第537話 研究の先にあるもの
新連載スタート!
《剣聖》になった弟に家を追い出された俺のスキルは《会員》でした
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三日目の朝。
いつもより一時間半ほど早く学院へ着いた。
研究棟にはまだほとんど人がいない。
「寒いな」
「ピー」
肩に乗ったピコはいつも通りだ。
研究室へ入ると、昨日取り付けた二本の管と放熱部分はそのままだった。
当然、部屋の中はまだ冷えている。
「さて、始めるか」
隣の教室へ行くと、ルッツさんが暖炉の前で装置を確認していた。
「おはようございます」
「おはようございます。早いですね」
「今日は失敗したくないですから」
「私もです」
二人でもう一度、接合部分や水の量を確認する。
問題はなさそうだ。
「では、火を入れます」
「お願いします。強くしすぎないようにしてください」
「分かっています。前みたいになったら大変ですからね」
「本当に」
ルッツさんが薪へ火をつける。
小さかった炎が、少しずつ大きくなっていった。
「火の方は任せてください」
「お願いします。俺は研究室を見てきます」
研究室へ戻り、発表用の資料を机に並べる。
しばらくは何も起きなかった。
壁から伸びる管へ何度か触れていると、やがて隣の教室につながる方が少しずつ暖かくなってきた。
「来た」
「ピー?」
「こっちまで来たみたいだ」
さらに待つ。
放熱部分にも熱が伝わり、遅れて戻り側の管からも冷たさが消えていく。
ちゃんと水が回っている。
「よし」
あとは、このまま安定して動いてくれればいい。
ピコはいつの間にか放熱部分の近くへ移動していた。
「そこが一番暖かい?」
「ピー」
「分かりやすいな」
準備を続けているうちに、研究室の空気も少しずつ変わっていった。
◇
発表の時間が近づくと、研究コースの生徒たちが集まり始めた。
「おはよう」
「おはようございます」
最初は普通に入ってきた生徒たちだったが、すぐに一人が立ち止まった。
「……あれ?」
「どうした?」
「いや、なんか暖かくないか?」
その言葉で周囲も気づいた。
「確かに」
「でも、暖炉の火はついてないぞ?」
「本当だ」
一人が壁の方を見る。
「それになんだ? この管は?」
何人かが二本の管の近くへ集まり始めた。
俺はまだ何も説明していない。
それなのに、もう成果に気づいてくれた。
なんだか嬉しい。
「リオン」
扉を見ると、ミラとヴィクトルが入ってきた。
「おはよう」
「おはよう。成功した?」
ミラが小声で聞く。
「今のところは」
「今のところ?」
「最後までちゃんと動いたら成功」
「相変わらず慎重だな」
ヴィクトルが笑いながら研究室を見回す。
「でも、これはすごく分かりやすい」
「何が?」
「入った瞬間に分かるからだよ」
ミラも窓際まで歩いていく。
「こっちも前より寒くない」
「そこは確認してほしかったところなんだ」
暖炉なら、どうしても火の近くと離れた場所で差が出る。
今回は放熱する場所を二か所に分けた。
「ピー」
ピコはまだ放熱部分のそばから動かない。
ヴィクトルがそれを見て笑った。
「少なくともピコからの評価は高そうだな」
「さっきからずっとあそこ」
「ピー!」
「気に入ったみたいだね」
ミラも笑う。
その時、研究室の扉が開いた。
クラリッサ先生と数名の先生が入ってくる。
「おはようございます」
「おはようございます」
クラリッサ先生は数歩進んだところで足を止めた。
「……暖かいですね」
部屋を見回し、暖炉へ目を向ける。
「ですが、暖炉は使っていませんね」
「はい」
今度は壁から伸びた管を見る。
「それに、この管。昨日まではありませんでした」
「それが今回の研究成果です」
クラリッサ先生が俺を見る。
「なるほど」
そして、わずかに笑った。
「では、聞かせてもらいましょう」
◇
全員が揃い、発表が始まった。
教室の前に立つ。
研究コースの生徒だけじゃない。
クラリッサ先生をはじめ、何人もの先生がこちらを見ている。
ミラとヴィクトルもいる。
少し緊張する。
でも、目の前にある装置を見ると、それ以上に早く説明したくなった。
「今回、俺が研究したのは、火のない部屋を暖める方法です」
何人かが壁の管を見る。
「すでに気づいている方もいると思いますが、今、この研究室の暖炉には火がついていません。
それでも、この部屋はいつもより暖かくなっています」
何人かの生徒が頷いた。
「火を使っているのは、壁を挟んだ隣の教室です」
少しざわめきが起きる。
「隣?」
「そうです」
用意しておいた図を見せる。
