番外編② リオン悩む 温泉、どうしよう
公爵領へ向かう数日前。
西の森の開拓が少しずつ形になり始めた頃。
俺にはひとつ、かなり個人的で、しかし領地のことを考えるとまったく個人的とも言い切れない悩みがあった。
あの、ぬるい湧き水だ。
森の中で見つけた、地の熱を含んだ不思議な水場。
前世の感覚で言えば、あれはどう考えてもかなり“それっぽい”。
まだ断定はできない。
湯量もわからない。
成分もわからない。
掘ったら増えるのか、逆に止まるのかもわからない。
でも、どう見てもただの湧き水ではない。
「……どうしようかな」
机の上に地図を広げたまま、俺は何度目かの独り言を漏らした。
開拓候補地。
搬出路。
防柵予定。
魔物の通り道。
その少し外れに、小さく印をつけた場所がある。
ぬるい湧き水。
今のところ、ただそれだけだ。
だが頭の中では、その“ただそれだけ”が、やけに大きく膨らんでいた。
もし、あれが十分な量で続くなら。
旅人を呼べるかもしれない。
今のこの国では、湯に浸かって体を休める、 みたいな文化は一般的じゃない。
だからこそ、きちんと整えればそれ自体が強い価値になる可能性がある。
宿を作る。
人が泊まる。
食事を出す。
荷運びや護衛の仕事も増える。
そこまで行かなくても、温かい水を安定して使えるなら温室栽培にも応用できるかもしれない。
冬場の苗の管理や、今までこの領で育ちにくかった作物の実験にも使える可能性がある。
開拓拠点の近くに、冬でも冷え切らない水場があるだけでも十分大きい。
そこまで考えて、ふと頭の中の別の声が割り込んできた。
いや、理屈はいい。
そんな難しい話を全部抜きにしても、前世日本人だった自分としては、
普通に入りたい。
「……入りたいな」
小さく呟いて、自分で少し笑ってしまった。
旅館。
保養。
温室栽培。
いろいろ言ったところで、根っこのところにあるのはたぶんそこだ。
入りたい。
できれば森の中で、ちゃんと湯気が立つ湯に浸かりたい。
岩に囲まれていて、木の葉の隙間から空が見えて、肩まで沈んで「はぁ……」と言いたい。
――いや、待て。
「駄目だろ、それは」
すぐに自分で打ち消す。
成分がわからない。
肌に合うかもわからない。
地盤も少し緩い。
魔物も寄る。
下手に掘って湧き方を変えたら終わりだし、周囲を崩したら笑えない。
わかっている。
理屈では全部わかっている。
でも、だからこそ余計に気になる。
◇
結局、俺は数日後にもう一度その場所へ来ていた。
もちろん一人ではない。
ノルが一緒だ。
「またこちらへ来られるとは思っていました」
森の中を歩きながら、ノルが静かに言う。
「そんなにわかりやすかった?」
「かなり」
「そっか……」
まあ、そうだろう。
あれだけ意味ありげなものを見つけて、何も考えないはずがない。
俺たちは開拓候補地から少し外れ、例のぬるい湧き水のあるくぼ地へ向かった。
朝の森はまだ寒かったが、あの一帯だけはやはり空気が少し柔らかい。
草の色。
苔の厚み。
白っぽい石の付着。
やっぱり何度見ても、普通の水場じゃない。
しゃがみ込み、指先で水に触れる。
「……うん。やっぱり冷たくない」
「妙なものですね」
「この国だと、こういう水って珍しい?」
「私はほとんど見たことがありません」
ノルはそう言ってから、少し考えるように目を細めた。
「ただ、珍しいからといって、それだけで価値になるとも限りません」
「そこなんだよね」
わかっている。
その通りだ。
前世の日本みたいに“温泉”が文化として根づいているなら話は早い。
だが、そうじゃない。
この世界の人間からすれば、今のところこれは
妙にぬるい湧き水
それ以上でも以下でもない。
だからこそ、下手に触るべきじゃない。
でも――
「ノル」
「はい」
「ちょっとだけ試したいことがある」
ノルは俺の顔を見た。
その視線に一瞬だけ警戒が混じる。
「掘るとかではありませんよね」
「違う違う。そんなことしない」
「本当ですか」
「本当」
そこまで信用がないのか。
いや、森での自分の前科を考えると仕方ない気もする。
俺は湧き水の縁に腰を下ろし、靴と靴下を脱いだ。
ノルが一瞬だけ黙る。
「……何をしておられるのですか」
「いや、足だけ」
「足だけ?」
「うん。温かいなら、その……ちょっとくらい入れてみたくなるというか」
ノルは何も言わなかった。
言葉を選んでいる沈黙だった。
「止めた方がよろしいですか」
「たぶん大丈夫。飲むよりは危なくないと思う」
「思う、ですか」
「思う」
その返答に、ノルはごく小さく息を吐いた。
「では、異常を感じたらすぐ上げてください」
「うん」
そう言って、そっと足先を湧き水へ入れる。
