第393話 鍬を持つ護衛と文官
新連載はじめました
「元日本最強の探索者、今はダンジョン救助員です」という物語です。
https://ncode.syosetu.com/n8731mn/1から読めますので、ぜひ読んでみて下さい。
翌朝、屋敷の前へ出ると、アーロンはすでに馬車のそばで待っていた。
昨日まで着ていた文官服ではなく、汚れてもよい丈夫な服を身につけている。
ただし、手には記録板を抱え、肩から下げた鞄には筆記具と紙を入れていた。
「おはようございます、リオン様」
「おはよう。ちゃんと汚れてもいい服で来たんだね」
「ご指示いただきましたので」
そう答えながらも、アーロンは自分の服を少し気にしているようだった。
おそらく、まだ本当に鍬を持つつもりではないのだろう。
「ピー!」
俺の足元でピコが弾む。
朝から水を浴びたばかりで、淡い水色の体がいつもより透き通って見えた。
そこへ、ノルが二人の騎士を連れてきた。
一人は三十代半ばほどの、落ち着いた雰囲気を持つ男だ。
もう一人は、アーロンと同じくらいの年齢に見える若い騎士だった。
「今回の護衛を担当するディルクとテオです」
「ディルクと申します」
「テオです。よろしくお願いいたします」
テオは緊張した様子で頭を下げた。
新しい鎧ではないが、手入れは行き届いている。
若い騎士にとって、領主の息子を直接護衛するのは大きな仕事なのだろう。
ノルが二人へ向き直った。
「ディルクが全体を見ろ。テオはリオン様の近くを離れるな」
「承知しました」
「はい」
「畑の中であろうと、護衛任務であることを忘れるな」
テオの表情が引き締まる。
俺とアーロンは馬車へ乗り、ピコを膝の上へ載せた。
ディルクとテオはそれぞれ馬に乗る。
ディルクが馬車の前方を進み、テオが後方から周囲を警戒する形で、俺たちは南部の村へ向かった。
◇
馬車が領都を離れてしばらくすると、アーロンが窓の外へ目を向けた。
後方では、テオが一定の距離を保ちながら馬を進めている。
「私と同じくらいの年齢でしょうか」
「たぶんね」
「若くても、リオン様の護衛を任されるのですね」
「ノルが選んだんだから、期待されているんだと思うよ」
アーロンは少しだけ考え込んだ。
「文官も騎士も、上の役目を目指すことに変わりはないのかもしれません」
「アーロンは、まだ出世したい?」
「もちろんです」
即答だった。
昨日、泥仕事もあると説明したばかりなのに、そこは変わっていないらしい。
「今日は農作業だからね」
「記録も行います」
「記録だけじゃないよ」
「……承知しております」
答えるまで、わずかに間があった。
膝の上のピコが、アーロンへ向かって体を伸ばす。
「ピー」
「ピコにも確認されているような気がします」
「昨日、鍬を持った経験ではアーロンより上だと言われたからね」
「今日は追いつきます」
何をもって追いつくのかは分からなかった。
◇
村へ着くと、以前、土について教えてくれた農民たちが待っていた。
試験に使う畑は、すでに同じ広さの四つの区画に分けられている。
木の杭を打ち、杭の間に紐を張っただけの簡単なものだが、区別は十分についた。
一つ目は、これまでどおりに耕す。
二つ目は、土を通常より深くほぐす。
三つ目は、寝かせた家畜の糞と藁を入れる。
四つ目は、土を深くほぐしたうえで、寝かせた糞と藁も入れる。
すべての準備が終わった後、同じ数の芋を、同じ間隔と深さで植える。
水を与える量も揃える。
収穫量だけでなく、作業に必要な人数や時間も比較する予定だった。
「では、始めましょう」
アーロンが記録板を構えた。
「作業を始めた時刻と、参加する人数を記録いたします」
「その前に、これを使ってみよう」
俺は農民から借りた鍬を、アーロンへ差し出した。
「私が、ですか?」
「昨日言ったよね」
「はい。しかし、まずは作業全体を記録してからでも……」
「実際に作業しないと、何を記録すればいいかも分からないと思う」
アーロンは記録板と鍬を交互に見た。
やがて記録板を畑の端へ置き、両手で鍬を受け取る。
「分かりました」
俺も一本借りた。
前世を含めても、本格的に畑を耕した経験はない。
最初に農民が見本を見せてくれた。
足を広げ、腰を落とす。
