第389話 消えた収穫
三つ目の村へ向かう馬車の中で、ピコは俺の膝の上に丸くなっていた。
淡い水色の体が、馬車の揺れに合わせて小さく震えている。
「ピー」
エリアスが広げた紙へ体を伸ばしたので、俺はそっと押し戻した。
「それは食べ物じゃないよ」
「次に訪れる村は、農地の広さに比べ、領へ報告される穀物の量が少なくなっております」
エリアスは、ピコから紙を遠ざけながら続けた。
「不作が続いているの?」
「村からの報告では、例年どおりです。
ただし、この村でも領都や西の森へ移る者が増えているという話は聞いています」
「前の村だけじゃないんだね」
「はい。南部全体で見ても、若い世帯を中心に少しずつ減っております」
領都では工房や商店が増え、西の森では宿や飲食店、建設の仕事が増えている。
以前より高い賃金を得られる場所が同じ領内に生まれれば、人が移るのは当然だった。
だが、南部はハル領の穀物の大半を作っている。
人が減り続ければ、今ある畑を維持することすら難しくなるかもしれない。
「ピー」
考え込んでいると、ピコが俺の手へ体を寄せた。
「大丈夫だよ。ピコのことを考えていたわけじゃないから」
「リオン様。ピコには伝わっていないと思われます」
「でも、返事はしてくれるよ」
「ピー!」
三つめの村へ着くと、村長と数人の農民が出迎えてくれた。
俺たちは挨拶を済ませ、まず畑を見せてもらう。
作物の背丈には多少の違いがあったが、村全体が不作とは思えない。
俺は近くの畑へ《綻びの目》を向けた。
≪土壌状態:標準≫
≪生育状況:おおむね良好≫
≪重大な異常:なし≫
別の畑も確認したが、大きな違いはなかった。
「記録ほど収穫量が少ない畑には見えません」
俺が言うと、村長は困った顔で頷いた。
「私どもも、周囲の村とそこまで違うとは思っておりません。
豊作ではございませんが、毎年それなりには採れております」
「領へ報告している収穫量は、いつ量ったものですか?」
「共同倉庫へ納めた袋の数でございます」
「畑で刈り取った時ではないんですね」
「はい。乾かした後、各家で食べる分と翌年の種を取り分け、残りを袋へ詰めます」
つまり、領へ届いている数字は、畑で実際に採れた量ではない。
刈り取り、乾燥、選別、袋詰めを終え、共同倉庫へ運ばれた量だけだった。
「刈り取った後、倉庫へ入れるまでに減った量は分かりますか?」
村長は首を横に振った。
「量ったことはございません」
俺たちは、収穫後の作業を行う場所へ案内してもらった。
農家の家の前や畑の端には、穀物を広げるための場所がある。
「収穫の時期には、ここへ広げて乾かします」
近くにいた中年の農民が説明した。
「以前は、若い者が何人も手伝っていたのですが……」
「領都や西の森へ移ったのですか?」
「はい。畑を継いだ者もおりますが、兄弟全員が残る家はほとんどなくなりました」
農民は、空いている場所へ目を向けた。
「人がいた頃は、雨が来そうになれば皆で屋根の下へ運べました。
今は畑から刈り取るだけで手いっぱいです。
運ぶのが間に合わず、濡らしてしまうこともあります」
「十分に乾く前に袋へ入れることも?」
「ございます。次の穀物を広げる場所を空けなければなりませんので」
刈り取った後にも仕事は続く。
乾かし、何度も裏返し、傷んだものを取り除き、袋へ詰め、倉庫まで運ぶ。
人が減った影響は、畑を耕す作業だけに出るわけではなかった。
「鳥や鼠を見張る者も減りました」
別の農民が言った。
「少し食べられるくらいは、昔からございました。
ただ、今は気づいた者が追い払うだけです」
一度に失う量はわずかでも、村中の穀物で同じことが起きれば、無視できない量になる。
続いて、共同倉庫へ向かった。
石の土台に木材を組んだ古い建物だったが、外から見ただけでは大きな破損はない。
「収穫前には、倉庫を確認していますか?」
「以前は若い者たちが床や屋根を見ておりました」
村長の表情が曇った。
「今は雨漏りなど、目についたところを直すだけでございます」
倉庫の中には、穀物袋が何段にも積まれていた。
