第55話 旅路の一閃
公爵領を発ってから、三日ほどが過ぎていた。
道中はおおむね順調だった。
公爵家の馬車は頑丈で揺れも少なく、街道沿いの宿場町も、さすが王都へ通じる道だけあってそれなりに整っている。
ただ、旅は旅だ。
朝早くに発ち、昼に短く休み、日が傾く前には次の宿場か休憩地を目指す。
城の中にいた時みたいな気楽さはない。
馬車の中では、向かいにセレナ、その隣に彼女付きの侍女。
俺の隣にはミアが座っている。
外には、公爵家の護衛二人が騎乗で並走し、少し後ろには三人組の冒険者が乗る別馬車が続いていた。
公爵家の用意した隊列だけあって、見た目にもかなりしっかりしている。
これなら、よほどのことがない限りは問題ない――本来なら、そう思ってよかったはずだった。
◇
その日の昼過ぎ、馬車は少しずつ人気の薄い地帯へ入っていた。
左右の景色は、背の低い林と起伏のある草地が続いている。
街道そのものは整備されているが、周囲には人の気配が少ない。
護衛の一人が馬を寄せて、御者へ短く声をかけるのが聞こえた。
「この先は少し警戒を」
それだけで、馬車の中の空気がほんの少し変わる。
「魔物が出やすい場所なんですか?」
ミアが小声で聞くと、セレナ付きの侍女が外の気配をうかがいながら答えた。
「街道沿いなので滅多なことはありませんが、周囲に林が多い地帯は、どうしても出る時があります」
セレナは窓の外へ目を向けたまま言う。
「公爵領の中でも、ここは少し厄介な場所よ。群れが流れてくることがあるって聞いたことがある」
「群れ?」
「縄張りが崩れた時とか、餌場が変わった時とか。普段なら街道まで寄ってこない魔物が、たまに押し出されるみたいに出てくるの」
なるほど。
ただ一匹、二匹じゃない可能性がある、ということか。
そう思った矢先だった。
前方で、馬が短くいななく。
次の瞬間、馬車が急に止まった。
「きゃっ」
ミアが小さく声を上げ、俺はとっさに手をついて身体を支える。
外から、護衛の鋭い声が飛んだ。
「止まれ! 前方、魔物!」
◇
馬車の扉が開かれるより早く、外ではもう動きが始まっていた。
俺たちを乗せた馬車の前方、街道脇の林から、四足の魔物が次々に飛び出してくる。
犬に似ているが、身体は一回り大きく、肩のあたりに硬そうな毛が逆立っている。
目が赤い。
数は――多い。
六。
いや、奥にもう二匹。
「街道沿いでこれは……!」
護衛の一人が低く舌打ちする。
もう一人はすでに剣を抜いていた。
後ろの冒険者馬車も止まり、三人組が飛び降りてくる。
一人は大剣。
一人は短槍。
そしてもう一人は双剣だ。
「数が多いな!」
「馬車から離すぞ!」
判断が早い。
護衛二人が前へ出て、冒険者たちが左右へ散る。
道を塞がせず、馬車へ近づけさせないように動いているのがすぐにわかった。
訓練されている。
連携も悪くない。
最初の一匹が飛びかかる。
護衛の剣が斜めに閃き、肩口を深く裂いた。
すぐ横では槍の冒険者が二匹の進路をずらし、双剣の男が懐へ潜って喉元を裂く。
速い。
さすがに場数が違う。
けれど、数が多い。
しかも街道脇の林が近いせいで、視界の外からもう一匹、もう一匹と出てくる感じがあった。
俺は馬車の扉の陰から外を見ながら、魔物の動きを追う。
視界の端に、薄青い文字が浮かぶ。
《個体数:八》
《脅威:中》
《包囲傾向:あり》
《綻び:一体、右後方より接近》
右後方。
瞬間、背筋が冷えた。
冒険者の双剣使いが前の一匹を仕留めた、そのすぐ後ろ。
林の影から、もう一匹が低く身を沈めていた。
気づいていない。
護衛は前方に押し出されている。
槍の男も別の個体を受けている。
双剣の男の背中だけが、ほんの一瞬空いた。
「後ろ――!」
叫ぶより早く、身体が動いていた。
右手を出す。
火を集める。
そこへ風を細く、鋭く、逃がさないように重ねる。
大きくはいらない。
散らせば間に合わない。
点だ。
細く、真っ直ぐ。
次の瞬間、指先から赤白い線が走った。
火球じゃない。
炎の塊でもない。
細い。
だが、一直線に伸びたそれは、空気を焼きながら魔物の眉間へ吸い込まれた。
ぱし、と乾いた音がした。
飛びかかった魔物の頭が後ろへ跳ね、そのまま地面へ叩きつけられる。
一瞬だけ、戦場が止まった。
「……は?」
冒険者の男が、振り返りながら間の抜けた声を漏らす。
護衛も、槍の冒険者も、一瞬だけこちらを見た。
その隙を作るほどではない。
だが、明らかに動揺は走った。
今の一撃で流れが崩れたのは、むしろ魔物の側だった。
「今だ、押し返せ!」
護衛の一人がすぐに叫ぶ。
そこから先は早かった。
前に出ていた護衛が残りを切り崩し、槍の男が足を止め、双剣の冒険者が今度こそ確実に首筋へ刃を入れる。