腕の力だけで鍬を振り下ろすのではなく、体重を使って土へ入れる。
土へ刃が入ったら、腰と足を使って手前へ返す。
説明を聞く限りでは、難しくないように思えた。
俺も同じように鍬を振る。
だが、刃は土の表面へ浅く入っただけだった。
「もう少し、刃を立ててください」
言われたとおりに角度を変える。
今度は深く入りすぎ、鍬が抜けなくなった。
「無理に腕で引き上げると、すぐに疲れてしまいます。
柄を少し倒して、土を崩すようにしてください」
「こう?」
「はい。その方がよろしいです」
何度か試すうちに、少しずつ土を返せるようになった。
隣では、アーロンが鍬を振っている。
しかし、刃が土の上を滑り、表面を削るだけだった。
「もっと力が必要なのでしょうか」
「力より、鍬を入れる角度です」
農民に姿勢を直され、アーロンはもう一度鍬を振った。
今度は土へ入ったが、持ち上げることができない。
「重い……」
「それほど大きく返さなくても大丈夫です。少しずつ進めてください」
アーロンは言われたとおり、小さな土の塊を返した。
それから何度か繰り返す。
まだ一列目の半分にも届いていないのに、額には汗が浮かんでいた。
「これを、村の方々は一日中続けるのでしょうか」
「畑仕事だけではありません」
農民が鍬を動かしながら答える。
「朝は家畜へ餌をやり、水路も見ます。
時期によっては、ほかの畑の草取りもしなければなりません」
アーロンは返事をせず、再び鍬を振った。
◇
テオは畑の端に立ち、俺たちの周囲を警戒していた。
剣の柄へ手を置き、村の道や畑の向こうへ視線を動かしている。
だが、時折、こちらの作業が気になるようだった。
俺とアーロンが鍬を振る横で、自分だけ立っていることが落ち着かないのかもしれない。
特に、アーロンが何度も手を止めるたび、テオは自分ならもっと速くできると言いたそうな顔をしていた。
しばらくすると、テオがディルクへ近づいた。
「ディルクさん」
「どうした」
「周囲の警戒をお願いし、私も作業を手伝ってよろしいでしょうか」
ディルクは畑の周辺を見回した。
近くにいるのは、村人と俺たちだけだ。
「俺が周囲を見る。だが、剣はすぐ手に取れる場所へ置け。リオン様からも離れすぎるな」
「はい」
テオは俺にも許可を求めた。
「リオン様。護衛を続けながら、作業をお手伝いしてもよろしいでしょうか」
「ディルクが警戒してくれるなら、お願いするよ」
テオは剣を畑の端に置き、鍬を受け取った。
力強く振り下ろす。
鍬は深く土へ入り、大きな土の塊が持ち上がった。
アーロンよりも明らかに速い。
「この程度でしたら、騎士団の訓練より――」
「力を入れすぎです」
農民がテオの言葉を遮った。
持ち上げた土が、区画を分ける紐の外まで飛んでいる。
「ですが、深く耕すのであれば、この方がよいのでは?」
「一度だけなら、それでもよいでしょう」
農民は一定の速さで鍬を動かしながら答えた。
「畑の端まで、同じ動きを続けられるのであればですが」
「続けられます」
テオは再び鍬を振った。
最初の数回は力強かった。
しかし、鍬を深く入れすぎるため、そのたびに抜くのにも力が必要になる。
しばらくすると呼吸が乱れ、振り上げる速さが落ちてきた。
一方、農民は派手な動きをしていない。
それでも一定の速さを保ち、テオより先へ進んでいく。
「畑仕事は、一度強く振れば終わるものではありません」
「……はい」
テオは素直に頭を下げ、農民の姿勢を真似し始めた。
俺もアーロンも、農民に教わりながら鍬を動かす。
説明を理解しても、すぐに体が動くわけではない。
アーロンは体力が足りず、何度も休む。
テオは体力があるが、力を使いすぎる。
俺も姿勢を崩すたび、農民から直されていた。
畑の上では、文官も騎士も、領主の息子も同じ初心者だった。
◇
「ピー!」
声に振り向くと、ピコが区画を分ける紐に絡まっていた。
「ピコ、そこは触ったら駄目だよ」
紐から外してやると、今度は、後で植えるために用意されていた芋へ近づく。
「それも食べたら駄目だからね」
「ピー……」
ピコは不満そうに体を縮めた。
そのまま柔らかくなった土の上へ飛び込み、淡い水色の体が泥に覆われる。
「また洗わないといけないね」
「ピー!」
