第410話 豊かになった領地の財布
「元日本最強の探索者、今はダンジョン救助員です」も連載中です。
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穀物の購入について話し合ってから、数日が過ぎた。
俺は再び、父上の執務室を訪れていた。
机の上には、今年これまでの収入と支出、それに年末までの見込みをまとめた帳簿が開かれている。
「今年の帳簿だけでよいのか?」
父上が尋ねた。
「二年前のものも見せてもらえますか?」
「二年前?」
「今の数字だけを見ても、どれくらい変わったのか分かりませんから」
父上がエリアスへ目を向ける。
「用意できるか?」
「少々お待ちください」
エリアスが部屋を出て、しばらくして分厚い帳簿を抱えて戻ってきた。
二年前と現在。
二冊の帳簿が、机の上へ並べられる。
「まずは北部から見よう」
俺は帳簿を開いた。
二年前の北部は、野菜の生産が中心だった。
青葉草も栽培されていたが、そのほとんどは領内で使われている。
「青葉草の出荷量が、かなり増えているね」
「王都を中心に、複数の領から注文が入っております」
エリアスが答えた。
「じゃがバターだけでなく、肉料理にも使われているようです」
「栽培する農家も増えたのか?」
父上が尋ねる。
「はい。生産する畑も広がっております」
青葉草そのものの売上だけではない。
選別する者。
乾燥させる者。
荷車で運ぶ者。
新しい仕事が増えたことで、北部全体の収入も伸びている。
「次は東部ですね」
エリアスが、別のページを開いた。
数字の増え方は、北部よりも大きい。
「二年前は、青輝石も純石も、ほとんど収入になっていなかったんだよね」
「利用方法が分かっておりませんでしたから」
現在は違う。
青輝石は卓上灯や街灯に使われ、純石は街灯を動かすために必要とされている。
石を掘る者だけでなく、選別する者や工房で加工する職人も増えた。
「王都からの街灯の注文も、この帳簿に入っているのか?」
「まだ一部です」
エリアスが答えた。
「納品が終わっていない分は、収入としては記録しておりません」
「これから、さらに増える可能性があるということですね」
「ああ」
父上の表情が緩む。
南部のページを開くと、領外への穀物販売は減っていた。
「南部だけは、他領からの収入が落ちているな」
父上が言う。
「生産量も減っているのか?」
「いえ、減っておりません」
エリアスが首を横に振る。
「領内で消費される量が増えております」
「そうそう。南部が衰えたわけじゃないんだよね」
「どういうことだ?」
「以前は領内で食べ切れなかったから、他領へ売っていました。
今は、領内だけでほとんど消費しています」
人口だけでなく、旅人や冒険者、作業員も増えている。
穀物を食べる人数が増えたのだ。
「ただし、生産の増加が消費の増加に追いついていません」
「だから、穀物の価格が上がっているのだな」
「はい。なので、農業試験と領外からの購入が必要です」
最後に、西部の帳簿を開く。
二年前のページは、ほとんど空白だった。
小さな集落と、わずかな林業。
それ以外に、大きな収入はない。
だが、現在の帳簿には多くの項目が並んでいた。
木材。
リバーシ。
温泉。
宿。
飲食店。
商人からの税。
建築に関わる収入。
「二年前とは、同じ場所とは思えないな」
父上が帳簿を見つめる。
「西部は、収入も増えています。ただ、支出も大きいですね」
道路。
排水。
学校。
警備。
開拓に必要な費用は、まだ多い。
「西部は完成したわけではありません。成長の途中です」
「その成長を止めないためにも、金が必要というわけか」
「はい」
俺は、人口の記録も確認した。
「二年前は、領全体でおよそ二万二千人」
「現在は、三万人を少し超えております」
エリアスが答える。
「二年で八千人も増えたのか」
「特に、領都と西の森です」
領民として登録されていない者もいる。
冒険者。
商人。
旅人。
