第49話 大領の景色
ハル領を発ってから数日後。
俺とミアを乗せた馬車は、ようやくヴァレスト公爵領へ入っていた。
窓の外に広がる景色を見ながら、俺は無意識に息を吐く。
「……広いな」
思わずそう呟くと、向かいに座るミアが小さく頷いた。
「はい。まだ公爵領の外縁部だと聞きましたが、それでももう、ハル領とは全然違いますね」
たしかにそうだった。
公爵領の外側に広がっているのは、まず農村地帯だ。
ただ畑があるだけじゃない。
道が広い。
用水の筋が整っている。
畑の区画も見事なくらい揃っている。
ところどころに大きな納屋があり、干し草の積み方ひとつとっても雑さがない。
遠くには風車も見えた。
水を上げるためか、粉を挽くためかまではこの距離ではわからないが、少なくとも「農村だから何もない」なんて景色ではなかった。
荷車の数も多い。
小麦らしい袋を積んだもの。
野菜を載せたもの。
家畜を引いている者もいる。
全部がひっきりなしに動いているわけではない。
でも、流れが太い。
これが、王国建国以来の大貴族が支配する領地か、と素直に思った。
「ハル領だと、農村の外れに出た時点でもっと静かだよね」
「ええ。こっちは、外側からもう“整っている”感じがします」
ミアの言い方はその通りだった。
整っている。
それが一番しっくりくる。
◇
農村地帯をさらに進むと、今度は小さな村が見えてきた。
村といっても、ハル領の村とはだいぶ違う。
家の数が多い。
石造りの建物が混じっている。
道端には荷を扱う小さな店まであった。
宿場に近いのかもしれない。
馬車がその中をゆっくり抜けていくと、村の向こうに、ようやくそれが見えた。
「……あれか」
城壁だ。
高い。
しかも長い。
単に敵を防ぐための壁というより、一つの都市そのものを囲うための輪郭としてそこにある。
灰白色の石で積まれた城壁が、地平の上にずっと続いている。
門へ近づくにつれて、その大きさがよくわかった。
人が小さい。
荷車が小さい。
見上げる角度が、もう砦じゃなく都市の壁だった。
門の前には列ができていた。
農村部から来た荷車。
商人。
旅人。
冒険者らしい連中。
みんな、それぞれの目的でこの中へ入っていく。
「ハル領の門とは比べものにならないな」
「比べたら失礼なくらいですね……」
ミアが少しだけ苦笑する。
門番の数も多い。
槍を持つ者、記録を取る者、荷を改める者。
通過の流れは遅くないのに、手は抜いていない。
公爵家の名で事前に話が通っているらしく、俺たちの馬車は列の脇から通された。
その時、何台かの荷車が目に入る。
農村部から来たらしい荷だ。
麦袋、乾燥豆、樽。
だが、俺はそこでほんの少しだけ眉を寄せた。
「……ん?」
「どうかしましたか」
「いや」
まだ、言葉にはしない。
荷は多い。
人も多い。
でも、城門を抜けていく流れと、門前に積まれている物量の感触が、ほんの少しだけ噛み合わない気がした。
本当に小さな違和感だ。
今はまだ、引っかかりにしかならない。
馬車はそのまま城壁の内側へ入った。
そして、そこでまた少し息を呑んだ。
城下町だ。
広い通り。
石畳。
二階建て、三階建ての建物。
軒先に吊られた看板。
香辛料の匂い、焼き菓子の匂い、革の匂い。
人の声。
店の呼び込み。
通りを横切る荷車。
ハル領とは、比べること自体が間違いみたいだった。
栄えている。
しかも、ただ人が多いだけじゃない。
人と物と金が、ちゃんと回っている町の音がする。
「すごい……」
ミアが窓の外を見つめたまま、ぽつりと言った。
「本当に、別の国みたいです」
「同じ王国の中なんだけどね」
「でも、空気が全然違います」
その感想もよくわかる。
ハル領にも人はいる。
村も畑もある。
最近は森の開拓まで始まった。
でもここは、すでに大きな流れが何本も完成している場所だ。
流れているものの量も、密度も、桁が違う。
馬車が町の中央通りへ差しかかったところで、いったん止まった。
扉の外から声がかかる。
「リオン様、ミア様。お迎えに上がりました」
外へ出ると、そこにいたのは見覚えのある男だった。
ヴァレスト公爵家の筆頭執事だ。
背筋がまっすぐで、表情は柔らかいのに、どこか隙がない。
以前に会った時と変わらない。
「お久しぶりです」
そう言うと、筆頭執事は静かに一礼した。
「ご無沙汰しております。公爵閣下より、お二人をそのまま城へお通しするよう仰せつかっております」
「ありがとうございます」
ミアも慌てて頭を下げる。
すぐ脇には、公爵家の紋章が入った立派な馬車が待っていた。
俺たちが乗ってきた乗り合い馬車とは、もう比べるまでもない。
乗り込むと、馬車はすぐに動き出す。
城下町の中央を抜け、少しずつ高い場所へ向かう。
その先に、ようやく見えてきた。
「……すごいな」
今度は、さっきよりはっきり声に出た。
白い城だった。
いや、ただ白いだけじゃない。
陽を受けて、淡い金まで混じって見えるような、磨かれた石の城だ。
高い塔。
重なった屋根。
広い前庭。
城壁の内側にさらに設けられた防備。
そして、その全部が「ここが大貴族の中枢だ」と言わんばかりの存在感を持っていた。
中世ヨーロッパの城、という言葉が前世の記憶から自然に浮かぶ。
ただし、写真や観光地として見たものより、もっと生々しく、もっと権力の匂いがした。
王国建国以来の大貴族。
その言葉の意味を、ようやく建物の大きさで理解した気がした。
「ハル領の屋敷とは……」
ミアが呟きかけて、途中で言葉を飲み込む。
「比べるものじゃないね」
そう返すと、彼女は小さく苦笑した。
「はい……」
筆頭執事は、こちらの反応を面白がるでもなく、ただ静かに前を見ている。
その態度が逆に、この規模がこの家にとっては当たり前なのだと伝えてきた。
馬車が城門をくぐる。
その途中、ふと中庭の端に荷車が何台か並んでいるのが見えた。
城へ入る荷。
農村部から来たような麻袋。
樽。
干し草。
日々の補給なのだろう。
でも、俺はそこでまたほんの少しだけ目を細めた。
「……」
整っている。
大きい。
豊かだ。
それは間違いない。
でも――整いすぎている気もする。
農村から町へ。
町から城へ。
流れそのものは太い。
なのに、その太さに対して、どこかで物の量がきれいに揃いすぎている。
言葉にするにはまだ早い。
けれど、胸の奥に残る小さな引っかかりは、むしろハル領にいた時よりも強かった。
城の前へ馬車が止まる。
扉が開かれ、俺はゆっくり外へ出た。
白い石の階段。
広い正面玄関。
左右に控える使用人。
その先に続く重厚な扉。
ミアが小さく息を呑むのが聞こえた。
「リオン様……」
「うん」
すごい。
素直にそう思う。
でも、それだけじゃない。
俺は城の奥へ視線を向けながら、小さく息を吐いた。
「……大きいだけじゃないな」
ミアが聞き返す。
「え?」
「いや」
まだ断定するには早い。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
これほど豊かで、これほど整った大領地にも、ちゃんと綻びはある。
しかも、小領地とは違う形で。
たぶん――ここから先で、それを見ることになる。




