第509話 婚約の証
ハーウェイ侯爵家の王都邸へ近づくにつれて、少しずつ歩く速度が落ちていた。
「……緊張してるな」
「ピー?」
「はい。たぶん」
そう答えてから、思わず笑う。
「ピコに敬語を使ってどうするんだ」
「ピー」
肩に乗ったピコが、不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。
ハーウェイ侯爵とは、これまで何度も話してきた。
侯爵夫人とも文化祭で会っている。
それでも今日は違う。
これから正式に、ミラと婚約する。
そう考えるだけで、胸のあたりが妙に落ち着かなかった。
服の上から、小さな箱の位置を確かめる。
ある。
「よし。行こう」
「ピー!」
今度こそ足を進めた。
ハーウェイ侯爵家の王都邸は、大通りから一本入った場所に建っていた。
高い塀の向こうに、淡い灰色の石造りの建物が見える。
華美な装飾を並べて威圧するような屋敷ではない。
けれど、門柱に刻まれた家紋や、綺麗に手入れされた庭、門の前に立つ衛兵を見れば、大貴族の邸宅だということはすぐに分かった。
「リオン・ハルです」
門番へ名乗る。
「お待ちしておりました」
すぐに中へ通された。
玄関へ向かって歩いていると、見覚えのある顔がいくつか見えた。
「リオン様」
「あ、ノル」
ノルをはじめ、ハル領から来た兵たちだ。
父上と母上は昨日のうちに王都へ入っている。
もちろん二人だけで来たわけではない。
護衛としてノルをはじめとする数名の兵が付き、道中の世話をする使用人たちも同行していた。
父上の体調もあるため、余裕を持った日程で王都へ来たらしい。
「道中、問題はありませんでしたか?」
「はい。旦那様も奥様も、お変わりありません」
「よかったです」
ノルの視線が俺の肩へ向く。
「ピコも一緒でしたか」
「ピー!」
「今日も元気ですな」
ピコは得意そうに体を大きくした。
「父上たちは?」
「すでに中でお待ちです」
「分かりました。ありがとうございます」
ノルたちに軽く頭を下げ、屋敷へ入った。
案内された部屋には、父上と母上がいた。
「父上、母上」
「リオン」
母上が俺を見る。
すぐに少し眉を寄せた。
「……あなた、少し疲れていませんか?」
「そう見えますか?」
「顔に出ていますよ」
「少し寝不足なだけです」
「今日のような日の前くらい、きちんと休んでおきなさい」
「昨日は少し、やることがあって」
「何をしていたのですか?」
「それは……」
言えない。
まだミラにも見せていないんだから。
「あとで話します」
「そうですか」
母上は納得していない顔をしていたけれど、それ以上は聞かなかった。
父上が俺を見る。
「緊張しているか?」
「少ししています」
「そうか」
「父上は、緊張していないのですか?」
「ハハハ、自分が婚約するわけではないからな」
「それはそうですけど」
父上が小さく笑う。
「それくらい緊張している方がいい。何も感じない方が心配だ」
「……そうですね」
「ピー」
ピコまで同意するように鳴いた。
◇
しばらくすると、扉が開いた。
「お待たせしました」
最初に入ってきたのはハーウェイ侯爵。
その隣に侯爵夫人。
俺たちは立ち上がった。
そして、その後ろから――。
ミラが入ってきた。
「ピー!」
俺より先に、肩のピコが嬉しそうに鳴いた。
「ピコ」
ミラが笑う。
「今日はリオンと一緒なんだね」
「ピー!」
その笑顔を見たところで、俺は言葉を失った。
いつもの制服ではない。
深い青緑を基調にしたドレス。
派手な飾りをいくつも重ねているわけではないのに、袖口や裾へ細く施された銀糸の刺繍が、身体を動かすたびに冬の光を柔らかく返している。
赤みを帯びた栗色の髪も、今日はいつもより丁寧に整えられていた。