本人は楽しそうだった。
土を掘り返していると、小石がいくつも出てきた。
農民は作業の邪魔にならないよう拾い、畑の端へ運んでいる。
テオも鍬を止めた時に小石を集め、一か所へ積み始めた。
それを見ていたピコが、小さな石へ近づく。
石は、淡い水色の体の中へ取り込まれた。
「ピコ、石は食べられないよ」
だが、ピコは石を取り込んだまま、テオが作った石の山まで跳ねていった。
そこで、体の外へ石を出す。
「ピー!」
「石を運んだのでしょうか」
テオが目を丸くした。
「テオの真似をしたのかもしれない」
俺は近くにある小石を指し、その後で石の山を示した。
「ピコ。これも、あそこへ運べる?」
「ピー!」
ピコは小石を取り込み、石の山へ運んだ。
大きな石は無理らしいが、小石なら一つずつ運べるようだ。
何度か繰り返すうちに、ピコは拾った石をテオの足元へ置くようになった。
「なぜ、私のところへ持ってくるのでしょうか」
「テオが石を集めていたからじゃないかな」
テオは困った顔をしながら、ピコが運んできた石を畑の外へ置いた。
「ピー!」
「まだあるのですか」
すぐに次の石を持ってきたピコに、テオが苦笑した。
◇
一つ目の区画を耕し終えると、次は土を深くほぐす二つ目の区画へ移った。
同じ広さだったが、作業は一気に重くなった。
深い部分の土は硬く、簡単には鍬が入らない。
刃が入っても、持ち上げる土の量が増える。
途中で鍬が石へ当たり、作業が止まった。
テオと農民が周囲の土を掘り、大きな石を取り出す。
それだけでも時間がかかった。
アーロンは休憩に入ると、すぐに記録板を手に取った。
「同じ人数で作業しているのに、こちらは倍近い時間がかかっています」
「土が硬いからね」
「これを南部のすべての畑で行わせた場合、耕作だけで大幅に時間を取られます」
「効果があったとしても、人手が足りない村では続けられないかもしれない」
アーロンは記録板を見つめた。
「収穫量が増える方法なら、すべての村で行わせればよいと思っていました」
昨日、実際にそう答えていた。
「でも、その方法を行うために必要な人手も考えないといけない」
「はい。収穫量が増える前に、耕す作業が終わらなくなる可能性があります」
アーロンは自分の手を見た。
鍬を持った部分が赤くなっている。
実際に作業したことで、これまで見えていなかった負担が分かり始めたようだった。
休憩しながら、アーロンはエルナが作った記録用紙を見直す。
「人数と作業時間だけでは、足りません」
「どうして?」
「農業に慣れた方一人と、私一人を、同じ一人として数えることはできないからです」
確かに、農民とアーロンでは、進んだ距離がまるで違う。
体力のあるテオも、最初は力の使い方が分からず、余計な時間を使っていた。
アーロンは記録用紙の端へ項目を加えた。
農作業経験の有無。
途中で休んだ回数。
石などが原因で作業を止めた時間。
使った農具。
「細かく書きすぎたら、農家の負担になるよ」
「はい。今日記録した内容をエルナさんへ伝え、必要なものだけに絞ってもらいます」
現場を知らずに作った記録では、足りないものにも、余計なものにも気づけない。
アーロンがここへ来た意味は、すでにあったように思えた。
◇
日が傾き始めた頃、ようやく二つ目の区画を深くほぐす作業が終わった。
今日のうちに進められたのは、四つある区画のうち二つだけだった。
三つ目と四つ目には、まだ寝かせた家畜の糞と藁を運ばなければならない。
四つ目は、それに加えて土を深くほぐす必要がある。
芋を植えられるのは、すべての準備が整った後だ。
アーロンが記録板を見つめている。
「どうしたの?」
「本日中に、四つの区画すべてへ芋を植える予定を立てておりました」
「半分も終わらなかったね」
「はい」
アーロンは、記録した時間を指で追った。
「深く土をほぐす作業に必要な時間を、短く見積もりすぎていました。
それに、石を取り除く時間も予定へ入れておりません」
「俺たちが不慣れだったことも影響しているね」
「それも記録する必要があります」
アーロンは新しい紙を取り出した。
「明日の予定を作り直します。
三つ目と四つ目に使うものを運ぶ時間と、土へ混ぜる時間も確認しなければなりません」
