第40話 ハル領に帰ってきた
ハル領へ戻ってきたのは、王都を発ってから五日目の昼過ぎだった。
馬車の窓から見える景色は、間違いなく見慣れたものなのに、少しだけ違って見えた。
道の脇に立つ荷車。
行き交う人の数。
畑の端で動く人影。
街道も整備されている。
以前のハル領より、明らかに人の動きが多い。
「……増えてるな」
思わず漏らすと、向かいのミアが外をのぞき込んだ。
「たしかに、前より賑やかですね」
「うん。ただ静かなだけの領地じゃなくなってる」
それはかなり大きい。
賑やかさそのものが豊かさだとは言わない。
でも、人と物が動いている土地は、それだけで前より“死んでいない”。
馬車が屋敷へ近づいていく。
門の前には、すでに人が集まっていた。
使用人たち。
何人かの家臣。
そして、一番前に立っていたのは父と母だった。
馬車が止まり、俺はすぐに外へ出た。
「父上、母上」
「おかえり、リオン」
母が先に言い、そのまま少し目を丸くした。
「あら……ちょっと待って。あなた、背が伸びたんじゃない?」
「え?」
「伸びたわよね?」
母は一歩近づいて、俺の肩のあたりを見比べるように眺めた。
「前に見送った時より、少し高くなってる気がするわ」
「そうかな」
「そうよ。顔つきも変わったけど、それより先に背の方に目がいったもの」
父が横で低く言う。
「王都で鍛えられたんだろう」
「それもあるかも」
そう答えてから、改めて父を見る。
「……父上」
「何だ」
「思ったより元気そうで安心した」
それは本音だった。
前よりいい。
目の下の重さが少し薄い。
立っている姿にも、以前のような弱々しさがあまりない。
父は小さく鼻を鳴らした。
「誰のおかげだと思ってる」
「半分くらいは、ちゃんと食べるようになったからじゃない?」
「半分か」
「かなり大きいと思う」
そう返すと、母が笑った。
「本当に前より食べるようになったのよ。前は少し口をつけて終わることも多かったのに」
「体が軽くなったのもある」
父は短く言った。
「領内の空気も、前より悪くない」
その言い方だけで、かなり伝わるものがあった。
両親はずっと俺の世話をしてくれたミアにもねぎらいの言葉をかけた。
「そ、そんなもったいなきお言葉!!!」と恐縮そうなミア。
屋敷の中へ入る。
廊下を歩くだけでも、前との違いはわかった。
使用人の足取りが軽い。
交わされる声に無駄な怯えがない。
張りつめた空気が全部消えたわけじゃないが、少なくとも前のような“沈んだ屋敷”ではなくなっていた。
◇
荷をほどき、久しぶりに家族で夕食を食べた後、俺は父の執務室へ呼ばれた。
母も同席している。
机の上には、俺が王都へ行く前より少し厚みの増した帳面が置かれていた。
「まずは報告だ」
「うん」
父が帳面を俺の前へずらす。
「お前がいない間、北村の青葉草は試験区画から一段広がった。まだ大規模ではないが、継続して出荷はできている」
帳面を開く。
たしかに量はまだ多くない。
でも、試しで終わらず、ちゃんと回り始めている数字だ。
「南村は?」
そう聞くと、母が別の頁を指した。
「倉の損耗は前よりかなり減ったわ。運搬も安定してきて、前よりいい値で売れるようになったそうよ」
「石切り場も、急ぎすぎずに回している」
父が続ける。
「青輝石は正式申請の段取りも進んだ。まだ完全ではないが、少なくとも前のような無秩序ではない」
読みながら、胸の奥にじわじわ熱が広がった。
止まっていない。
俺が王都にいた間も、流れはちゃんと続いていた。
「……よかった」
素直にそう言うと、父は少しだけ目を細めた。
「お前が作った流れだ。簡単に止めるわけにはいかん」
「でも、守ったのは父上たちだろ」
「守るくらいは、領主の仕事だ」
短い言葉だったが、それが前よりずっと頼もしく聞こえた。
母がそこで、少し表情を変えた。
「ただ、いいことばかりでもないの」
「何かあった?」
「問題、というより次の課題だ」
父が腕を組む。
「最近、ハル領へ移り住みたいと言ってくる人間が出始めた」
「移住?」
「うむ。商人、流れの職人、開拓地を探している家族持ち……数はまだ多くない。だが、ゼロではなくなった」
それは少し考えると不思議でもなかった。
青葉草の話。
南村の作物。
石切り場の整理。
外へ少しずつ噂が出始めれば、「前よりマシな土地らしい」と思う人間が出てきてもおかしくない。
「いいことではあるよね」
「短期的にはな」
父はそう言って、机の端に置かれた地図を広げた。
指が示したのは、領地の西側だった。
そこには広い緑の塊が描かれている。
「西の森……」