ゆるやかにまとめられた髪の一部が肩へ落ち、窓から差し込む淡い陽射しを受けて、ところどころ銅色に輝いている。
顔を上げる。
明るい琥珀色の瞳と目が合った。
学院で何百回も見てきた顔だ。
一緒に授業を受けて、研究をして。
笑ったり、言い合ったり。
ついこの前だって、工房まで昼食を持ってきてくれた。
それなのに今日は、まるで初めて見るみたいだった。
綺麗だ。
そう思った瞬間、胸の奥へようやく実感が落ちてきた。
――今日、俺はミラと婚約するんだ。
「リオン?」
「あ」
ミラが少しだけ首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや……」
一瞬、言うか迷った。
でも、こういうところで黙っているから俺は駄目なんだろう。
「すごく綺麗だなと思って」
「……え?」
ミラの目が大きくなる。
次の瞬間、頬がふっと赤くなった。
「急に言うの、ずるくない?」
「ごめん」
「謝らなくていいけど……」
ミラは視線を逸らした。
それでも口元は少し笑っている。
母上を見ると、楽しそうにこちらを見ていた。
侯爵夫人も娘を見ながら柔らかく微笑んでいる。
「では、そろそろ座ろうか」
ハーウェイ侯爵の声で、ようやく本題に入ることになった。
◇
大きな机を挟み、両家が席につく。
ハーウェイ侯爵夫妻。
父上と母上。
そして、俺とミラ。
ピコは俺の椅子の背にとまり、珍しく大人しくしていた。
机の上には、両家で用意した婚約の書面が置かれている。
「まず、改めて確認しておきたい」
ハーウェイ侯爵が口を開く。
「今回の婚約について、ハーウェイ家から無理に話を進めるつもりはない。何より大切なのは、二人がそれを望んでいることだ」
侯爵がミラを見る。
「ミラ」
「はい」
「リオン・ハル殿との婚約を望んでいる。それで間違いないな?」
ミラは一度だけ俺を見た。
ほんの一瞬、目が合う。
それから父親へ向き直った。
「はい。私が望んでいます」
迷いのない声だった。
「分かった」
今度は父上が俺を見る。
「リオン」
「はい」
「お前も同じか?」
「はい」
一度だけ息を吸う。
「自分も、ミラと婚約したいです」
父上は静かに頷いた。
それからハーウェイ侯爵へ向き直る。
「ハーウェイ侯爵。ハル家としても、二人の婚約に異存はありません」
「ありがとうございます」
ハーウェイ侯爵も父上へ頭を下げた。
「こちらこそ、娘をよろしくお願いします」
「はい」
俺も頭を下げる。
「必ず大切にします」
隣で、ミラが少し照れたように笑った。
両家では、すでに大まかな話は済んでいる。
結婚の時期。
その後どこで暮らすのか。
そして学院を卒業したあと、俺がどこで、どういう立場になるのか。
そうした細かなことは、これから状況を見ながら改めて相談して決める。
今日一番大切なのは一つだけだ。
俺とミラが婚約する。
そのことを、両家が正式に認める。
書面へ目を通す。
ハーウェイ侯爵、父上。
そして俺とミラ。
それぞれが署名をし、最後に両家の印が押された。
小さな音だった。
ただ紙に印章が押されただけ。
それなのに、その音が妙に耳へ残った。
「これで」
ハーウェイ侯爵が書面を確認する。
「リオン・ハル殿とミラ・ハーウェイの婚約は、両家によって正式に認められた」
ミラを見る。
ちょうどミラも俺を見ていた。
目が合う。
どちらからともなく笑った。
ようやく、本当に婚約した。
少し前まで、ミラの気持ちにも気づかずにいた俺が。
長かったな……本当に。
「それでは――」
「あの…」
ハーウェイ侯爵が顔を上げる。
「ん?どうした?」
「最後に、ミラへ渡したいものがあります」
「私に?」
ミラが目を瞬かせた。
「うん」
胸元へ手を入れる。
一週間、完成するところをずっと想像してきた小さな箱。
