第3話 濡れ衣
翌朝、屋敷の空気は朝から張り詰めていた。
使用人たちが廊下を行き交う足音は妙に早く、ひそひそ声は聞こえても、笑い声はひとつもない。
何かあったのだ。
いや、起こされたのだろう。
俺が食堂へ向かう途中、角を曲がった先で、甲高い怒鳴り声が響いた。
「だから、私ではありません!」
ミアの声だった。
俺は足を止めず、そのまま声のする方へ向かう。
北倉庫の前には、人だかりができていた。倉庫係、使用人、兵が数人。そして、その中心で青ざめた顔のミアが立っている。目の前には、腕を組んだバスク。その隣には、眠そうな顔をした倉庫係の男――たしかロドだ。
「言い逃れは見苦しいぞ、ミア」
バスクはあくまで穏やかな口調だった。怒鳴らない。だからこそ質が悪い。
「鍵を持っていたのはお前だ。見張りも任されていた。今朝になって不足が見つかったのも北倉庫。疑われるのは当然だろう」
「で、でも……私は中に入っていません!」
「鍵を持っていて、中に入っていない? それを信じろと?」
人だかりの中に、重たい沈黙が落ちる。
弱い立場の者は、それだけで不利だ。
しかも相手は筆頭家臣。誰も正面から逆らえない。
ミアの肩が震えていた。泣くのを必死でこらえているのがわかる。
視界の端に文字が浮かぶ。
《恐怖:極大》
《虚偽なし》
《責任転嫁先として選定済み》
やはりな。
「金に困っていたのではないか?」
バスクが追い打ちをかけるように言った。
「下働きの娘なら、少し物資を売れば銀貨にもなる。魔が差したとしても不思議ではあるまい」
周囲の何人かが顔をしかめた。だが、誰も口は開かない。
その時だった。
「その話、おかしいよ」
俺の声に、場の空気がぴたりと止まった。
全員の視線がこちらへ向く。
「り、リオン様……」
ミアの目が大きく開く。バスクは一瞬だけ眉を動かしたが、すぐにいつもの穏やかな顔に戻った。
「おはようございます、リオン様。お見苦しいところを――」
「見苦しいのはそっちだ」
俺は人垣の中へ進み出た。
父はいない。まだ寝室だろう。母もこの場にはいない。だからこそ、バスクは朝一番で片をつけるつもりだったのだ。
昨日のうちに、ミアへ濡れ衣を着せる筋書きを整えた。そういう顔をしている。
視界の端にまた文字が走る。
《虚飾》
《早期処分を希望》
《証拠隠滅猶予:短》
思ったより切迫しているな。
なら、こちらも遠慮はいらない。
「ミアが犯人だと言うなら、まず確認したいことがある」
バスクが細く目を眇めた。
「確認、でございますか?」
「うん。北倉庫の物資不足が見つかったのは今朝なんだよね?」
「その通りです」
「じゃあ、湿気で傷みが増えたって話は、いつから出てた?」
バスクがわずかに間を置いた。
「……数日前からですが、それが何か?」
「おかしいよね」
俺は北倉庫の扉を指差した。
「雨は降ってないのに、急に北倉庫だけ傷みが増えた。しかも今朝になって不足が見つかった。傷みの話と盗難の話が、都合よく同じ場所で重なりすぎてる」
ロドが顔をしかめる。
「そ、それは偶然かもしれません」
「偶然ね」
俺はそのまま続けた。
「じゃあ次。ミアがやったって言うなら、一人で塩樽や乾燥肉をどう運んだの? 北倉庫の塩樽は、十二歳の女の子が一人で抱えて持ち出せる重さじゃないよね」
人だかりの中から、小さなざわめきが起きた。
そうだ。
誰でも少し考えればわかる。
だが、最初に「犯人はこいつだ」と示されると、人はそこから考えるのをやめる。
バスクがゆっくりと言う。
「何度かに分けて運んだのかもしれませんな」
「無理だよ」
俺は倉庫の前の地面を指した。
「樽を引きずった跡が残ってる。でも途中で薄くなってる。つまり途中で持ち上げ直してるんだ。あの重さをミア一人でやるのは無理。少なくとも大人の手が必要だ」
ロドの顔色が変わった。
昨日見た時より、さらに悪い。
視界に文字が浮かぶ。
《動揺:大》
《主犯ではない》
《指示に従った可能性:高》
ほう。
ロドは使われた側か。
バスクは相変わらず表情を崩さない。だが、目だけが俺を測り始めていた。
「リオン様は、ずいぶんと倉庫をよくご覧になったようですな」
「うん、見たよ」
わざとあっさり答える。
「ついでに言うと、塩樽の縄の締め方も混ざってる。乾燥肉の箱も釘穴がずれてる。開けて詰め直した跡だよね。これ、一回だけじゃない。何度もやってる」
今度ははっきりと、人垣がざわついた。
「な、何度も……?」
「じゃあ、ミアじゃなくて……」
「最初から横流しされてたってことか?」
