第42話 西の森
翌早朝、俺とノルは、ハル領の冒険者ギルドが用意している乗り合い馬車に乗って西の森へ向かった。
御者台の後ろに簡素な荷台をつけただけの実用本位な馬車だが、思ったより利用者は多い。
森の入口近くまで行くということで、薬草採りの冒険者、木材の下見に行くらしい職人風の男、護衛依頼帰りの冒険者二人組まで乗っていた。
最近、西の森へ行く人が増えたから、ギルドがこうして定期的に馬車を出すようになったらしい。
「ちゃんと商売になってるんだな」
俺がそう言うと、隣に座るノルが短く答えた。
「人が動けば、必ず運ぶ手が要ります」
「たしかに」
馬車は領都を出て、西へ向かって進んでいく。
最初は畑と開けた道が続いていた。
けれど、少しずつ人家が減り、草の匂いが濃くなり、遠くに黒っぽい緑の塊が見え始める。
あれが西の森だ。
領都からおよそ十二キロ。
近いといえば近い。
でも、今までのハル領には、その“近い”森に手を伸ばす余力すらなかったのだろう。
馬車の揺れに身を任せながら、俺は頭の中で今日の流れを整理していた。
入口付近の地形。
水源の有無。
木の種類。
魔物の気配。
道を引ける場所があるか。
開拓するとしたら、まず何が必要か。
やることは多い。
けれど、不思議と嫌じゃない。
むしろ、こうして新しい場所へ向かう時間は少しだけ胸が高鳴った。
前の席にいた若い冒険者が、こちらをちらりと振り返った。
「坊ちゃんも調査か?」
「うん。様子見だけど」
「へえ」
それだけ言って前を向く。
あからさまに舐められたり、絡まれたりはしない。昨日ギルドで登録を済ませたのが地味に効いているのかもしれない。
やがて日が高くなり、馬車は森の入口近くの簡易停留所で止まった。
時刻は昼前。
空は明るいのに、森の近くへ来ただけで空気が少し冷たく感じる。
「着いたぞー!」
御者の声に合わせて、皆がそれぞれ荷を持って降りていく。
俺も馬車を降り、目の前の森を見上げた。
「……広いな」
素直に、そう思った。
目の前にあるのは、ただの林じゃない。
広大で、深くて、簡単には奥を見せない森だ。
ギルドの簡易地図を開く。
入口付近と、過去に何度か人が入った痕跡のある範囲だけが薄く記されている。そこから先は、ほとんど空白だった。
地図の上でも広い。
でも、実際に目の前にすると、もっと広い。
樹齢のかなり経った太い木が何本も立っている。
幹は人が両腕を回しても足りないくらい太い。枝は高く、葉は重なり合い、森の内側を暗くしていた。
未開の地。
そう呼ぶのが一番しっくりくる。
「本日は夕方まで調査し、この近辺で野営します」
ノルが短く確認する。
「うん」
「深入りはしません。まずは入口から見える範囲と、少し入った先の状況把握です」
「わかった」
周囲を見ると、他の冒険者たちもそれぞれ準備を始めていた。
薬草採りらしい者は籠を背負い、二人組の冒険者は荷を確認している。
どうやらこの森の入口一帯は、すでに“完全な未踏”ではなく、“まだ荒いけど人が出入りし始めた場所”という感じらしい。
それでも、普通の野外とは違う緊張がある。
◇
調査を始めてすぐ、森の空気は外と全然違うとわかった。
音が変わる。
風が葉に当たる音。
虫の鳴き声。
遠くで小動物が動く気配。
道はあるようでない。
人が踏んだ跡はわずかに残っているが、数日もすれば草が戻りそうな程度だ。
視界の端に、文字がちらつく。
《古い獣道》
《地盤:やや軟弱》
《水気:北西方向》
《開拓適地:限定的》
やっぱり見える。
森はただの緑の塊じゃない。
歩けば歩くほど、細かい差が浮かび上がる。
「ノル、このあたり少し地面が緩い」
「ええ。荷車道にするなら避けるべきでしょう」
「その代わり、あっちに少し高い筋がある。道を通すならたぶんあっちだ」
ノルは軽く頷いた。
「水はどうですか」
「北西に気配がある。近いと思う」
「なら、その方向を先に見ましょう」
しばらく進むと、浅い流れのある小川が見つかった。
幅は狭いが、水は澄んでいる。
視界の端に文字。
《水質:良》
《飲用可:煮沸推奨》
《周辺:野営適地候補》
「水は使えそうだね」
「ええ。入口付近に水があるのは大きいです」
「野営もしやすくなる」
そこでふと、頭の中に別の発想が浮かんだ。
水場。
平地。
街道からそこまで遠くない。
こういう場所に、野営用の設備があったら便利だな。
簡単な屋根。
焚き火用の石囲い。
薪置き場。
毛布や寝袋の貸し出し。
前世で見たキャンプ場みたいなものを、もっと実務寄りに作れないだろうか。
まだ早い。
でも、森に入ってみると必要なものが具体的に見えてくる。
「どうしました」
ノルに聞かれ、俺は小さく首を振った。
「いや、野営しやすい設備がいずれ必要になるかもって思った」
「……なるほど」
ノルは少しだけ感心したような顔をした。
「普通はまず魔物を気にするところですが」
「それも気にしてるよ」
「存じています」
◇
森へ入ってしばらくした頃、小さな気配が右前方で跳ねた。
ノルがすぐに手を上げる。
「止まって」
俺も足を止める。
茂みの向こうから出てきたのは、犬より少し小さいくらいの灰色の魔物だった。