いざ取り出すと、急に緊張した。
机の上へ置く。
椅子の背にいたピコも、何だろうというように首を伸ばした。
「ピー?」
「ピコも見るのは初めてかな?何なの、リオン?」
ミラが箱と俺を交互に見る。
「開けるよ」
「うん」
蓋を開いた。
部屋が、ほんの少しだけ静かになった。
銀の指輪。
その中央に、一粒のダイヤモンド。
窓から差し込む冬の陽射しが石へ触れ、透明な奥から細い光が返ってくる。
「……指輪?」
ミラが呟いた。
「うん」
ハーウェイ侯爵も少し身を乗り出した。
「これは……ダイヤモンドか」
「はい」
「随分と良い石だな」
「そうなの?」
ミラが驚いて父親を見る。
「かなりな」
「……」
ミラがもう一度、指輪を見る。
俺は小箱からそれを取り出した。
「婚約したっていうことを、言葉だけじゃなくて、何か形に残したかったんだ」
「形に?」
「うん」
手の中の銀の輪を見る。
「これから先、毎日ずっと一緒にいられるわけじゃないと思う」
学院を卒業したあと、俺は領に戻ろうと思う。
でも、もしかしたら別の土地で仕事をすることになるかもしれない。
「だから、俺がそばにいない時でも、これを見たら思い出してほしいんだ」
ミラは何も言わずに聞いていた。
「今日、俺がミラと一緒に生きていきたいって決めたことを」
口にすると、さすがに少し恥ずかしい。
でも今日は最後まで言いたかった。
「その証になるものを、ミラに渡したかった」
ミラの目を見る。
「俺からの婚約の証として、受け取ってほしい」
「……」
ミラはしばらく何も言わなかった。
琥珀色の瞳が、俺の手の中にある指輪を見つめている。
やがて、ゆっくり顔を上げた。
「これ……リオンが選んでくれたの?」
「ダイヤは俺が選んだよ」
「じゃあ、指輪は?」
「職人さんに教えてもらいながら、俺が作った」
ミラの表情が止まった。
「……リオンが?」
「うん」
「自分で?」
「石を留めるところだけは職人さんにお願いしたけど、それ以外は教えてもらいながら作った」
ミラが自分の左手を見る。
その瞬間、何かに気づいたらしい。
「もしかして……この前の紐」
「あ」
「薬指に巻いてたのって」
「指輪の大きさを測ってた」
「……」
「黙っててごめん」
「じゃあ、最近ずっと寝不足だったのも?」
「放課後にベルン工房で暖房の研究をして、そのあと宝飾工房へ行ってたから……」
「毎日?」
「うん」
ミラの唇が、わずかに震えた。
笑ったのかと思った。
でも違った。
琥珀色の瞳が潤み、見る間に涙がたまっていく。
「ミラ?」
「もう……」
小さく息を吐く。
「本当に、何してるの」
「ごめん」
「謝ってほしいんじゃないよ」
笑おうとしている。
でも声が震えていた。
「こんなの……嬉しいに決まってるでしょ」
一滴。
目尻から涙がこぼれた。
ミラは慌てて指で拭う。
「ごめん。泣くつもりじゃなかったのに」
「謝らなくていいよ」
「だって、こんなの知らなかったし……」
もう一度、指輪へ視線を落とす。
「一週間もかけて、私のために自分で作ってくれたなんて」
そして俺を見る。
「すごく嬉しい」
その言葉を聞いた瞬間。
一週間の寝不足なんて、どうでもよくなった。
ふと、その向こうで侯爵夫人が顔を伏せた。
目元へそっとハンカチを当てている。
「あなた?」
ハーウェイ侯爵が公爵夫人を見る。
「ごめんなさい」
侯爵夫人は涙を拭うと、娘を見た。
その表情は笑っているのに、目にはまだ涙が残っている。
「だって……あんなに嬉しそうな顔をしているんですもの」
「お母様……」
「よかったわね、ミラ」
「……はい」
ミラの目から、また涙が一滴こぼれた。
侯爵夫人はそれ以上何も言わなかった。
ただ、娘を見る目がとても優しかった。
