を一枚取り出す。
ミラへ手紙を書く。
領地の状況が、想像していた以上に厳しかったこと。
今はほとんど領地を離れられないこと。
そして最後に、
『来てもらうと言っていたけど、もう少し待ってほしい』
と書いた。
筆が止まる。
ミラなら、それでも行くと言うかもしれない。
こんなことを勝手に決めたら、怒るかもしれない。
でも、今はまだ呼べない。
俺自身が、この領地でどうやって暮らしていくのかすら見えていない。
もう一枚、紙を出す。
今度は父上へ。
『父上へ。
こちらは想像していた以上に厳しい状況です。
特に騎士団は、一から鍛え直す必要があります。
もし可能であれば、ハル領から騎士を二名、しばらく貸していただけないでしょうか。
戦力としてではなく、残った騎士たちの訓練を任せられる者を希望します』
ハル領から強い騎士を何十人も連れてくれば、一時的には楽になる。
でも、それでは何も変わらない。
この領地の騎士を育てる必要がある。
翌朝、西部政務所で二通の手紙をローレンへ渡した。
「こっちはハーウェイ侯爵家のミラへ。もう一つは父上」
「承知しました」
「急ぎで出してもらえる?」
「はい」
「父上からの返事って、どれくらいで来そう?」
「急ぎ便でしたら、四日ほどかと」
「じゃあ、それまでにできることを進めよう」
◇
地図を広げる。
ここ二週間で、かなりの支出を削った。
でも。
「このままじゃじり貧なんだよな」
「はい」
ローレンも地図を見る。
税を減らす。
人件費を減らす。
無駄な仕事をなくす。
それで時間は稼げる。
でも、金が増えるわけじゃない。
「まず、農業を変える」
「農業ですか?」
「うん。今ある農地から取れる量を増やしたい」
地図の中央部。
穀倉地帯と呼ばれている場所を指す。
名前だけ聞けば豊かそうだが、実際の収穫量は低い。
「ハル領でやってる方法を、こっちでも少し試そう」
「先日伺った『堆肥』のことでしょうか?」
「そう」
ただし、問題がある。
「こっちは家畜が少ないから、糞だけじゃ全然足りない」
「では、どうされますか?」
前世で祖父がやっていたことを思い出す。
「落ち葉、刈った草、藁、生ごみ。使えるものを集めて堆肥を作る」
「それだけでも作れるのですか?」
「作れるよ。時間は掛かるけどね。今から始めて、次の作付けに使えるようにする」
すぐに効果が出るものじゃない。
でも、今始めなければ次も同じだ。
「それと、イモ」
「イモですか?」
「うん。試験的に増やしたい」
小麦に向かない土地でも作れる可能性がある。
保存もしやすい。
食料不足への備えにもなる。
「ただし、いきなり領全体ではやらないよ」
地図上のいくつかの村を指した。
「まず、希望する農家を募る。このくらいの面積だけ試してもらう」
「農家が嫌がる可能性は?」
「あると思う」
今まで作っていない作物を、失敗するかもしれないのに育てろと言われても困る。
「だから、指定した試験栽培分については全部政務所で買い取る」
「全量ですか?」
「そう。試験分だけ。それならやってもいいっていう農家は出るかもしれない」
「なるほど」
「それで買ったイモは食料支援に回せばいい。いくつか料理の方法もあるし、外から食料を買って配ってる金を少しでも領内に回せる」
「それなら意味はありますね」
「うまくいけば次は広げる。駄目なら、何が駄目だったか調べる」
最初から大規模にやる必要はない。
小さく試す。
結果を見る。
うまくいったものだけ広げる。
前世でも何度もやった方法だ。
「まずはこれで、今ある農地の生産を増やす」
「はい」
「でも、それだけじゃ足りない」
地図の南を見る。
南の森。
レイ湿原。
そのさらに先にあるノア山脈。
ほとんど開発されていない地域だ。
「ここを調べたい」
「レイ湿原ですか?」
「まずはね」
「南部を開発なさるおつもりで?」
「できるかどうか、それを調べるんだよ」
広い湿地。
今までほとんど使われてこなかった土地。
でも、湿地だから価値がないとは限らない。
前世では、水の多い土地を利用して米を作る場所もあった。
この世界でも、セルヴァン王国では米が作られている。
条件さえ合えば、ここでも作れる可能性はある。
それに水気を好むイモ類。
レンコンのように、水の多い土地で作れる作物もある。
もちろん、他でやっていることがそのまま通用するとは限らない。
「条件次第では、米っていう作物がこの領を救うことになるかもしれないからね」
「コメ……という食べ物ですか? 聞いたこともありませんが、湿地で作れるのでしょうか?」
「それを調べに行くんだよ。水の深さとか、土とか、水がどこから来てどこへ抜けるのかとか。そういうのを見ないと分からない」
「なるほど」
「ローレン。レイ湿原について残ってる資料を全部出して」
「昔のものもでしょうか?」
「全部。地形、水量、雨の時期、分かるものは何でも」
「承知しました」
◇
出てきた資料は少なかった。
昔からほとんど利用されていない場所だから当然だ。
「これじゃ分からないな」
「現地へ行かれますか?」
