第388話 ついてくるスライム
試験農地を確保した後、俺たちは先ほどの年配の農民に案内され、村の堆肥置き場へ向かった。
試験で使う予定の、家畜の糞と藁を寝かせたものを確認するためだ。
村の端にある柵を抜けると、藁や枯れ草を積み上げた山がいくつも並んでいた。
近づくにつれ、独特の臭いが強くなる。
「こちらは、まだ積んだばかりでございます」
農民が、一番手前の山を指した。
藁の形がはっきりと残っており、ところどころから家畜の糞が見えている。
「これを、そのまま畑へ入れるわけではないんですよね?」
「はい。すぐに使うと、作物の育ちが悪くなることがあります」
「どうしてですか?」
「理由までは分かりません。ただ、十分に寝かせてから使えと教わっております」
農民は奥にある別の山へ移動した。
こちらは先ほどのものより黒く、藁の形もほとんど残っていない。
「畑へ入れるのは、こちらでございます」
俺も近くまで寄り、状態を見比べる。
臭いは残っているが、最初の山ほど強くない。
農民が手に取ると、細かく崩れた。
「これなら使えるのですか?」
「はい」
「どれくらい寝かせたものですか?」
「半年ほどでございます。ただ、暑い時期と寒い時期では変わります」
「日数だけでは決められないんだね」
「臭いや、藁の崩れ方を見ております」
エリアスが紙へ記録していく。
「試験に使用する場合、どの山から運んだかも残す必要がございますね」
「量も揃えたい」
「使用量、寝かせた期間、運んだ人数も追加いたします」
「よろしく」
エリアスがわずかに手を止めた。
「また、記録する項目が増えました」
「必要だから仕方ないよ」
「昨夜は、簡単な記録にするとおっしゃっていたような気がいたします」
「農家に頼む記録は簡単にするよ。これは試験だから」
「その言葉を覚えておきます」
あとで何か言われそうだった。
農民が、堆肥の山を崩さないように端から取る方法を説明していると、小さな音が聞こえた。
「ピー」
「今、何か聞こえなかった?」
俺が尋ねると、エリアスも周囲を見回した。
「鳥でしょうか」
「この辺りにはおりませんが……」
農民が堆肥の裏側へ回る。
次の瞬間、声を上げた。
「また入り込んでいる!」
「ピー!」
堆肥の山の陰から、丸いものが跳ね出した。
手のひらより少し大きい。
淡い水色の体は半透明で、中に取り込んだ枯れ草がうっすらと見えている。
「スライムか」
ノルが俺の前へ出た。
農民は近くに置いてあった鍬を持ち上げる。
「このところ、何度も堆肥を荒らされているんです」
鍬の柄で地面を叩くと、スライムの体が小さく縮んだ。
「待ってください」
俺は農民を止めた。
「ですが、放っておけば居つきます。堆肥を崩しますし、牛も驚きます」
「少し確認させてください」
俺は淡い水色のスライムへ意識を集中させた。
≪種族:スライム≫
≪成長段階:幼体≫
≪敵意:なし≫
≪空腹状態:強≫
誰かを襲うために入り込んだわけではない。
空腹で、堆肥に混じった枯れ草を食べているだけのようだ。
「このスライムには、敵意がありません」
「スライムに敵意がなくても、数が増えれば困ります」
「堆肥からは離します。でも、叩く必要はありません」
俺がゆっくり近づくと、スライムは後ろへ跳ねた。
「ピー……」
「大丈夫だよ」
言葉が通じるかは分からない。
それでも声をかけながら、さらに一歩近づく。
農民が鍬を動かすと、スライムは慌ててこちらへ跳ね、俺の靴の後ろへ隠れた。
「そこに隠れるの?」
「ピー」
靴の陰から、淡い水色の体が半分だけ出ている。
ノルが警戒しながら近づくと、さらに俺の足へ体を寄せた。
「リオン様を盾にしておりますね」
「俺の近くなら叩かれないと分かったのかな」
「一度のやり取りで、そこまで判断できるのでしょうか」
「スライムに聞いてみないと分からないね」
「ピー」
返事をするように鳴いた。
俺は膝をつき、スライムを近くで見る。
淡い水色の体には、細かな藁や土がいくつもついている。
堆肥の山に潜り込んでいたのだから当然だった。
「ここから離したいけど、このまま抱えるのは少し困るな」
「水をお持ちいたしましょうか?」
年配の農民が尋ねた。
「お願いします」
農民が、水を入れた浅い木桶とひしゃくを持ってきた。
俺は木桶をスライムの前へ置く。
「この中に入れる?」
「ピー?」
スライムは木桶の縁まで近づいたが、その場で体を揺らすだけだった。
俺がひしゃくで水を少しすくい、桶の中へ戻す。
水音がすると、スライムの体が伸びた。
「水は嫌いじゃないみたいだね」
もう一度水を落とすと、スライムは木桶の縁を越え、中へ飛び込んだ。
「ピー!」
水が周囲へ跳ねる。
嫌がるどころか、うれしそうに体を大きく広げていた。
「水が好きなの?」
「ピー!」
俺はひしゃくで少しずつ水をかけた。
体についていた藁や土が、水と一緒に流れ落ちていく。
農民が桶の水を一度捨て、新しい水を入れてくれた。
スライムは逃げることなく、木桶の中で体を揺らしている。
「ずいぶん気持ちよさそうですね」
エリアスが少し離れた場所から言った。
「エリアスも触ってみる?」
「遠慮いたします」
返事が早かった。
汚れが落ちると、半透明の体が先ほどより明るく見えた。
水の中で揺れる姿は、淡い水色の宝石のようでもある。
「もう大丈夫かな」
俺が両手を差し出すと、スライムは木桶から跳ね、手の上へ乗ってきた。
冷たい水の塊のような感触を想像していたが、思ったより温かい。
柔らかく、持ち上げると手の形に合わせて体が沈んだ。
