第39話 帰り道
王立学院の試験を終えた翌朝、俺はヴァレスト公爵家の馬車に乗って王都を発った。
見送りには、ユリウス公爵、クラリス夫人、セレナ、ルーク、それに使用人たちまで出てきてくれていた。
「気をつけて」
クラリス夫人が柔らかく言う。
「ありがとうございます」
ユリウスはいつも通り穏やかだった。
「ハル領での時間を大事にするといい。戻ったらまた話を聞かせてくれ」
「はい」
ルークは最後まで名残惜しそうな顔をしていた。
「今度来たら、もっとすごい魔法見せてよ」
「そっちも勉強しておいてね」
「それ、絶対言うと思った」
セレナは一歩前へ出て、まっすぐこっちを見た。
「次に会う時、私も今より伸びてるわ」
「こっちも負けないよ」
「ええ」
短いやり取りだったが、それで十分だった。
馬車がゆっくり動き出す。
王都の石畳が遠ざかり、公爵家の門が小さくなっていく。
試験は終わった。
でも、何かが終わったというより、ようやく一区切りついたという感じだった。
◇
ハル領までは馬車で五日かかる。
距離だけ聞けば長い。
でも今の俺には、むしろちょうどよかった。
時間がある。
王都での試験が終わったばかりで、気も少し張っている。
何もしないで揺られているより、手を動かしていた方が落ち着く。
だから移動中も、馬車の中でできる範囲の魔法操作を続けた。
大きな魔法は無理だ。
火をつければ危ないし、水を出せば馬車の中が大惨事になる。
だからやるのは、もっと地味なことだった。
指先の一点に魔力を集める。
散らさない。
無理に出力しない。
ただ、流す。
視界の端に、薄青い文字がちらつく。
《魔力流路:微改善》
《出力点:安定傾向》
《集束維持:向上》
いい。
派手じゃないが、悪くない。
ミアが向かいでそれを見ながら、小さく言った。
「王都を出てもやるんですね」
「こういうのは、間を空けると鈍るから」
「試験が終わったばかりなのに」
「終わったからこそ、かな」
王立学院に受かっているかどうかはまだわからない。
でも、もう王都で学んだことを忘れる気はなかった。
ミアは少しだけ笑って、膝の上の帳面を閉じた。
「リオン様って、止まるのが苦手ですよね」
「そうかも」
「でも、前よりは少しだけ、止まるのもうまくなった気がします」
それはたぶん、前より周りを信じられるようになったからだ。
ハル領には父と母がいる。
公爵家ではユリウスやグレインやセレナがいた。
全部を自分一人で抱えなくてもいいと思えるようになったのは、大きかった。
◇
夕方になる頃、馬車は王都の隣領にある宿場町へ入った。
大きな町ではない。
だが、街道沿いの要所らしく、旅人や商人の姿は多かった。馬車の音、荷車の軋み、夕方の呼び込みの声が重なって、ほどよく賑やかだ。
今回の宿は、公爵家の筆頭執事があらかじめ手配してくれていたらしい。
おかげで、宿を探して右往左往することも、最悪野宿になる心配もない。
「さすが公爵家……」
ミアが宿の前で小さく呟いた。
「こういうところも、ちゃんとしてるんだね」
「旅慣れているんでしょうね」
通された部屋は清潔で、食事もきちんとしていそうだった。
宿の主人も、公爵家の紹介と聞いて、やけに丁寧である。
荷を置いて一息ついた頃、階下の方が少しだけ騒がしくなった。
怒鳴り声ではない。
困った時の、忙しい音だ。
俺とミアが顔を見合わせる。
「何かあったのかな」
「少し見てきますか?」
「うん」
階段を下りると、宿の裏手にある厨房の前で、宿の主人と料理人らしき男が眉を寄せていた。
「どうしたんですか?」
そう声をかけると、主人が振り向く。
「ああ、お客様。いえ、大したことでは……」
大したことがない時の顔ではない。
厨房の中をのぞくと、竈の煙がどうにもおかしかった。
火のつきが悪いのか、煙がうまく抜けず、もわっと逆流している。
視界の端に文字が浮かぶ。
《排気:不全》
《火勢:不安定》
《風の流れ:滞留》
《夕食調理:遅延》
なるほど。
「煙、返ってますね」
「ええ……今日は風向きが悪いのか、火が妙に弱くて」