「……あ」
ぬるい。
熱いとは全然言えない。
でも、朝の森の冷えた空気の中で、そのぬるさはやけに気持ちよかった。
じんわりと、冷えていた足の先から力が抜ける。
「どうですか」
「ぬるい」
「そうでしょうね」
「でも、気持ちはいい」
ノルが少しだけ首を傾げる。
「気持ちがいい、ですか」
「うん。すごく、ではないけど……なんというか、落ち着く」
しばらくそのまま、足だけ湯に浸けていた。
森の音がする。
小さな虫の羽音。
葉を揺らす風。
遠くの鳥の声。
そして、足元のぬるい水。
「……もしこれが大量に湧くなら、すごいんだよな」
思わず本音が漏れる。
ノルが静かに聞き返した。
「どういう意味でですか」
「いろいろ」
「いろいろ、ですか」
「泊まる場所を作って、人を呼べるかもしれない。寒い時期の滞在も楽になるし、下手したら作物にも使えるかもしれない」
「作物、ですか」
「温かい環境が作れれば、冬でも育つものが増える可能性がある」
ノルは少し考え込んだ。
「……たしかに、使い方次第では価値になりそうです」
「うん」
「ですが、今すぐどうにかできるものでもありませんね」
「そうなんだよ」
そこが一番の問題だった。
今はもう、公爵領へ行くことも、その先に王都入りも決まっている。
王立学院の入学準備もある。
日数的に、新しいことへ本格的に手をつける余裕はない。
しかも、これは開拓地の通路や防柵みたいに、思いついたらすぐ試せる種類のものじゃない。
湧き方の安定。
安全性。
掘っていいのか。
どこまで触れていいのか。
何一つわからない。
「下手にいじって、全部駄目になるのが一番まずい」
「ええ」
「木材よりも、薬草よりも、こういうのは壊したら戻らない気がする」
「私も同感です」
俺は足を湯から上げ、布で軽く拭いた。
「やっぱり、今は保全だな」
「ええ」
それが一番正しい。
欲しい。
使いたい。
入りたい。
でも、今は違う。
今やるべきなのは、価値を価値のまま壊さず残すことだ。
◇
屋敷へ戻ったその日の夕方、俺は父の執務室へ向かった。
父は帳面を見ていたが、俺の顔を見ると手を止めた。
「どうした」
「ひとつ、お願いがあります」
「なんだ改まって。言ってみろ」
俺は西の森の地図を広げ、湧き水の位置を指した。
「この一帯」
「湧き水の場所か」
「うん。この周囲、四方五十メートルくらいは当面触らないでほしい」
父の目が少し細くなる。
「理由は」
「まだ価値が定まってないから」
父はすぐには口を開かなかった。
俺はそのまま続ける。
「木を切るのも、掘るのも、道を直結させるのも後回し。勝手に大きくいじるのは絶対だめだと思う。記録だけ残して、獣の出入りと水の変化を見ておきたい」
「ふむ」
「自分が戻ってきた時に、ちゃんと考えたい」
今やると、たぶん壊す。
それだけははっきりしていた。
父はしばらく地図を見ていたが、やがて静かに言った。
「お前がそこまで言うなら、触らせん」
「ありがとう」
「ただし、完全に放置はしない」
「うん」
「見張りと記録だけはつける。誰かが勝手に近づかんようにもしておく」
「それで十分」
むしろ、そのくらいがちょうどいい。
価値がありそうだからといって、すぐ掴みにいかない。
今はまだ、眺めて、守って、待つ段階だ。
父は地図から顔を上げる。
「そんなに気になるのか」
「うん」
「珍しいな」
「かなり」
そこまで答えてから、少しだけ苦笑した。
「うまく使えたら、たぶんかなり面白い」
父はその“面白い”の意味を半分も理解していない顔だったが、それでも小さく頷いた。
「なら、戻ってきた時に考えろ」
「そうする」
執務室を出て、自室へ戻る。
窓の外には夕暮れが落ちかけていた。
西の森のあの一角は、今も静かにぬるい水を湧かせているのだろう。
誰にもまだ、ちゃんとした価値としては認識されていないまま。
でも、それでいい。
今はまだ触れない。
その代わり、壊させない。
そう決められただけでも、少しだけ気が楽になった。
ただ――
「……入りたかったな」
誰もいない部屋で小さく呟く。
旅館。
保養。
温室栽培。
いろいろ考えた。
でも本音を言えば、やっぱり一番の未練はそこだった。
ちゃんと浸かれたら気持ちいいだろうな、と。
我ながら、ずいぶん日本人くさい悩みだと思う。
けれど、その悩みを抱えたまま笑えるくらいには、今の状況を前向きに見られている気もした。
西の森には、まだ誰も名前をつけていない価値がある。
それをいつか、自分の手で形にできたら面白い。
机の上の地図を閉じる。
今は保留。
でも、忘れるわけじゃない。
ぬるい湧き水のことは、ちゃんと未来へ持っていく。
そう決めて、俺は小さく息を吐いた。