「ピー」
「きれいになったね」
スライムは、満足そうに小さく弾んだ。
俺はそのまま抱え、堆肥置き場から離れた草地まで運んだ。
近くには低い草や落ち葉があり、少し先には林もある。
「ここなら食べるものもあると思う」
「ピー」
「堆肥のところへ戻ったら、また追い払われるよ。
それに、せっかくきれいにしたのに、また汚れるからね」
スライムは俺の手から草の上へ下りた。
淡い水色の体を揺らし、足元の枯れ葉を取り込む。
「じゃあね」
「ピー」
俺たちは堆肥置き場へ戻った。
どの山から試験用の堆肥を運ぶかを決め、必要な量を農民と確認する。
「四つの区画のうち、二つに使います」
「同じ量を入れるのでございますね」
「はい。できる限り条件を揃えたいんです」
「では、こちらの山から運びましょう。状態も揃っております」
「お願いします」
エリアスが運搬に必要な人数を農民から聞いていると、再び小さな鳴き声がした。
「ピー」
足元を見る。
先ほど草地へ置いてきたスライムが、俺のすぐ後ろにいた。
「戻ってきたの?」
「ピー!」
さっきより元気な声で鳴き、体を一度弾ませる。
「草地に置いてきたはずですが」
エリアスが言った。
「ついてきたみたいだね」
「堆肥へ戻ってきただけではありませんか?」
「せっかく水で洗ったのに、また堆肥へ入ったら汚れるよ」
「ピー」
俺が数歩離れる。
スライムも小さく跳ねながらついてきた。
俺が止まると、スライムも止まる。
反対側へ歩くと、また後ろを追いかけてくる。
「俺についてきているみたいだよ」
「そのようですね」
農民は困った顔で堆肥の山を見た。
「ここへ置いておけば、また入り込みます」
「もう少し遠くまで連れていこう」
「私が運びます」
ノルが木桶を借り、スライムを入れようとした。
「ピー!」
しかし、スライムは桶から飛び出すと、俺の後ろへ隠れた。
「嫌われたみたいだね」
「安全を優先しているだけでしょう」
ノルは表情を変えなかった。
今度は俺が抱き上げ、先ほどより遠い村外れまで運んだ。
林の近くで下ろし、俺たちは試験農地へ戻る。
土地の広さと区画の位置をもう一度確認した後、馬車へ向かって歩き始めた。
しばらくして、ノルが後ろを振り返った。
「リオン様」
「どうしたの?」
「また、ついてきております」
道の向こうから、淡い水色の小さな体が懸命に跳ねていた。
「ピー! ピー!」
俺たちとの距離が縮まると、鳴き声も大きくなる。
「二度も置いてきたのに」
「このままでは、馬車までついてくるでしょう」
エリアスが言った。
「馬車の車輪に近づいたら危ないな」
俺がしゃがむと、スライムは勢いよく跳ね、両手の中へ収まった。
「ピー」
先ほどまで必死に追いかけていたとは思えないほど、満足そうに体を丸くしている。
「リオン様」
ノルが、少し厳しい声を出した。
「敵意がないとしても、魔物です。成長した後も安全とは限りません」
「分かっているよ」
「領都へ連れ帰るおつもりですか?」
エリアスにも尋ねられた。
「まだ、そこまでは決めていない」
「すでに抱き上げておられますが」
「踏まれたら危ないからだよ」
「ピー」
スライムは俺の腕へ体を寄せた。
俺はもう一度、《綻びの目》で確認した。
≪敵意:なし≫
≪警戒対象:周囲の人間≫
≪安心対象:リオン・ハル≫
「俺の近くを、安全だと思っているみたいだ」
「置いていかれたにもかかわらずですか?」
「置いていったというより、安全な場所へ移したんだけど」
「スライムが同じように考えているかは分かりません」
エリアスの言うとおりだった。
それでも、この小さなスライムに俺から離れる気はなさそうだ。
「いつまでも、スライムと呼ぶのも不便だね」
「連れていくことを、すでに決めておられませんか?」
「名前があった方が呼びやすいだけだよ」
「ピー」
鳴き声は、いつも同じだった。
「ピーと鳴くから……ピコはどう?」
一瞬、スライムの動きが止まった。
「ピコ」
「ピー!」
腕の中で大きく弾む。
「気に入ったみたいだね」
「偶然ではございませんか?」
エリアスが冷静に言った。
「ピコ」
「ピー!」
もう一度名前を呼ぶと、淡い水色の体を伸ばして俺の手へ触れた。
「分かっていると思う」
「その可能性は否定できません」
ようやくエリアスも認めた。
「領都へ戻るまで、一緒に来る?」
「ピー!」
言葉を理解しているかは分からない。
それでもピコは、返事をするように体を弾ませた。
「同行させるのであれば、馬車の中ではリオン様のそばから離さないでください」
ノルが言った。
「人や家畜へ近づける時も、しばらく様子を見ます。
異変があれば、すぐに離していただきます」
「分かった」
「食べるものについても確認が必要です」
エリアスが紙を取り出す。
「何を書くの?」
「南部視察の同行者が一匹増えたことを記録いたします」
「それも記録するんだ」
「領都へ戻った際、旦那様へ説明する必要がございますので」
農業専門の文官。
試験農地。
土壌を改善するための区画。
そのうえ、魔物を一匹連れて帰ったことまで、父上へ報告しなければならないらしい。
「ピー」
俺の腕の中で、ピコがのんきに鳴いた。
こうして南部の視察には、予定になかった小さな仲間が加わった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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