第50話 切り分ける目
公爵城の応接室は、ハル領の屋敷よりずっと広く、静かだった。
白い壁。
高い天井。
窓の外には、整いすぎるほど整った中庭が見える。
その部屋の中央で、ユリウス公爵はいつもの柔らかな表情のまま俺を見ていた。
「改めて、おめでとう。首席合格とは見事だった」
「ありがとうございます」
そう答えると、ユリウスは小さく笑った。
「新入生代表の挨拶まで任されるとはね。君らしいと言えば君らしい」
「正直、自分でも少し驚いています」
少し離れた席で、ミアがまだ緊張した顔のまま小さく頭を下げている。
公爵城に着いてからずっと気を張っているのだろう。
そんな穏やかな空気が、ユリウスの次の一言で少しだけ締まった。
「……さて」
俺も自然と気持ちを切り替えた。
「以前、君に見てもらった件だが、覚えているね」
「はい」
西側代官領。
税収と物資の流れに妙なずれがある、という話だ。
帳簿だけ見れば、大きく崩れてはいない。
でも数字の整い方が、現場の感触と噛み合わない。
前にここで帳簿を見た時、俺はその違和感を三つの可能性に分けた。
「君は前に、三つの可能性を挙げてくれた」
「はい」
俺は短く整理して答える。
「一つ目は、倉での帳簿外流出。
二つ目は、輸送途中での抜き取り。
三つ目は、代官配下の誰かが途中で報告を整えている可能性です」
窓際に立つ筆頭執事が、静かに頷く。
「その後、君が必要だと言った資料を集めました」
そう言って、机の上の紙束を整えた。
「倉番の交代記録、袋や箱の補修記録、荷車の修繕記録、馬の飼葉消費、受領印、そして村から最初に上がった原報告です」
かなり揃っている。
前に話した時より、ずっと先へ進める材料だ。
俺は紙束を見ながら、小さく息を吐いた。
帳簿を見るのは慣れている。
数字は一見すると正しく見える。
でも、本当に何かが起きている時は、むしろ妙に綺麗な方が引っかかることがある。
人が隠したい時ほど、見た目だけは整えたがるからだ。
「見せてください」
そう言うと、ユリウスは静かに頷いた。
「もちろんだ。今回は、前よりもう少し深いところまで見えるはずだよ」
◇
最初に見たのは、倉番の交代記録と補修記録だった。
袋の破れ。
箱の留め直し。
封のやり直し。
前に俺が言った通り、倉で頻繁に抜かれているなら、このあたりに粗さが出る可能性が高い。
紙をめくった、その時だった。
視界の端に、薄青い文字が浮かぶ。
《補修記録:概ね自然》
《交代頻度:標準範囲》
《綻び:弱》
――違う。
ここは、少なくとも中心じゃない。
しばらく見てから、俺は首を傾げた。
「……思ったより普通ですね」
筆頭執事が聞き返す。
「倉の流出説は弱い、ということですか」
「単独では弱いです」
記録を指で追いながら答える。
「補修はあります。でも、量に対して不自然な多さではない。倉番の交代も、そこまで怪しくない。
もし倉で大きく抜いてるなら、もっと雑な跡が残るはずです」
ユリウスが静かに言う。
「では、倉は違う?」
「完全には切れません。でも、一番強い線ではなさそうです」
次に、荷車の修繕記録と馬の飼葉消費を見る。
こっちは少し違った。
帳面を並べ、日付を追い、輸送量と照らした瞬間。
視界の文字が、今度ははっきり重なった。
《輸送報告:整いすぎ》
《修繕頻度:少》
《飼葉消費:軽微不足》
《綻び:流通過程に偏在》
「……ああ」
思わず声が漏れる。
「何かわかったかい?」
「揃いすぎています」
顔を上げてそう言うと、ユリウスが前に帳簿を見せた時と同じように、少しだけ目を細めた。
「またその言葉だね」
「はい。でも今度は、もう少しはっきり言えます」
荷車の記録を示す。
「修繕の回数が、輸送量のわりに少ないです」
「少ない?」
「はい。これだけ物が動いているなら、車軸や車輪の補修がもう少し出るはずです。馬の飼葉消費も、積載量の報告に対して少し軽い」
筆頭執事がすぐに反応する。
「つまり、帳簿ほどには実際の荷が重くなかった可能性がある、と」
「そうです」
さらに受領印を見る。
ここでも、小さな違和感が続いた。
「受領印も変ですね」
「どこがだい?」
「崩れが少ないです」
俺は紙を並べて見せる。
「本当にいろんな人が受け取っているなら、もう少し字の雑さや差が出るはずです。
でも、書き方が妙に整っている。全部が同じ人ではないにしても、かなり限られたところでまとめられている感じがあります」
ユリウスが肘掛けに指を置いたまま、静かに言う。
「輸送の途中か、その終点近くで」
「たぶん」
最後に、村からの原報告と、代官府に上がった整理後の数字を見た。
二枚を並べ、増減の幅を目で追う。
その瞬間、薄青い文字が紙の上をなぞるように走った。
《原報告:自然な変動》
《整理後:均し》
《不自然:微小調整の反復》
《綻び:人為的》
「……これですね」
「見つかったか」
「はい。大きくはいじっていません」
俺は二枚の紙を並べた。
「でも、少しずつ丸めています」
筆頭執事が身を乗り出す。
「丸める、とは」
「原報告だと、村ごとの増減に小さなムラがあります。
でも代官府に上がる数字は、そのムラが綺麗に均されてる。
