第5話 許してはいけない
部屋の空気は、凍りついていた。
膝をついたレナは顔面蒼白のまま震え、母エマは薬盆を見つめたまま息を呑んでいる。
父ガルドは寝台にもたれた姿勢のまま、信じられないものを見るように俺とレナを交互に見た。
そして扉の向こうには、筆頭家臣バスク。
いつもと変わらぬ穏やかな顔。だが、視界の端に浮かぶ文字は、その内側を隠してはいなかった。
《敵意:高》
《証人切り捨てを検討》
《先制の意図あり》
やはり、こいつだ。
「……どういうことだ」
最初に声を出したのは父だった。弱々しい声だったが、領主としての重みはまだ消えていない。
「レナ。今のは、どういう意味だ」
レナは泣きそうな顔で唇を震わせた。
「わ、私は……っ、命じられただけで……!」
「落ち着きなさい」
バスクが一歩、部屋の中へ入ってきた。
「ガルド様、ご病身の前でこのような騒ぎ、まことに申し訳ございません。どうやら侍女が取り乱しているようです。まずは薬を下げさせ――」
「下げさせないで」
俺が言うと、バスクの足が止まった。
部屋の全員がこちらを見る。
「その薬は、この部屋から動かさない」
「リオン様」
バスクは困ったように眉を下げた。
「お気持ちはわかります。ですが、侍女が錯乱して妙なことを口走ったからといって、旦那様のお薬まで疑っては――」
「妙じゃない」
俺は薬碗へ目を向けた。
《毒性反応:微量》
《継続摂取で衰弱進行》
見るたびに、胸の奥が冷えていく。
「父上の身体は、病気だけでこうなってるわけじゃない」
母がはっと顔を上げた。
「リオン……」
「最近、父上は急に食が細くなったよね。立ち上がるだけで息が切れるし、手も少し震えてる。前より眠る時間が長くなってるのに、むしろ顔色は悪い」
父が目を細める。
母は明らかに思い当たるところがある顔だった。
「……それは、病が進んだからでは」
バスクの声は穏やかだった。
だが、その視界には別の文字が浮かぶ。
《警戒:上昇》
《話題逸らしを試行》
「そう見せたいんでしょ」
俺はバスクをまっすぐ見た。
「でもおかしい。薬を飲んで良くなるはずなのに、少しずつ削られてる。しかも一気にじゃない。ゆっくりだ」
父の寝台のそばまで進み、顔色、指先、目の下のくまを見る。
前世で医者だったわけじゃない。
だが、体調を崩した社員、無理をして壊れていく自分自身、薬で誤魔化しながら働く人間は何人も見てきた。
そして何より、この目が見せてくる。
「すぐに殺すつもりなら、こんなやり方はしない」
静かに言う。
「少しずつ弱らせて、まるで病が悪化したように見せる。そうすれば周りは“仕方なかった”って思う」
母の顔色が変わった。
「……そんな」
レナが涙をこぼしながら叫ぶ。
「本当に、私は命じられただけなんです! ほんの少しだって、毎回、ほんの少しだけ入れろって……! そうすれば誰にも気づかれないって……!」
父の表情が固まる。
部屋の温度が、一段下がった気がした。
バスクが低い声で言う。
「その侍女は、明らかに混乱しております。旦那様、ご安心ください。このような者はすぐに拘束し、誰にそそのかされたのか厳しく――」
「駄目だ」
俺は即座に遮った。
「レナをあんたに渡さない」
初めて、バスクの作り笑いがわずかに歪んだ。
「……私に、とは?」
「この人は主犯じゃない」
《主犯ではない》
《恐怖対象:バスク》
視界の文字が、それを告げている。
「脅されて動いてる。ここであんたに預けたら、口を塞がれるだけだ」
「リオン」
母が、少し震えた声で俺の名を呼ぶ。
「あなた、それは……」
「母上」
俺は母のほうを見た。
「父上を弱らせてるのは、ただの事故じゃない。このまま見過ごしたら、本当に取り返しがつかなくなる」
母は数秒、何も言わなかった。