「隣の教室で水を温めています。その水をこの管で研究室まで運び、ここで熱を出します。
少し冷めた水は、もう一本の管を通って隣へ戻る。そして、また温めます」
一人の生徒が手を挙げた。
「水を動かすための装置はどこにあるのですか?」
「ありません」
「ない?」
「はい。温められた水と冷めた水の動きの違いを利用しています。
ただし、管をもっと長くしても同じように動くのかは、まだ確認できていません」
先生が図を見る。
「なるほど」
「今回の装置は、隣の部屋で火を管理してくれているルッツさんと一緒に作りました。
研究は俺が進めましたが、この大きさの装置を実際に作るには、ルッツさんの協力が必要でした」
壁の向こうでは、今もルッツさんが火を見てくれている。
「今回の実験で分かったのは、火そのものを置かなくても、別の場所へ熱を運んで部屋を暖められるということです」
俺は研究室の奥を指した。
「暖炉の場合、火の近くは暖かくても、離れると寒くなります。この研究室でもそうでした。
でも、熱を出す場所そのものを部屋の中に分ければ、暖炉の前だけではなく、もっと広い範囲を暖めることができます」
クラリッサ先生が窓の近くまで歩き、しばらくして頷いた。
「確かに。暖炉だけを使った時とは違いますね」
「はい。それに、まだ試してはいませんが、一つの炉から管を分けられれば、複数の部屋を暖められるかもしれません」
「一つの火で?」
別の先生が聞く。
「可能性はあります。ただ、ここから先はまだ研究が必要です」
「というと?」
「今日、この装置が動いたからといって、すぐに色々な建物で使えるとは思っていません」
教室が静かになった。
「管が長くなれば、途中で熱が逃げます。部屋が増えても水がきちんと回るかは分かりません。
接合部分も、長く使えば水漏れするかもしれない。
それに、これだけの金属を使い加工をすれば費用もかかります」
ヴィクトルがこちらを見て、少し頷いた。
たぶん、同じことを考えている。
「今回はルッツさんと調整しながら、一つずつ部品を作りました。
でも、多くの人が使うなら、それでは駄目です」
「なぜです?」
「誰が作っても、同じものができないと困るからです」
一人の先生が目を細めた。
「同じもの?」
「はい。管の太さや接合部分の形が毎回違えば、作るたびに調整しなければなりません。
たくさん作るなら、部品の形や大きさも揃えた方がいいと思っています」
今度はヴィクトルがはっきり頷いた。
「それに、暖炉より薪を多く使うなら、便利でも使えない人は多いと思います。
作る費用、使い続ける費用、安全性。そこまで確認して初めて、広く使えるものになると思っています」
クラリッサ先生が静かに聞いた。
「では、今日の成功は完成ではない?」
「はい」
迷わず答える。
「火のない部屋を暖められることが分かった。それが今日の成果です」
クラリッサ先生が小さく頷いた。
「分かりました」
本当なら、ここで発表を終えてもいい。
でも、この研究で気づいたことがもう一つある。
「それと、今回の研究をしている途中で、別の可能性にも気づきました」
「別の可能性?」
「はい」
最初の試作品を思い出す。
「最初は、容器の水をかなり強く熱してしまいました。
すると、内部から強い力がかかって、接合部分が壊れそうになったんです」
クラリッサ先生の表情が少し変わる。
「報告にあった実験ですね」
「はい。あの時は危険だったので、失敗だと思っていました」
そこで一度言葉を止める。
「でも、あとになって考えたんです。水を熱しただけなのに、金属を壊そうとするほどの力が生まれたのはなぜだろう、と」
研究室が静かになった。
「今回は、その力が出ないように装置を作り直しました。
でも、逆に、その力を安全に取り出すことができたら、何かを動かすために使えるんじゃないかと思ったんです」
「何かを動かす?」
ヴィクトルが聞いた。
「今、重いものを動かす時は、人が動かすか、馬のような家畜を使うことが多い。
大きな力が必要なら水車もあります。でも、水車は川がある場所でしか使えません」
何人かが頷く。
「もし、火と水だけで大きな力を作れたら?」
誰も答えない。
「川のない場所でも、機械を動かせるかもしれません」
一人の先生が身を乗り出す。
「例えば?」
「鉱山に入り込んだ水を汲み出す。工房の大きな道具を動かす。
今は何人もの人が力を合わせないとできない仕事を、もっと少ない人数でできるようにする」
そこまで話して、自分でも少し先を考える。
「そうなれば、工房を川のそばに作る必要もなくなるかもしれません」
教室がさらに静かになった。
「町を作れる場所も変わる。人が働く場所も変わる。作れるものの量も変わるかもしれません」