「そうだ」
父が頷く。
「この森は、長く誰も本格的に手をつけてこなかった。深い上に魔物も多い。近隣の領も、自分の土地にして開こうとはしていない」
母が静かに続ける。
「今までのハル領には、そんな場所をどうにかする余力なんてなかったのよ」
それもそうだ。
今までのハル領は、自分の領内を保つだけで精一杯だった。
森の調査。開拓。魔物への備え。そんなものまで手を伸ばせるはずがない。
でも、今は少し違う。
父は地図の西の森を指先で軽く叩いた。
「もし今後、本当に人が増え、流れが強くなるなら、いずれここを見ないわけにはいかん」
広い。
危険。
でも未開。
つまり、やれれば大きい。
俺はすぐに答えた。
「自分も賛成だ」
父の眉がわずかに上がる。
「即答だな」
「今の領地の中だけで詰めていくより、先を見て打った方がいいと思う。特に、今は“良くなってきたから人が来る”段階なんだよね」
「そうだ」
「なら、今のうちに受け皿を考えておくのは正しいと思う」
父は少しだけ満足そうに頷いた。
「私もそう考えている」
そこで母が言った。
「それでね、ちょうど最近、護衛や輸送の仕事が増えたでしょう?」
「うん」
「その流れで、この領にも冒険者ギルドが小さいながらできたのよ」
それは初耳だった。
「冒険者ギルドが?」
「正式な大支部ではない。だが、常駐の受付と、近隣を回る冒険者を束ねるだけの機能は整った」
父が補足する。
「輸送の護衛、石切り場周辺の見回り、簡単な魔物退治。今のハル領には、そういう“外の手”が必要になってきたからな」
なるほど。
それもまた、前へ進んだからこそ生まれた変化だ。
「だからまずは、そのギルドを通して西の森の調査を依頼しようと思っている」
「妥当だね」
「うむ」
そこまで聞いたところで、俺の中で一つ、かなりはっきりした考えが固まった。
「父上」
「何だ」
「自分も調査に参加したい」
執務室の空気が少しだけ止まる。
母が真っ先に反応した。
「リオン」
「危険だよね。それはわかってる」
「わかっていて言うの?」
「うん」
俺は地図の西の森を見たまま言った。
「でも、開拓するかどうかを決める最初の見極めは大事だと思う。」
父が腕を組んだまま聞いている。
「それに、王都で魔法も鍛えてきた。前みたいに何もできないまま行くわけじゃない」
「何もできないままではなかったでしょう」
母が呆れたように言う。
「前から危ないことをする時はしてたじゃない」
「それは……」
否定しづらい。
父が低く言った。
「リオン。森は村や石切り場とは違う。魔物も出る。見て終わりでは済まんぞ」
「うん」
「それでも行きたいか」
「行きたい」
少しも迷わず答えると、父はしばらく黙った。
その沈黙は短かったが、軽くはなかった。
やがて、父は小さく息を吐いた。
「条件がある」
「うん」
「単独では行かせん。必ず護衛をつける。ギルド側の人選も、こちらで確認する。無理に先頭へ出ない。勝手に動かない」
「守る」
「本当に守れるか?」
「今回は守る」
そう答えると、母がすかさず言った。
「“今回は”って何」
「いや、言い方が悪かった」
少し空気が緩む。
父はようやく頷いた。
「ならいい」
「えっ」
思ったより早く許可が出たので、逆に少し驚いた。
「ただし、まずはギルドと話を通してからだ。いきなり森へは入らん」
「わかった」
母もまだ完全には安心していない顔だったが、最後には小さく頷いた。
「ちゃんと護衛の人の言うことを聞くのよ」
「うん」
「危ないと思ったら、無理をしない」
「うん」
「約束よ」
「約束する」
そこまで言うと、母はようやく少しだけ表情を緩めた。
父が机の上の帳面を閉じる。
「なら、明日だな」
「明日?」
「冒険者ギルドへ行く。登録も必要だろう」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
王都から戻ったばかりだ。
でも、止まる気にはなれなかった。
「……うん」
「何だ」
「ちょっと、面白そうだなと思って」
そう言うと、父が口元だけで笑った。
「その顔を見ると、お前は本当に休む気がないんだな」
「休む時は休むよ」
「信用しづらいな」
「自分でも少しそう思う」
執務室を出たあと、廊下の窓から外を見る。
久しぶりの我が家による心の安らぎ。
そして、もう次の課題が見え高揚している気持ち。
移動の疲れがないと言えばうそになる。
でも、不思議と足取りは重くはなかった。
西の森。
冒険者ギルド。
調査と開拓。
また忙しくなる。
でもそれでいいと思えた。
さぁ、明日は冒険者ギルドだ。