「うん。それと、王都のセルヴァン王国大使館にも手紙を出そう。ナディアに米作りについて聞いてみる」
「承知しました」
その場でナディアへの手紙を書く。
米を育てるために必要な水や土。
育て方。
詳しい人がいれば紹介してほしいこと。
書き終えるとローレンへ渡した。
「これもお願い」
「かしこまりました」
「それから、これからレイ湿原を見てくる。二日ほど政務所を空けるから、留守をお願い」
「二日ですか?」
「馬なら一日くらいで着くみたいだから、今日は移動。明日は向こうを調べる」
「お戻りは?」
「帰りは…まぁ、どうにかするよ」
「どうにか?」
ローレンの右眉が上がる。
「まぁ、細かいことは良いから二日間こっちは任せるよ」
「承知しました。南部はほとんど人の入らない場所です。十分にお気をつけください」
「ありがとう」
◇
屋敷へ戻る。
自室の中央で立ち止まった。
「ここでいいか」
魔力を集中させる。
自室に、転移の目印となる魔力を残した。
「ピー?」
ピコが首を傾げる。
「時間がなさすぎるんだよ」
行きは現地を見ながら馬で進む。
でも帰りは、ここへ直接戻ればいい。
領主になってから分かった。
金だけじゃない。
時間も足りない。
使える魔法があるなら使う。
必要なものを準備する。
地図。
湿原について残っていた古い記録。
紙と筆記具。
二日分の食料と水。
野営道具。
馬の餌。
「あ、全部亜空間収納に入れておけばいいか」
鞄も荷物もまとめて亜空間収納へ入れる。
これなら馬に余計な荷物を積まなくて済む。
そこで、ドアがノックされた。
「どうぞ」
ケーラが入ってくる。
「これからお出かけですか?」
「うん。レイ湿原を見てくる」
「承知しました」
「二日後に帰ってくるから。じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
「さあ、ピコも行くよ」
「ピー!」
玄関を出る。
そこにはアストンが立っていた。
「男爵様、どちらへ行かれるのですか?」
「レイ湿原」
「承知しました。馬を用意いたします」
「いや、一人で行くよ」
「なりません」
「でも、かなり遠いし――」
「なりません!」
「二度も言ったな。お――」
いや、やめておこう。
これはわかる人にしかわからないネタだ。
「男爵様が未開の湿地へお一人で向かわれるのであれば、何度でも申し上げます」
「……」
「私は男爵様の護衛です」
まったく譲る気がない。
「分かったよ。じゃあ二頭お願い」
「すでに用意しております」
「え?」
「ケーラから、男爵様がお出かけの準備をなさっていると聞きましたので」
「……みんな俺の扱いに慣れてきたな」
「ピー!」
「ピコまで?」
◇
俺とアストンは馬で領都を出た。
南へ向かう。
最初は農地が続いた。
小麦畑。
放棄された畑。
まばらな家。
南へ進むほど人の姿が減っていく。
途中で何度か休憩を取りながら馬を進めた。
日が傾く頃には、周囲から畑もほとんどなくなった。
もう少し進んだところで、あたりは完全な暗闇になったので、進むのを止めて野営した。
◇
翌朝。
再び馬を走らせる。
しばらくすると、地面が少しずつ湿ってきた。
草の種類も変わる。
水たまりが増えていく。
「この辺りからです」
アストンが言う。
「うん」
さらに進む。
やがて、馬の足が泥に沈み始めた。
「ここまでだね」
「はい。これ以上は馬では危険かと」
乾いた場所を探して馬をつなぐ。
そこからは歩いて進む。
そして。
「……すごいな」
足を止めた。
目の前に、広大な湿地が広がっていた。
草。
水。
泥。
その向こうにも、まだ湿地が続いている。
「資料で見るより、ずっと広く感じますね」
「うん」
グレイヴ家には、ここは使い道のない土地に見えていたのかもしれない。
でも、俺には少し違って見えた。
これだけの水。
広い平地。
もし、水の流れを管理できたら。
「……米ができたら、すごいことになるぞ」
小声で言ったつもりだった。
「何でしょうか?」
アストンは聞き逃さなかった。
「いや。まだ分からない」
水があるから作れる。
そんな単純な話じゃない。
土。
水深。
水の流れ。
季節による増減。
排水できる場所があるのか。
全部調べないといけない。
米が駄目でも、水の多い土地だからこそ作れるものがあるかもしれない。
亜空間収納から鞄を取り出し、中から紙を一枚抜く。
アストンは周囲を警戒している。
「アストン」
「はい」
「付き合って」
「もちろんです」
「まずは歩こう。水と土を見る」
今ある農地の収穫量を増やす。
そして、この湿地まで使えるようにする。
もし両方できれば、領地の食料事情は大きく変わる。
さらに余るほど作れれば、外へ売ることだってできる。
目の前に広がる湿地を見る。
今は、ほとんど使われていない土地。
「ここが使えたら、大きいな」
まずは調べよう。
この土地が何を生み出せるのかを。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
領都から遠く離れたこの辺りでは、夜空いっぱいに星が見えたのではないかと思います。