二匹が逃げようと林へ身をひるがえしたが、その一匹は護衛の投げた短槍で止まり、もう一匹も冒険者の大剣で叩き伏せられた。
静かになった時には、街道の上に魔物の死体がいくつか転がっていた。
血の匂い。
焼けた匂い。
土の匂い。
心臓が、少し遅れて強く鳴る。
◇
「今のは何だ……?」
最初にそう言ったのは、背後を救われた双剣の冒険者だった。
息を整えながら、こっちを見ている。
俺はまだ馬車のそばに立ったままだった。
手の先に、じわりと熱が残っている。
護衛の一人が、倒れた魔物と俺を見比べる。
「火魔法……いや、違うな。あんな魔法は見たことがない」
もう一人も眉を寄せた。
「風を重ねたのか?」
そこまで見えるのか。
さすがに経験がある。
セレナが馬車から半身を乗り出し、少し目を見開いていた。
「今の、あなたが?」
「……うん」
自分で撃っておいて何だが、あまり長く説明する気にはなれなかった。
双剣の冒険者が近づいてきて、真面目な顔で頭を下げる。
「助かった。あのままだったら、やられていたぞ」
「間に合ってよかったです」
「よくあの一瞬で撃てたな」
それには答えに少し困る。
見えたからだ。
綻びの目で。
でも、それをそのまま言うわけにもいかない。
「たまたまですよ」
そう言うと、冒険者の男は一瞬だけ黙って、それから苦笑した。
「たまたまで済ませる威力じゃなかったぞ」
護衛の一人が周囲を警戒しながら言う。
「まだ寄ってくる可能性があります。ここで長く止まるのは危険です」
「死体の確認だけして動こう」
隊列はすぐに立て直された。
そこもさすがだった。
◇
その日の夕方、俺たちは予定していた宿場町へ入った。
街道沿いのやや大きめの町で、宿や飲食なども整っている。
宿の近くの厩に馬を預け、荷を運び込み、ようやく本当に一息ついた時には、
身体の奥に残っていた緊張がどっと抜けた。
食堂の隅で遅い食事を取っていると、槍の冒険者がこちらへ来た。
三人組の中では一番年長に見える男だ。
「昼の件、礼を言っておく」
「全員無事にここまでたどり着けてよかったです」
「普通の火魔法なら、火球で吹き飛ばす。だが、お前さんのは違ったな」
彼はそこで少しだけ間を置いた。
「細いのに、妙に速い」
「……そうかも」
「学院へ入る前の子どもが使う魔法には見えん」
率直だな、と思う。
でも、嫌な感じはしなかった。
セレナが横から静かに口を挟む。
「もともと、少し変わっているのよ」
「どこが変なんだよ」
思わずそう返すと、セレナは肩をすくめた。
「少しじゃなくて、かなり、かもしれないわね」
ミアはというと、まだ少し青い顔のまま湯気の立つ茶を両手で持っている。
「こ、怖かったです……」
「うん」
「でも、リオン様が撃った時、もっと怖かったです」
「え?」
「細かったのに、こう……一瞬で、すっと……」
言いたいことはわかる。
ルークがここにいれば絶対に騒いでいただろうな、と少しだけ思った。
◇
そこから先の旅は、最初の数日よりも慎重になった。
宿場町をいくつか経由しながら、隊列は街道を進む。
大きな襲撃はもうなかったが、護衛も冒険者も以前より周囲をよく見ていた。
あの地帯で、あれだけまとまった魔物が街道へ出てきたのは珍しい。
馬車の中で、セレナがぽつりと言った。
「護衛が厚くて正解だったわね」
「うん」
「父上、やっぱり用心深いのよ」
「公爵家だしね」
「それだけじゃないわ」
そう言ってから、彼女は少しだけ目を伏せた。
「たぶん、あなたがいるからでもあると思う」
それがどういう意味なのか、少しだけ考える。
でも今は、そこを言葉にする必要もなかった。
◇
さらに二日ほど進んだ昼過ぎだった。
街道が緩やかな丘を越えた、その先で、御者が小さく声を上げた。
「見えてきました」
窓の外へ目を向ける。
遠い。
だが、確かに見えた。
地平の向こうに、長く伸びる灰白色の線。
その内側に、いくつもの塔。
陽を受けて鈍く光る巨大な城壁。
「……王都」
小さく呟くと、ミアが息を呑んだ。
「大きい……」
セレナも、窓の外を見たまま言う。
「ええ。何度か来ていても、やっぱりそう思うわ」
たしかに大きい。
公爵領の城下町ともまた違う、国の中心の大きさだ。
旅路の中で、危険もあった。
魔物も出た。
思っていたより早く、自分の魔法を命に関わる場面で使うことにもなった。
でも、その全部を越えた先に、ようやく王都が見えている。
馬車はそのまま街道を進んでいく。
巨大な城壁が、少しずつ大きくなる。
学院。
新しい生活。
新しい人間関係。
胸の奥で、何かが静かに切り替わるのがわかった。
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