短期間だけ働く作業員。
実際にハル領で食事をして、品物を買っている人数は、記録された人口より多いはずだ。
俺は別の紙を取り出した。
小麦の価格。
職人の賃金。
各地域の生産量。
工房の商品価格。
商人が扱った品物の量。
一つずつ数字を書き写していく。
「何を計算している?」
父上が尋ねた。
「領内で、一年間にどれくらいの品物や仕事が生み出されているかです」
「税収ではないのか?」
「税収は、その一部です。領民や工房、店、商人が生み出したものを全部まとめて考えます」
正確な数字を出すのは難しい。
帳簿に残らない小さな取引も多い。
それでも、全体の規模は推測できる。
俺は計算を続けた。
今年はまだ終わっていない。
そこで、現在までの実績に、街灯やリバーシの受注、今後見込まれる税収を加えて、一年分の規模を推測した。
数字を書き、間違いがないか確かめ、別の紙に合計を書き直す。
パソコンがあれば、数字を入れるだけでもっと早く計算できるんだけどな。
そんなことを考えながら、ようやく答えを出した。
前世の金額へ無理やり置き換えるなら、二年前のハル領の経済規模は年間百五十億円ほど。
現在は、三百八十億円前後。
物価も暮らし方も違う。
正確な比較ではない。
それでも、領地の経済が二年間で二倍以上になったことは間違いなかった。
「ずいぶん増えたな」
父上が紙を覗き込む。
「はい。俺が思っていた以上です」
「王国内では、どのくらいの位置になる?」
この国には、領地を持つ貴族が三十家いる。
俺は、学院で学んだ各領の人口や産業を思い出した。
「二年前なら、二十五番目前後だったと思います」
「今は?」
「正確な数字は分かりません。ほかの領地も成長していますから」
「それでも、お前の予想を聞きたい」
俺は少し考えた。
「十五番目から十七番目くらいでしょうか。おそらく、十六番目前後です」
「二十五番目から、十六番目か」
父上は、二年前の帳簿へ目を落とした。
港を持つ領地。
大きな都市を持つ領地。
広大な穀倉地帯や鉱山を持つ領地。
そうした上位の領地には、まだ及ばない。
それでも、没落寸前だったハル領は、王国の中ほどまで成長したことになる。
「これだけ収入が増えたのなら、道路や学校にも、さらに金を使えるのではないか?」
父上が尋ねた。
「少し待ってください」
俺は現在の帳簿をもう一度開いた。
「エリアス。穀物の購入代金を支払うのはいつかな?」
「最初の荷が出る前に一部を支払います。残りは、到着後です」
「倉庫の修繕費は?」
「今月中に半分。完成後に残りを支払います」
「街灯の材料費と職人の賃金は?」
「材料費はすでに一部を支払っています。賃金は月ごとです」
「王都から街灯の代金が入るのは?」
「納品し、確認を受けた後になります」
俺は新しい紙へ、金が出ていく時期と、入ってくる時期を書き始めた。
今月。
翌月。
その次の月。
穀物の支払い。
倉庫の修繕。
工房の材料費。
職人や作業員の賃金。
道路と排水の工事費。
その後に入る街灯の代金。
リバーシの販売代金。
秋に納められる税。
書き込む項目が増えるにつれ、父上とエリアスは何も言わなくなった。
二人の視線が、俺の手先と紙の上を行き来している。
俺は月ごとに残る金額を計算した。
一つの支払いが遅れた場合。
街灯の納品が予定より遅れた場合。
穀物の購入量が増えた場合。
何度か数字を書き直す。
パソコンがあれば、こんな計算はすぐに終わるんだけどな。
ようやく最後の数字を書き終え、俺は紙を父上たちの方へ向けた。
「一年間では、収入の方が多いです」
「ならば、問題はないのではないか?」
「ここを見てください」
俺は、秋の税と街灯の代金が入る前の時期を指した。
「この時期は、支払いが重なります」
「それでも、後から金は入るのだろう?」
「はい。でも、支払いを待ってもらえるとは限りません」
父上が眉を寄せる。
「街灯を例にすると分かりやすいです」
俺は、別の紙に簡単な流れを書いた。