狼ほどではないが、牙が妙に長い。
「森ネズミの変異種です。弱いですが、噛まれると面倒です」
「どうする?」
「まずはご自身で」
即答だった。
なるほど。
俺を連れてきた以上、最初から全部ノルが片づける気はないらしい。
魔物は低く唸り、こちらの様子をうかがっている。
火は危ない。
森でむやみに火を散らすのは論外だ。
なら風だ。
ただし刃にするほど大げさではなく、目と鼻先を叩く程度でいい。
意識を集める。
風の流れ。
一点。短く。
バッ
見えない衝撃が魔物の顔面を打った。
目を閉じた隙に、俺はもう一歩前へ出る。身体強化はごく薄く、踏み込みだけ。
木剣を横から叩きつける。
ゴッ
魔物は情けない声を上げて転がった。
「……よし」
「問題ありません」
ノルが淡々と言う。
「ただし今の一撃、あと半歩踏み込みが浅い。相手が大きければ届きません」
「うん」
「それと、森では音を立てすぎない方がいい」
「了解」
小さい戦闘。
でも、公爵家での訓練がちゃんと実戦に繋がるとわかっただけで、かなり意味があった。
さらに進む。
今度は植物を見る。
木の種類。
根の張り方。
地面の湿り。
苔のつき方。
視界の端に次々と文字が浮かぶ。
《薬草:低価値》
《止血草:群生》
《樹皮:加工向き》
《伐採適性:可》
「ノル、これ見て」
しゃがんで葉を指す。
「止血草ですか」
「売れる?」
「ギルドなら買い取るでしょう。薬師にも需要があります」
周囲を見れば、他にもそれらしいものがある。
完全な宝の山ではない。
でも、手ぶらで帰る森でもない。
その時、また気配が動いた。
今度はさっきより速い。
しかも一体じゃない。
視界の端に文字が浮かぶ。
《小型魔物・二体》
《左個体:前脚弱》
《右個体:喉元脆弱》
《接近速度:中》
「来る」
ノルはすでに剣へ手をかけていた。
でも俺が一歩前へ出る。
「左は足、右は喉が弱い!」
そう言うと、ノルの動きが一瞬だけ変わった。
左から飛びかかった魔物へ、ノルの剣が迷いなく前脚を払う。
同時に、俺は右側へ風を短く集めて喉元を狙った。
バッ
よろめいたところへ、ノルが返す刃で一閃。
二体とも地面へ転がる。
静かになる。
ノルが俺を見た。
「今のは?」
「なんとなく、じゃない。弱いところが見えた」
「便利なスキルですね」
「自分でもそう思う」
戦闘にも綻びの目は使える。
ただの経営向けじゃない。
それがわかったのも、大きかった。
◇
その後も調査を続けた。
入口近くの地形。
水場の位置。
野営できそうな少し開けた場所。
薬草や買い取り対象になりそうな植物。
途中で、ギルドの冒険者たちが野営候補地として使っているらしい平地も見つかった。焚き火の跡があり、石がいくつか積まれている。
「ここなら今夜も使えそうだね」
「ええ」
日が傾き始め、森の中の暗さが一気に増していく。
ノルが周囲を見回し、言った。
「ここまでにしましょう」
「まだ少し行けるけど」
「行けます。しかし、安全を考えるなら、今日はここまでです」
「……了解」
その判断は正しい。
森は、暗くなると一気に別物になる。
他の冒険者たちも少し離れた場所で同じように野営準備を始めていた。
俺たちも荷を下ろし、簡単な寝床を作る。
草を払い、敷布を広げ、小さく火を起こす。
「こういうの、もっと整えたくなるな」
俺がぽつりと言うと、ノルが薪をくべながら視線を上げた。
「整える、とは」
「野営用の設備」
「設備?」
「屋根とか、焚き火台とか、水場の整備とか。寝具の貸し出しなんかもあるといいかも」
ノルはしばらく黙って、それから言った。
「森に入って最初に考えることがそれですか」
「必要だと思わない?」
「思います」
即答だった。
「少なくとも、これから人が増えるでしょう。」
「だよね」
前世のキャンプ場ほど綺麗でなくていい。
でも、最低限の安全と効率があるだけで、調査も開拓もかなり楽になるはずだ。
火が小さく揺れる。
見張りは交代で立つことにした。
ノルが先。
その次が俺。
夜の森は静かだった。
静かすぎるくらいに。
不安がないわけじゃない。
知らない森。
魔物。
暗闇。
少し離れたところで寝ている他の冒険者たちの気配。
でもそれと同時に、妙に胸が浮く感じもあった。
林間学校、みたいだな。
前世で行った学生時代の泊まり行事を、ふと思い出す。
もちろん、こっちは魔物が出るし、緊張感も段違いだ。
でも、“知らない場所で夜を越す”という感覚のどこかに、少し似たものがあった。
「どうしました」
見張りを交代する時、ノルが聞いた。
「いや。少しだけ楽しいなと思って」
「森がですか」
「未知の場所って、やっぱり面白い」
ノルはそれを聞いて、ほんのわずかに口元を緩めた。
「そう思えるうちは、たぶん大丈夫です」
「何が?」
「必要以上に怯えても、必要以上に油断してもいない、ということです」
それはたしかにそうかもしれない。
焚き火の小さな光の向こうで、森の闇は深い。
でも、その先にあるものを見たいという気持ちもまた、はっきりあった。
西の森。
危険だけど、価値がある場所。
そして、ハル領の次の一手になりうる場所。
火を見つめながら、俺は静かに息を吐いた。




