第4話 父の薬
その日の昼過ぎ、俺は自室に戻ってからも、ずっと父の薬盆のことを考えていた。
《身体衰弱》
《毒性反応:微量継続》
《投薬経路を要確認》
見間違いではない。
父は病で弱っている。
それ自体は本当だろう。
だが、それとは別に、少しずつ身体を削る何かが混じっている。
問題は、どこで混ざっているかだ。
薬そのものか。
器か。
水か。
あるいは、最後に運ぶ人間か。
前世でも同じだった。
数字の不正を見つけても、それだけでは足りない。
どこで手が入ったのか、誰が触れたのか、流れを掴まなければ潰せない。
扉を小さく叩く音がした。
「……リオン様」
声を潜めたミアだった。
「入って」
部屋へ入ってきた彼女は、朝よりも少しだけ顔色がいい。だがまだ緊張している。
無理もない。
今朝、あのまま俺が口を挟まなければ、倉庫泥棒の濡れ衣を着せられていたのだから。
「呼んでくださったと聞いて……」
「うん。頼みたいことがある」
ミアの肩がぴくりと揺れる。
それでも逃げなかった。
「父上の薬のこと、どこまで知ってる?」
「お薬、ですか?」
「誰が作って、誰が運んで、誰が最後に手を触れるか。そこを知りたい」
ミアは少し考え、慎重に言葉を選んだ。
「薬自体は侍医の先生が調合しています。いつも奥の薬室で……。それを侍女が薬盆にのせて旦那様のお部屋へ運びます」
「同じ侍女?」
「いえ……日によって違います。でも、最近はレナが多いです」
「レナ」
「はい。奥方様付きの侍女でしたけど、旦那様のお世話も手伝うようになって……」
視界の端に文字が浮かぶ。
《記憶照合:有用》
《協力適性:高》
よし。
「薬室には誰でも入れる?」
「基本は侍医の先生と補助の人だけです。勝手には……無理だと思います」
「じゃあ、運ぶ途中は?」
ミアは少し迷ってから答えた。
「旦那様のお部屋へ行く廊下の途中に、小さな控え間があります。侍女さんたちが盆を置いたり、お湯を足したりすることもあります」
俺は小さく頷いた。
薬そのものではなく、最後の一手。
可能性は高い。
「ミア。俺と一緒に、その流れを見たい」
「……私もですか?」
「一人だと目立つし、屋敷の細かい動きは君のほうが詳しい」
ミアは強く唇を結んだ。
怖いのだろう。
それでも、しばらくしてから、はっきり頷いた。
「……やります」
いい返事だ。
「ただし無理はしない。危ないと思ったらすぐ離れろ」
「はい」
「それと、朝のことで誰かに何か言われた?」
「少しだけ……。でも、前よりは」
「前よりは?」
「みんな、私を見てすぐ泥棒みたいな顔はしなくなりました」
そうか。
小さいが、意味はあった。
この家では、弱い立場の人間はすぐ切り捨てられる。
だからこそ、最初の一人を守るのは大事だった。
「だったら次は、もっとはっきりさせよう」
ミアは驚いたように俺を見たが、その目の奥には、もう朝ほどの絶望はなかった。
◇
夕方。
父の薬が運ばれる時間を狙って、俺とミアは使用人通路の影に立っていた。
正面から行けば怪しまれる。
だから見るだけだ。
しばらくして、白衣姿の侍医が薬室から出てきた。銀の盆には、湯気の立つ薬碗がひとつ。
視界の端に文字が浮かぶ。
《通常薬効》
《毒性反応なし》
《調合段階は正常》
やはりか。
薬そのものには、まだ異常がない。
侍医は無表情のまま廊下を進み、途中の控え間へ入った。そこに待っていたのは、若い侍女だった。
レナか。
栗色の髪をきっちりまとめ、所作も綺麗だ。いかにも手際の良い侍女に見える。
侍医が盆を置き、何事か二言三言交わして去る。
レナは一人になった。
その瞬間、視界に文字が走った。
《恐怖:強》
《命令による行動》
《主犯ではない》
《混入機会:有》
来た。
俺は息を止めた。
レナは周囲を気にするように一度だけ廊下へ視線を向け、それから袖の内側に手を滑り込ませた。
小さな紙包み。
それをごく自然な動きで開き、薬碗へ指先ほどの粉を落とす。
ミアが隣で小さく息を呑んだ。
俺はすぐに彼女の手首を軽く押さえる。今飛び出しても駄目だ。
まだ証拠が弱い。