料理人が額の汗を拭く。
「肉を焼いても火が安定しないし、このままだと香りが全部おかしくなる」
その言い方に、少しだけ反応した。
香り。
なら、余計に火加減は大事だ。
「少しだけ見てもいいですか」
主人が戸惑った顔をしたが、公爵家の客に無碍にもできないのだろう。
「は、はあ……」
俺は竈の前へしゃがみ込み、空気の流れを見る。
煙の逃げ道が、ほんの少しだけ詰まっていた。外の風向きも悪い。火そのものより、まず流れを整えた方が早い。
「ミア、窓、少しだけ開けて」
「はい」
次に、俺はごく弱く風を送った。
強くはやらない。
灰が舞う。火が暴れる。
だから本当に少しだけ、煙の通り道を押し出すように。
竈の煙がふっと上へ抜ける。
「あっ」
料理人が声を上げた。
続けて、火の芯へ小さな熱を足す。
火球なんていらない。
こういう時は、火種を整えるだけでいい。
赤かった炭の一部が、じわりと明るさを取り戻した。
「おお……!」
料理人の顔が変わる。
「今だ」
そう言うと、男はすぐに肉を網へ戻した。
火はさっきよりも安定し、煙の匂いもだいぶましになっている。
主人が目を丸くした。
「火の扱いが、お上手なんですね」
「少しだけ」
少しだけどころじゃないことは、自分でもわかっていた。
でもここで長く説明する必要はない。
料理人が焼けた肉の香りを確かめ、驚いたように鼻を鳴らした。
「さっきまでと全然違う……」
そこで、ふと棚の上にある香草が目に入った。
どこか見覚えのある葉だった。
「それ、使ってるんですか?」
そう聞くと、料理人がそちらを見る。
「ああ、これか。最近入ってきたやつだ。名前は……なんだったかな」
主人が横から答える。
「青葉草、ですよ。ハル領の方から回ってきたって話で」
その言葉に、胸の奥が少しだけ動いた。
「ハル領から?」
「ええ。まだ数は多くないですがね。焼いた肉の臭みを取るって、街道の商人が勧めてきまして」
主人は楽しそうに続ける。
「実際、これがなかなか評判で。うちでも試しに使い始めたんですよ」
ミアが横で小さく息を呑んだ。
俺も思わず、棚の青葉草を見つめる。
北村で始めたものが、もうここまで来ているのか。
主人はさらに言った。
「それだけじゃありません。南村とかいうところの豆や芋も、このごろ前より質がいいって話で。ハル領、最近ちょっと面白いって、商人の間じゃ小さく話題ですよ」
面白い。
その言葉が、妙に嬉しかった。
大きな評判じゃない。
王都中が知っているわけでもない。
でも、たしかに外へ届き始めている。
俺が王都にいる間も、あの領地の流れはちゃんと止まっていなかったのだ。
料理人が、焼き上がった肉を小皿にのせて差し出してきた。
「お礼にもならないですが、味を見てください」
「いいんですか」
「もちろんです。あんたが助けてくれなきゃ、今日の夕飯はずいぶんひどいことになってました」
ありがたく一口もらう。
火の入り方はちょうどいい。
肉の臭みもかなり抑えられている。
青葉草の香りも、ちゃんと立っていた。
「おいしい」
そう言うと、料理人が嬉しそうに笑った。
「それなら良かった」
主人も深く頭を下げる。
「ありがとうございました」
「いえ、たまたまです」
そう返しながらも、心の中ではたぶん、かなり顔がゆるんでいたと思う。
◇
部屋へ戻る途中、ミアが少し興奮した声で言った。
「聞きましたか、今の」
「うん」
「青葉草も、南村の作物も、ちゃんと外へ出てるんですね」
「みたいだね」
「すごいです……」
その言葉に、俺は小さく笑った。
「いや。すごいのは、たぶんみんなだよ」
北村の村長。
南村の村長。
石切り場の若者たち。
父と母。
ハル領に残って流れを支えている人たち。
俺が王都にいる間も、ちゃんと前へ進めてくれていたのだ。
窓の外を見ると、宿場町の空はもう藍色に沈み始めていた。
明日もまた馬車は走る。
そして、その先にはハル領がある。
早く、自分の目で今の領地を見たい。
そんな気持ちを、前よりずっとはっきり自覚しながら、俺は眠りについた。