母上も隣で静かに微笑んでいる。
その目元が少しだけ潤んでいるように見えた。
「つけてもいい?」
俺が尋ねると、ミラはもう一度目元を拭った。
「……うん」
ミラは左手を差し出す。
指先がほんの少し震えていた。
たぶん、俺の手も同じだった。
その手を取る。
銀の指輪を持ち、ゆっくりと薬指へ通していく。
一瞬だけ、途中で止まったらどうしようという不安がよぎった。
でも指輪は、そのまま滑るように収まった。
「……ぴったり」
ミラが小さく呟く。
白く磨かれた銀の輪が、細い薬指に静かに収まっていた。
中央のダイヤモンドが窓辺の光を拾う。
一瞬だけ、白い光が弾けた。
その光が、涙の残る琥珀色の瞳の中で小さく揺れる。
まるで冬の陽射しを、一粒だけそこへ閉じ込めたみたいだった。
綺麗だと思った。
指輪が、じゃない。
それを見つめているミラの顔が。
ミラは声も出さずに、何度も左手を傾けていた。
指輪を見る。
俺を見る。
また指輪を見る。
それから、泣いたばかりの顔で笑った。
「……本当に私のなんだよね?」
「もちろん」
「ずっと?」
「そうだよ。そのつもりで作った」
「そっか」
ミラが左手を胸元へ寄せる。
壊れ物でも抱えるみたいに、大切そうに右手で包んだ。
「ずっと大事にするね」
「うん」
「今日のことも、この指輪も」
声は小さかった。
でも、今日聞いたどの言葉よりも強く感じた。
「ピー」
ピコが静かに鳴く。
ミラが目元を拭いながら笑った。
「ピコにも見せてあげる」
「ピー!」
ミラが左手を近づけると、ピコが首を伸ばして指輪を覗き込んだ。
「どう?」
「ピー!」
「気に入ったみたいだね」
「ピコがつけるわけじゃないけど」
「もう。そういうことじゃないでしょ」
思わず二人で笑った。
張りつめていた部屋の空気も、少しだけ柔らかくなる。
「婚約の証に指輪……」
侯爵夫人が、もう一度ミラの左手を見る。
「とても素敵だと思います」
「ありがとうございます」
ハーウェイ侯爵も頷いた。
「私も初めて見たが」
そう言って娘を見る。
「これだけ喜んでいるなら、それ以上の理由はいらないだろう」
「はい」
ミラはまだ嬉しそうに指輪を見つめていた。
◇
両家の話がすべて終わったあと。
少しだけ時間をもらい、俺とミラはピコを連れて、中庭の見える廊下を歩いていた。
冬の庭には花がほとんどない。
葉を落とした木々の向こうから、傾き始めた陽が差し込んでいる。
ミラは歩きながら、また左手を見る。
「……ミラ」
「何?」
「さっきから何回見てるの?」
「いいでしょ」
「別に駄目じゃないけど」
「見るよ」
ミラが立ち止まる。
そして左手を少し持ち上げた。
「だって、リオンが作ってくれたんだよ?」
「まあ、そうだけど」
「しかも私のためだけに」
「うん」
「だったら見るに決まってるでしょ」
「そっか」
「うん」
「ピー!」
「ピコもそう思う?」
「ピー!」
「ほら」
「ピコはたぶん、指輪が光ってるのが気になるだけだと思うけど」
「そんなことないもんね」
「ピー!」
二人で笑った。
また歩き始める。
しばらくして、ミラが小さな声で言った。
「ねえ、リオン」
「何?」
「ありがとう」
「さっきも聞いたよ」
「何回でも言うよ」
「じゃあ、どういたしまして」
ミラが笑う。
少しだけ目元は赤いままだった。
「私、今日のこと絶対忘れないから」
窓から入った夕方の光が、左手のダイヤを静かに照らす。
「俺も忘れないよ」
今日からミラ・ハーウェイは、俺の恋人ではなく――。
正式な婚約者になった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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