そして、ここでレナ一人を捕まえても、命令した側に逃げられる。
粉が落ちた瞬間、薬碗に向けて文字が変わった。
《毒性反応:微量》
《継続摂取で衰弱進行》
《即効性なし》
やはりこれだ。
父を一気に殺す毒じゃない。
じわじわ削って、病の悪化に見せかけるためのもの。
胸の奥が冷えた。
前世で見たことがある。
一発で壊すより、周囲に「仕方ない」と思わせながら弱らせるやり方。
汚い。
だが、実にやり口がうまい。
レナは何事もなかったように薬盆を持ち上げ、父の部屋へ向かった。
ミアが小声で言う。
「い、今の……!」
「見た。間違いない」
「じゃ、じゃあ止めないと……!」
「止める」
俺は即答した。
「でも、やり方を間違えると証拠が消える」
レナは主犯ではない。
文字がそう言っている。
つまり本命は別にいる。
俺は素早く頭の中で順番を組み立てた。
今やるべきことは三つ。
父にその薬を飲ませない。
レナを潰さず押さえる。
そして、命令した側へ繋げる。
前世ならこういう時、焦って全部を一度にやろうとして失敗した。
今度は違う。
「ミア。今すぐ母上を呼んで」
「奥方様を?」
「うん。『父上の薬のことで、すぐ来てほしい』とだけ言って。余計なことは言うな」
「は、はい!」
ミアは走った。
俺は回り道をして、父の部屋の前へ向かう。
ちょうどレナが中へ入るところだった。
俺もそのまま扉を押して部屋へ入る。
「父上」
父は寝台にもたれ、弱々しく目を向けてきた。
「……リオン? どうした」
レナがぎくりとした顔をした。すぐに恭しく頭を下げるが、視界の端に浮かぶ文字は取り繕えない。
《動揺:大》
《逃避願望》
《命令違反を恐れる》
命令違反、か。
やはり誰かの指示だ。
「ちょうどよかったです、リオン様。旦那様のお薬を――」
「その薬、少し見せて」
レナの指がわずかに震えた。
「え……ですが、冷めてしまいます」
「少しくらいなら平気だよね」
俺は薬碗に視線を落とす。
《毒性反応:微量》
くそ、見るたびに腹が立つ。
父は首を傾げた。
「何をしているんだ?」
「確認です」
短く答えた、その時だった。
後ろから母の声が飛んだ。
「リオン!」
振り返ると、息を切らせた母が立っていた。ミアも後ろにいる。
ちょうどいい。
「母上、この薬、今は飲ませないで」
母の顔が強張る。
「……どういうこと?」
レナの顔色が、一気に失われた。
「お、お待ちください! そのようなことを言われては――」
「だったら説明して」
俺は侍女をまっすぐ見た。
「控え間で、何を混ぜたの?」
部屋の空気が止まった。
父が目を見開く。
母も息を呑んだ。
レナは一歩下がる。
その視界の端には、これ以上ないほどわかりやすい文字が浮かんでいた。
《恐怖:極大》
《発覚》
《主犯名の秘匿を優先》
当たりだ。
「わ、私は……!」
「見たよ」
俺は静かに言った。
「侍医から受け取った時、その薬には異常がなかった。でも控え間で、君は袖から紙包みを出して粉を入れた」
「ち、違――」
「じゃあ、その袖を見せて」
レナの動きが止まる。
母の顔から血の気が引いていた。
「……レナ」
その一言で、侍女は完全に崩れた。
薬盆を落としそうになりながら膝をつき、泣きそうな声で言う。
「わ、私は命じられただけです! 私がやれって、逆らったら弟を仕事から追い出すと……!」
来た。
だが、肝心の名前は出ない。
視界の文字が揺れる。
《主犯名の秘匿を継続》
《恐怖対象:近くにいる》
近くにいる?
俺はゆっくりと振り返った。
開いたままの扉の向こう。
廊下の奥に、いつの間にか立っている人影があった。
筆頭家臣、バスク。
相変わらず穏やかな顔をしている。
だが、その視界の端には、これまでよりもずっと濃い文字が浮かんでいた。
《敵意:高》
《証人切り捨てを検討》
《次の手:先制》
――やっぱりお前か。
俺は薬碗から目を離さず、静かに息を吐いた。
この家の本丸が、ようやく輪郭を見せ始めた。
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