その視線は父、薬碗、泣いているレナ、そしてバスクの順に動く。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……レナは、この部屋から出させません」
その一言で、空気が変わった。
母はこの家の女主人だ。
父が弱っている今、その言葉の意味は重い。
バスクの視界に、新しい文字が浮かぶ。
《誤算》
《奥方の介入を警戒》
《別経路を検討》
父が苦しげに息をつき、それでも言った。
「薬は……飲まぬ」
弱い声だった。
だが、決定の言葉だった。
俺は胸の奥で小さく息を吐く。
これで最低限は止められる。
「それから」
父は俺を見た。
「リオン。お前は……本当に、それがわかるのか」
病名まではわからない。
混ぜられたものの正確な名も、まだ断定できない。
だが、ここで必要なのはそこじゃない。
「全部はまだ」
正直に答える。
「でも、少しずつ身体を削るものが入ってる。そう考えないと、父上の弱り方は不自然すぎる」
父は目を閉じた。
長い沈黙のあと、低く言う。
「……バスク」
「はっ」
「今日から、私の薬はエマとリオンの確認を通せ。侍医も、記録も、運ぶ者も、全てだ」
その場の空気が、また変わった。
命令だ。
しかも、バスクの手から一つ権限を引き剥がす命令。
母が息を呑み、レナは顔を上げた。
バスクだけが、数拍遅れて頭を垂れる。
「……かしこまりました」
だが視界に出る文字は違う。
《敵意:増大》
《障害認定:高》
《早急な排除を検討》
もう隠す気もないか。
それでいい。
倉庫の横流しだけなら、まだ腐った家臣で済んだ。
父上を削っているとなれば、話は別だ。
こいつは、この家の病巣そのものだ。
様子を見る相手じゃない。
追い込む相手だ。
「母上、薬は全部保管して」
「ええ」
「レナは母上の部屋つきに。誰にも一人で会わせないほうがいい」
レナがびくりと肩を震わせたが、俺は続ける。
「安心して。今は君を責めるより、命令した人間を見つけるほうが先だ」
その瞬間、レナの視界に浮かぶ文字が変わる。
《恐怖:微減》
《保護対象として認識》
少しは落ち着いたか。
父が疲れたように目を閉じる。
「……皆、下がれ。リオンとエマは残れ」
バスクが一礼して部屋を出る。
出ていく直前、ほんの一瞬だけこちらを見た。
柔らかな笑み。
だがその奥は、冷たかった。
扉が閉まる。
静かになった部屋で、母がようやく震える声を漏らした。
「リオン……あなた、いつからあの人を疑っていたの」
「昨日から」
「昨日?」
「北倉庫の不正を見つけた」
母の目が大きく開く。
俺は短く説明した。
倉庫の横流し。
ミアへの濡れ衣。
今朝の一件。
そして、今日の毒。
母は最後まで黙って聞いていた。
父は寝台の上で目を閉じたまま、低く呟く。
「……私が、甘かった」
その言葉は、思っていたより重かった。
父は何も知らなかったわけではないのだろう。
ただ、病で弱る中で、見て見ぬふりをしてきた綻びがあった。
それが今、破綻しかけている。
「父上」
俺は静かに言った。
「まだ間に合う」
前世では遅かった。
気づいた時には、会社はもう崩れていた。
でも今は違う。
倉庫の不正も、毒も、まだ綻びの段階だ。
見えているなら、止められる。
父がゆっくり目を開き、俺を見た。
「……なら、やれ」
短い一言だった。
だが、それで十分だった。
初めて、父が俺に任せた。
俺は小さく頷く。
「やるよ」
部屋の片隅に置かれた薬盆へ、もう一度視線を向ける。
《毒性反応:微量》
《継続摂取で衰弱進行》
見えてしまった以上、もう戻れない。
俺はこの家の中にいる敵を、綻びの段階で潰す。
倉庫も。
薬も。
そして、バスクも。
こいつを、このままにしてはいけない。