たぶん、見る人間が『自然に見える程度』に整えている」
ユリウスが静かに頷いた。
「怠慢ではなく、意図的に」
「はい」
そこで一度、紙から手を離す。
「現時点で言えるのは、倉だけの問題ではなさそうです。
輸送か、その前後。少なくとも、流れのどこかで“数字を綺麗に見せるための手”が入ってます」
部屋が少し静かになった。
前より進んだ。
でも、まだ誰がやっているかは見えていない。
ただ、輪郭はかなりはっきりした。
「減っているんじゃない」
小さく呟く。
「減ったように見えない形に、直されています」
その一言に、筆頭執事が小さく息を吐いた。
「そこまで見えますか」
俺は紙を見ながら答える。
「帳簿って、変な時ほど綺麗になることがあります。
本当に現場が動いている数字は、もう少し乱れるものです」
ユリウスが小さく笑った。
「君はやはり、数字に対する勘が鋭いね」
「勘というより、整いすぎてるのが気になるだけです」
「それを勘が鋭いと言うんだよ」
◇
帳簿を閉じたあと、ユリウスが言った。
「今日のところはここまでにしよう」
「はい」
「だいぶ輪郭が見えた。十分だよ」
筆頭執事も頷く。
「この後、城の倉もご覧になりますか?」
少し考えてから、俺は首を振った。
「今日はいいです。資料でかなり絞れました」
「では明日か」
ユリウスがそう言って立ち上がる。
「明日、西側代官領の現場へ行こう。帳簿だけでは見えないものを、今度は君の目で確かめてほしい。」
それが一番早い。
「お願いします」
◇
その夜は、公爵家で夕食をごちそうになった。
大広間ほど大げさではないが、ハル領の屋敷よりずっと広い食堂で、公爵家の面々と食卓を囲む。
クラリス夫人は俺の顔を見るなり、やわらかく笑った。
「本当におめでとう、リオン君。首席なんて、ユリウスから聞いた時は驚いたわ」
「ありがとうございます」
「しかも新入生代表の挨拶でしょう? もう立派なものね」
その横でルークが目を輝かせている。
「やっぱりすごいな! 首席って、学院で一番ってことだろ?」
「たぶんそういうことになるね」
「たぶんじゃないでしょ」
セレナがすぐに口を挟む。
でもその顔には、以前みたいな刺々しさより、少し楽しそうな色が混じっていた。
「あなた、こっちがまだ頑張ってる間に、いつの間にそんなところまで行ってるのよ」
「そっちだって受かったんでしょ」
「当然よ」
「じゃあ、お互い様だね」
そう返すと、セレナは少しだけ口元を緩めた。
公爵家の食事はやはり美味しかった。
それに、空気も思っていたよりあたたかい。
ただ、頭の片隅ではずっと今日見た数字が残っていた。
綺麗すぎる帳簿。
揃いすぎた受領印。
軽すぎる飼葉消費。
食卓の途中で、ユリウスが静かに言う。
「仕事の話は今日はほどほどにしておこうと思ったが、君の顔を見ると少し難しいね」
思わず苦笑する。
「そんなに顔に出てますか」
「少しだけね」
クラリス夫人が困ったように笑う。
「明日、ちゃんと現場へ行くのでしょう? 今夜くらいは食事を楽しみましょう」
「はい」
「それに、泊まっていくのですから、慌てる必要もないでしょう」
その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。
そうだ。
今日はもう、公爵家に泊めてもらう。
現場を見るのは明日だ。
今夜のうちに全部を解こうとしなくていい。
◇
用意された客室は、やはり立派だった。
広い。
整っている。
でも、ハル領の屋敷とは違う緊張感が少しある。
ミアは部屋に通された時から、何度かそわそわしていた。
「大丈夫?」
「大丈夫です。たぶん」
「たぶん?」
「……少しだけ緊張してます」
それはそうだろう。
俺だって完全に平気なわけじゃない。
ただ、今はそれ以上に頭の中が現場のことで埋まっているだけだ。
窓の外を見ると、公爵城の中庭に夜の灯りが落ちていた。
綺麗だ。
整っている。
豊かだ。
でも、明日行く現場では、その整った流れのどこかが少しだけ歪んでいる。
「……明日だな」
小さく呟く。
帳簿の違和感は、もう十分見えた。
次はそれが、どんな顔で現場に出ているのかを確かめる番だ。
◇
翌朝。
まだ空気が少し冷たい時間に、俺は身支度を整えて部屋を出た。
城の廊下は静かで、使用人たちの足音だけが遠くに聞こえる。
玄関前には、すでに馬車が用意されていた。
ユリウスと筆頭執事、それに俺とミアが乗るらしい。
ユリウスはいつも通り穏やかな顔で言う。
「では行こうか。今日は、数字ではなく道と倉を見る」
「はい」
ミアも少し緊張した顔で頷いた。
馬車が動き出す。
昨日見た整いすぎた大領の景色が、朝の光の中を後ろへ流れていく。
数字の違和感は、もう十分だ。
ここから先は、自分の目で確かめる。
その方が早い。
そう思いながら、俺は窓の外へ視線を向けた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
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