ミラがじっと俺を見ている。
「もっと大きな力を安全に使えるようになれば、いつかは重い荷物を運ぶものや、乗り物そのものだって動かせるかもしれません」
今度は一気にざわめいた。
「乗り物を?」
「馬なしで荷車を動かしたりもできるのか?」
「そんなことができるのか?」
「分かりません」
俺が答えると、声が止まった。
「今は、何も分かっていません。どうやって力を取り出せばいいのかも、それをどうやって動きに変えるのかも分からない。安全に使えるかも分かりません」
一人の生徒が聞く。
「じゃあ、まだ想像ってこと?」
「うん。今はまだ」
否定はしない。
「でも、この暖房も最初はそうでした」
壁から伸びる二本の管へ目を向ける。
「火のない部屋を暖められないかと思った。でも、水をどうやって動かすのかも、どんな管なら使えるのかも分からなかった」
最初に描いた図を持ち上げる。
火と水と、二本の管。
最初はそれだけだった。
「実際に作ったら、水は漏れるし、うまく回らないし、危険な状態にもなりました」
「ピー」
静かな研究室で、ピコの声が響いた。
小さな笑いが起きる。
俺も少し笑った。
「それでも、今はこの部屋が暖かくなっています」
誰も話さない。
「だから、今できないことが、ずっとできないとは限らないと思っています」
クラリッサ先生を見る。
「今回の研究で分かったのは、火のない部屋を暖められるということです。
そして、一つ作れたからといって、誰もが使えるものになったわけではないということも分かりました」
資料を机へ置く。
「それと、一つの研究をすると、そこから次の疑問が生まれることも分かりました」
水を温める研究から、熱を運ぶ方法を考えた。
その途中で、今度は水を熱した時に生まれる力に気づいた。
「この先、本当に火と水の力で機械を動かせるかは分かりません。
でも、いつか確かめてみたいと思っています」
一礼する。
「以上です」
研究室が静まり返った。
誰も何も言わない。
少し話しすぎただろうか。
そう思った時。
ぱち、ぱち、と音がした。
顔を上げる。
拍手をしていたのはヴィクトルだった。
隣でミラも手を叩き始める。
それに続いて、生徒たちから拍手が起きた。
先生たちも加わる。
気づけば、研究室全体が拍手に包まれていた。
「ピー! ピー!」
ピコまで大きな声で鳴いている。
なんだか恥ずかしい。
でも、それ以上に嬉しかった。
クラリッサ先生も拍手をしていた。
やがて拍手が収まると、先生が口を開く。
「よい発表でした、ハル」
「ありがとうございます」
「成功したことだけではなく、まだできていないことまで整理できています。
そこはとても大切です」
「研究所でも何度も言われました」
「でしょうね」
クラリッサ先生が少し笑う。
「それから、最後の話ですが」
「はい」
「卒業研究の範囲をかなり越えましたね」
「すみません」
「叱っているわけではありません」
先生は壁の二本の管を見る。
「一つの答えが出れば、そこから次の疑問が生まれる。それも研究です」
「はい」
「ただし」
俺を見る。
「次に水を強く熱するような実験をする時は、今回以上に安全を考えてください」
「もちろんです」
強く念を押された。
たぶん、最初の試作品の記録が相当気になっているらしい。
◇
俺のあとも発表は続いた。
ミラも自分の研究を、自分の言葉で発表した。
ミラらしく、実際に使う人がどう感じるか、何に困るかという視点が多かった。
ヴィクトルの発表では、成果をどう広げれば実際に多くの人へ届くのかという話が出てきた。
三人で一緒に研究していた二学期とは違う。
今日はそれぞれ別の研究を発表している。
でも、聞いているうちに少し分かった。
三人でやっていた時に考えていたことが、それぞれの研究にも残っている。
ミラは使う人を見る。
ヴィクトルは広げる方法を見る。
俺は、どうやって作るかを考える。
三人でやると、ちょうどよかったんだな。
すべての発表が終わる。
「以上で、研究コースの期末試験を終了します。皆さん、お疲れさまでした」
クラリッサ先生がそう言った瞬間、教室の空気が一気に緩んだ。
「終わった……」
「やっとだ」
あちこちから声が漏れる。
「リオン」
ミラがこちらへ来た。
「お疲れさま」
「ミラも」
「最後の話、びっくりした」
「火と水の話?」
「うん。乗り物まで動かすなんて」
「あれはまだ何もできてないよ」
「でも、お前の場合、それが怖いんだよな」
ヴィクトルもやってくる。
「怖い?」
「今はできないって言ったものを、何年かすると作ってそうだから」
「簡単に言わないでよ」
「ピー」