「今日はもう終わりにした方がいいよ」
「ですが、予定を直さなければ――」
「暗くなったら文字も見えにくいし、疲れたまま考えたら、また見落とすかもしれない」
アーロンは少し迷った後、記録板を閉じた。
「承知いたしました」
作業を見守っていた村長が、俺たちのそばへやって来た。
「リオン様。よろしければ、今夜は私の家へお泊まりください」
「いいのですか?」
「はい。明日も作業をなさるのでしょう。
今から領都へ戻り、また朝にこちらへ来られるより、少しでもお休みいただいた方がよろしいかと」
確かに、往復するだけでも時間がかかる。
馬や御者にも負担をかけることになる。
俺はディルクへ視線を向けた。
「護衛は大丈夫?」
「村長宅と周辺を確認いたします。テオと交代で警戒すれば問題ありません」
「それなら、お願いします」
村長が深く頭を下げた。
「大したおもてなしはできませんが、部屋と食事はご用意いたします」
「普段どおりの食事で十分です。
急に泊まることになったので、無理はしないでください」
「承知いたしました」
◇
村長宅へ向かう前に、井戸のそばで手足の泥を落とすことになった。
一番喜んでいるのはピコだった。
水を入れた桶へ飛び込み、勢いよく体を震わせる。
「ピー!」
水が周囲へ飛び散った。
「ピコ、少し静かに――」
「ピー!」
さらに大きく水が跳ねる。
俺だけでなく、アーロンとテオの服にも水がかかった。
アーロンが濡れた袖を見下ろす。
「文官になって、リオン様と並んで水をかけられるとは思いませんでした」
テオも顔についた水を拭った。
「私は護衛として来たはずなのですが」
「二人とも、今日は鍬を持つ日だったんだよ」
「ピー!」
ピコがもう一度水を飛ばした。
◇
夕食を終えた後、俺に用意された部屋をアーロンが訪ねてきた。
その手には、昼間使っていた記録板と数枚の紙がある。
「もう予定を作り直したの?」
「明日の朝、すぐ作業を始めるためには必要です」
アーロンは紙を床へ広げた。
寝かせた家畜の糞と藁を置いている場所から、試験畑までの距離。
荷車へ積む時間。
畑まで運ぶ時間。
三つ目と四つ目の区画へ同じ量を下ろす時間。
土へ混ぜる作業。
四つ目の区画を深くほぐす時間。
そして、四つの区画へ芋を植える時間。
昨日までのアーロンなら、それぞれに短い時間を書き込み、一日で終わる予定を立てていたかもしれない。
だが、今夜の予定には、作業が遅れる可能性まで書き加えられていた。
「荷車が何台使えるかは確認した?」
「村には二台あると聞いております」
「二台とも、明日使えるのかな」
アーロンの手が止まった。
「……確認しておりません」
「村の人たちにも、普段の仕事があるからね」
「明日の朝、最初に確認いたします」
アーロンは紙の一番上へ、荷車の使用予定を確認すると書き加えた。
「今日、予定どおりに進まなかったことは失敗だったと思う?」
俺が尋ねると、アーロンは少し考えた。
「予定を誤ったことは失敗です。しかし、遅れた理由を記録できたことは、無駄ではなかったと思います」
「俺もそう思うよ」
記録は、終わった仕事を残すためだけのものではない。
次に、もっと現実に近い予定を立てるためにも使える。
アーロンが紙をまとめて立ち上がる。
「明日は、今日より正確に進めます」
「予定どおりに進めることだけを優先しないでね」
「はい。現場を見ながら直します」
アーロンが部屋を出た後、寝床の横に置かれた籠からピコが体を伸ばした。
「ピー」
「明日も働くから、もう寝よう」
「ピー」
俺が手を差し出すと、ピコは指先へ触れ、藁の上へ体を沈めた。
四つの区画のうち、終わったのはまだ二つだけだった。
畑仕事は、紙の上で立てた予定どおりには進まない。
だが、現場で分かったことを次の予定へ生かせば、少しずつ現実に近づけることはできる。
泥だらけになった一日で始まったのは、土壌試験だけではない。
農業を何も知らなかった文官が、初めて畑の上から予定を作り直したのだ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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