戸口に近い場所は乾いている。だが、奥へ進むと、わずかに湿った臭いがした。
床板の一部も、踏むたびに小さく軋む。
俺は倉庫全体へ意識を集中させた。
≪建物状態:要修繕≫
≪床下環境:湿気滞留≫
≪害獣侵入:あり≫
≪保管損失:進行中≫
「床下に湿気がこもっています。それに、鼠も入っているようです」
「鼠は見つけるたびに追い払っておりますが……」
「床下へ入り込んでいるのかもしれません」
ただ、《綻びの目》で分かるのは、倉庫のどこかに問題があるということまでだった。
床板の隙間は細く、人の手も入らない。
すべての板を外して調べるには時間がかかる。
「ピー」
腕の中にいたピコが、急に体を伸ばした。
「どうしたの?」
ピコは倉庫の奥へ向かって何度も体を揺らしている。
床へ下ろすと、迷うことなく一角へ進んだ。
そこには、ほかより少し広い床板の隙間がある。
「この下が気になるの?」
「ピー!」
ピコは体を細く伸ばし、隙間へ入り込もうとした。
「ピコ、待って」
止めるより早く、淡い水色の体が床下へ滑り込んだ。
「リオン様、呼び戻してください」
ノルがすぐに床へ膝をついた。
「ピコ!」
返事はない。
俺が床へ耳を近づけると、かすかに何かが動く音がした。
「ピー! ピー!」
少し離れた床の下から、大きな声が響いた。
「向こうです」
声のした場所まで移動し、村の男たちに床板を外してもらう。
板が持ち上がると、湿った臭いが一気に強くなった。
床下には、袋からこぼれた穀物が広い範囲に積もっていた。
黒く傷んだものや、芽が出かけたものもある。
隅には鼠の巣があり、壁際の土台には外へ続く小さな穴まで開いていた。
「これほど落ちていたとは……」
村長が息を呑む。
「袋を運ぶたびに、床の隙間へ少しずつ落ちたのでしょう」
エリアスが床下を見ながら言った。
「一度では大した量ではなくても、何年も続けばこれだけ積もるということですか」
「それに、乾燥しきっていない穀物を入れたことで、湿気が増えたのかもしれない」
その時、床下から淡い水色の体が現れた。
「ピー」
ピコには、黒くなった穀物と藁、それに鼠の毛がついている。
「ピコ。せっかく洗ったばかりなのに」
「ピー!」
褒められたと思ったのか、大きく弾んだ。
「役には立ったけど、汚れすぎだよ」
俺が抱き上げると、ピコは満足そうに丸くなった。
「倉庫の管理を担当する人は、今はいないのですか?」
村長へ尋ねる。
「決まった者はおりません。
以前は若い者が交代で見ておりましたが、多くが村を離れました。
今は私どもが空いた時に確認しております」
人が減ったことで、倉庫の点検まで後回しになっていた。
「まず、鼠が入る穴と床の隙間を塞いでください。傷んだ板も交換しましょう」
「承知いたしました」
「穀物の袋は、床や壁へ直接触れないように置いた方がいいと思います。
床下の湿気を逃がす方法も考えます」
俺はエリアスを見る。
「次の収穫では、刈り取った時、乾燥した後、倉庫へ入れた時、それぞれのおおよその量を残したい」
「どの段階で減っているかを確かめるのですね」
「うん。南部全体で、どの時期にどんな人手が足りないのかも調べよう」
村へ残るよう命じることはできない。
だからこそ、収穫期だけ人を集める方法や、近隣の村同士で作業を助け合う仕組みを考えなければならない。
倉庫を出ると、村長が水桶を用意してくれた。
ピコを入れ、水をかける。
「ピー!」
ピコはうれしそうに体を大きく広げた。
「今日は役に立ったね」
「ピー!」
「でも、勝手に床下へ入るのは次から禁止だよ」
「ピー……」
今度の声は、明らかに不満そうだった。
畑で作る量を増やすだけでは足りない。
刈り取った後に失う量を減らし、作った穀物を必要な場所まで届ける。
そのためにも、人手が足りないという南部共通の問題から目を背けることはできなかった。
三つの村を見たことで、南部の農業を支えるために必要な仕組みが、少しずつ見え始めていた。
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