「ほら、ピコもそう言ってる」
「絶対違うだろ」
ミラが笑った。
その時。
「ハル。少しいいですか?」
クラリッサ先生に呼ばれた。
「はい」
「私たちは先に出てるね」
「入口で待ってる」
「分かった」
二人とピコを見送ってから、先生のところへ向かう。
「何でしょう?」
「今日の発表とは別の話です」
「別?」
「アルベルト先生から伝言を預かっています」
「ヴァイス所長から?」
「ええ」
クラリッサ先生が少しだけ笑った。
「あなたが卒業したら王立研究所へ来るのではないかと、最後まで期待していましたよ」
「そうだったんですか?」
「何度あなたを誘ったと思っているんです?」
「結構誘われました」
「でしょう?」
確かに、何度も言われた。
でも、そこまで本気だったとは思っていなかった。
「領地へ戻ると伝えたら、かなり残念そうでした」
「所長が?」
「表情にはほとんど出ていませんでしたけど」
「それ、分かるんですか?」
「長い付き合いですから」
クラリッサ先生が少し笑ったあと、俺を見る。
「伝言です」
「はい」
先生がヴァイス所長の口調を真似するように、少し低い声で言った。
「『ハル。研究所に来ないのは惜しい』」
短い。
いかにも所長らしい。
「『だが、研究所の外で君が何を作るのか。それを見るのも悪くない』」
俺は黙って聞く。
「『君はどうせ研究をやめん。これから何を見つけ、何を生み出すのか、楽しみにしている』」
胸の奥に、その言葉が残った。
「それから最後に」
「まだあるんですか?」
「『必要になったら来い。研究所の扉は開けておく』だそうです」
思わず笑った。
「所長らしいですね」
「ええ」
王立研究所で学んだことは多い。
一度成功しただけで成功だと決めない。
条件を変えて確かめる。
失敗した時こそ記録を残す。
できたことと、まだ分からないことを分ける。
今日の発表にも、全部つながっている。
「クラリッサ先生」
「何ですか?」
「先生にも、ありがとうございました」
先生が少しだけ目を丸くする。
そして笑った。
「まだ卒業式は終わっていませんよ」
「そうでした」
「それに、試験結果もまだです」
「え?」
「落ちているかもしれません」
「いや、それは困ります」
「冗談です」
「先生もそういう冗談を言うんですね」
「たまには言います」
もう一度、研究室を見る。
壁から伸びた二本の管。
火のない部屋は、今も暖かい。
少し前までは、紙に描いただけのものだった。
それが今は、ちゃんと形になっている。
でも、これで終わりじゃない。
もっと遠くまで熱を運べるのか。
複数の部屋を暖められるのか。
もっと安く作れるのか。
誰でも安全に使えるものにできるのか。
そして、水を熱した時に生まれるあの力。
前世では、それを使った機械があった。
蒸気機関。
もちろん、名前と大まかな仕組みを知っている程度だ。
学校の授業で習ったこともあるし、動画で見たこともある。
蒸気の力で機械を動かし、それが工場や鉱山、やがては乗り物にも使われるようになった。
そして、それをきっかけに産業革命が起きた。
でも、どうやって作るのかまでは知らない。
どんな部品が必要なのか。
どうやって蒸気の力を動きに変えるのか。
どうすれば壊れず、安全に使えるのか。
そこまでは分からない。
この世界で前世の記憶を取り戻した頃は、そんなものを自分で再現できるなんて考えもしなかった。
知っていることと、作れることはまったく違う。
でも、今日は火のない部屋を暖めることができた。
少し前まで、これだってどう作ればいいのか分からなかった。
失敗して、直して、また試した。
その途中で、水を熱した時に生まれる力まで実際に見ることができた。
だったら、蒸気機関だってまったく不可能とは言い切れないんじゃないか。
今すぐには無理だ。
何年かかるかも分からない。
それでも、もしこの世界で蒸気の力を使えるようになったら。
鉱山も変わる。
工房も変わる。
物を作る量も、運べる量も変わる。
ハル領だけじゃない。
この国の人の働き方や、町の作られ方そのものまで変わるかもしれない。
一つ答えが出たのに、分からないことは前より増えていた。
でも、今はそれが少し楽しい。
学院を卒業しても、研究は終わらない。
研究所に入らなくても、新しいものを作ることはできる。
これから何を生み出せるのか。
ヴァイス所長だけじゃない。
俺自身も、楽しみだった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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