ミアが信じられないものを見るように俺を見つめている。
泣きそうな顔だった。けれど今度は、絶望でではない。
助かるかもしれない、という顔だ。
バスクが、初めて少しだけ声の温度を下げた。
「たしかに興味深い指摘です。ですが、それでミアが無実と決まるわけではありますまい」
「そうだね」
俺は頷いた。
「でも、少なくとも“ミアが一人でやった”は無理がある」
一歩、バスクへ近づく。
「そして、もっとおかしいことがある」
「……何でしょう」
「鍵だよ」
その場の全員が、一瞬だけ息を止めた。
「北倉庫の鍵をミアが持ってたのは、見張りだからでしょ。でも、そもそもミアに見張りを命じたのは誰?」
俺は視線をまっすぐバスクへ向けた。
「あなたですよね、バスク」
空気が凍りついた。
誰も声を出さない。
バスクだけが、静かに俺を見返している。
「お言葉ですがリオン様、それは私が管理を任せたというだけの話です」
「そうだね。でも変だよ。物資不足が見つかった朝に、真っ先にミアへ罪を被せる準備ができてた。まるで、誰を犯人にするか最初から決めてたみたいに」
ミアがはっと顔を上げる。
ロドは完全に青くなっていた。
視界の端に、バスクへ向けた文字が走る。
《怒気:微増》
《警戒対象に認定》
《現時点での断罪は不可》
そう。
まだ足りない。
ここでバスクを倒すことはできない。証拠も権限も不足している。
だが、十分だ。
この場で必要なのは、ミアを守ること。
そして、バスクの思い通りに“話を終わらせない”ことだ。
「少なくとも、ミアを犯人扱いするのは早すぎる」
俺ははっきり言った。
「本当に調べるなら、北倉庫の出入り、鍵の管理、物資の帳簿、全部を見直すべきだよ。……違う?」
人垣の中から、小さな同意のざわめきが起きる。
「た、たしかに……」
「これでミアだけ処分は……」
「帳簿も見ないと……」
流れが変わった。
バスクはそれを感じ取ったのだろう。そこで初めて、少しだけ唇の端を引き結んだ。
「……承知いたしました。リオン様がそうおっしゃるのであれば、ミアの処分はひとまず保留といたしましょう。改めて調査を――」
「いや」
俺は遮った。
「調査は父上の前でやるべきだ。ハル家の物資管理の話なんだから、勝手に片づけないで」
今度こそ、バスクの目がわずかに細くなった。
周囲の使用人たちも、兵たちも、その変化を見逃さなかったはずだ。
この男は今まで、こうやって全部を自分の裁量で処理してきたのだ。
だが、今日は違う。
俺がそれを止めた。
「……かしこまりました、リオン様」
バスクは頭を下げた。
恭しく。実に見事に。
だが、その視界の端に浮かぶ文字は、まるで別のことを語っていた。
《敵意:上昇》
《排除優先度:中》
《次の手を検討中》
やっと本性を見せ始めたか。
ミアが小さく震える声で言った。
「リオン様……ありがとうございます……」
「まだ終わってないよ」
俺は小さく返した。
「でも、少なくとも今日は終わらせない」
それだけで、ミアは泣きそうな顔のまま何度も頷いた。
人垣が少しずつ散っていく。
完全勝利ではない。
バスクはまだ立っているし、こちらは奴の不正の一端を見たにすぎない。
だが、意味はあった。
今日この場で、この家の中に敵がいると示せた。
そしてミアを、最初の犠牲者にさせずに済んだ。
その時だった。
廊下の奥から、咳き込む声が聞こえた。
父だ。
侍女に肩を貸されながら、ガルドがゆっくり歩いてくる。その後ろに、薬盆を持った侍医が続いていた。
俺は何気なく父へ視線を向けた。
次の瞬間、視界に新たな文字が浮かぶ。
《身体衰弱》
《毒性反応:微量継続》
《投薬経路を要確認》
心臓が一拍、遅れた。
――毒?
父はただ病で弱っているんじゃないのか。
俺は無意識のうちに、侍医の持つ薬盆へ視線を向ける。
そこにも文字が浮かんだ。
《通常薬効》
《混入痕跡の可能性》
《継続摂取で衰弱進行》
ぞっとした。
倉庫の横流しだけじゃない。
この家は、もっと深いところまで食われている。
父が弱々しく俺を見る。
「……リオン?」
俺はすぐに表情を消した。
「なんでもありません、父上」
そう答えながら、拳を強く握る。
見えた。
また一つ、綻びが。
なら、今度こそ見逃さない。
北倉庫の不正。
濡れ衣。
そして父の衰弱。
全部つながっているのなら、もう遠慮はいらない。
俺は静かに、薬盆から目を離さなかった。
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