「最初に石や材料を用意します。次に、職人へ賃金を払います。
その後、街灯を作って運びます」
「代金が入るのは、納品した後か」
「はい。金が入る前に、先に多くの金が出ていきます」
「そこへ、穀物や倉庫の支払いが重なる」
エリアスが言った。
「その通り」
一年間をまとめて見れば黒字でも、特定の時期だけ手元の現金が少なくなる。
「利益が出ていることと、今支払いに使える現金があることは別なんです」
父上は、しばらく紙を見つめていた。
「今のままでは、金がなくなるのか?」
「すぐになくなるわけではありません。
ただ、新しい大きな事業を同時に始めると危険です」
「私は一年間の収入と支出は比べておりました」
エリアスが、計算した紙へ目を落とす。
「しかし、金が入る時期と出ていく時期を、ここまで細かく並べたことはございませんでした」
「さすが、王立学院で一位になるだけはあるな」
父上が感心したように言った。
「王立学院では、このような計算まで教えているのでしょうか」
「数字を、入る順番と出る順番に並べただけですよ」
これは学院で学んだわけではない。
前世で会社を経営し、支払いの時期に何度も頭を悩ませたから分かることだ。
「その『だけ』が、我々には見えていなかったのだ」
父上は、もう一度紙を見た。
「現金が足りなくなった場合は、借りればよいのか?」
「借りること自体は、悪くありません」
「そうなのか?」
「借りた金で街灯を多く作り、返す金より多くの利益を得られるなら、領地の成長を早められます」
借金を避けるために、利益の出る仕事を諦める必要はない。
「ただし、何の収入で返すのか、いつ返すのかを先に決める必要があります」
「返せる見込みがなければ、借りるべきではないということだな」
「はい。それに、支払いが遅れると信用を失います」
商人が、材料を先払いでしか売らなくなる。
金を借りる条件も悪くなる。
職人たちも、賃金を払ってもらえないのではないかと不安になる。
「現金が少ないことより、ハル家は支払えないと思われる方が危険です」
「信用を失えば、今までどおりの取引ができなくなるのか」
「はい」
ローデン商会が融通を利かせてくれるのも、ハル家との取引を信頼しているからだ。
その信用は、守らなければならない。
「では、これから始めるものを選ばなければならないな」
父上が言った。
「すべて止める必要はありません」
穀物の購入。
倉庫の修繕。
排水の改善。
受注済みの街灯。
学校の運営。
領民の生活や安全に必要なものと、すでに収入が見込めるものは進める。
一方で、新しい道路や西の森の拡張工事は、支払いが集中しないよう時期を調整する。
紙作りも試験は続けるが、すぐに大きな工房を建てる必要はない。
「大きな街灯の注文は、一部を先に支払ってもらう方法も考えたいです」
「完成していないものの代金を受け取るのか?」
「すべてではありません。材料を用意するための分だけです」
「注文する側にも、費用を先に負担してもらうのですね」
エリアスが頷いた。
「ハル領だけが、すべて立て替える必要はありません」
三人で話し合い、今後は年間の収支だけでなく、数か月先までの入金と支払いも確認することになった。
通常の支払いを続けられるだけの現金は、必ず残す。
大きな投資をする時は、金が戻ってくる時期まで確認する。
金を借りる場合は、返済に使う収入を先に決める。
机の上には、二年前と現在の帳簿が並んでいた。
二年前のハル領には、使える金そのものがなかった。
今は、使いたい場所が多すぎる。
だが、豊かになったからといって、すべてを同時に始めてよいわけではない。
必要な時に支払える現金を残す。
信用を守りながら、次の成長へ進む。
それもまた、領地を守るために必要な仕事だった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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