第384話 作る道と買う道
数日後。
朝食を終えたところで、父上から執務室へ来るように言われた。
扉を叩いて中へ入ると、すでにエリアスが父上の前に座っていた。
机の上には、何枚もの報告書が広げられている。
「来たか」
「はい。食料価格の調査についてですか?」
「ああ。まだすべてが終わったわけではないそうだが、記録から分かる範囲はまとまったらしい」
父上に勧められ、俺はエリアスの隣へ座った。
「お待たせいたしました」
エリアスが一枚目の報告書を手に取る。
「まず、市場で扱われている品物の価格についてです。過去二年の記録と、現在の価格を比較いたしました」
「どうだった?」
「やはり、食品の上昇が目立ちます」
エリアスが、品目ごとに整理された表をこちらへ向ける。
「小麦とパンは、昨年の同じ時期よりも高くなっております。肉と豆も上昇しております。野菜については種類によって差がございますが、全体としては昨年より高めです」
「食品以外は?」
「薪と荷運びの料金は、少し上がっております」
領都と西の森で建築が続いているため、木材だけでなく薪の需要も増えている。
荷物の量が増えたことで、荷運びをする者も以前より忙しくなっていた。
「衣服と生活道具については、大きな変化はございません。家賃は、市場の周辺と新しい住宅区画の一部で上がっておりますが、領都全体ではまだ小さな変化です」
「つまり、すべての物が同じように上がっているわけではないのだな」
父上が確認する。
「はい。領都全体で急激に物価が上がっているというより、食品の上昇が大きいと考えられます」
「薪や荷運びの値上がりも、食品の価格に影響している?」
俺が尋ねると、エリアスは頷いた。
「その可能性はございます。パンを焼くには薪が必要です。農村から市場まで運ぶ費用も、以前より高くなっております」
「でも、それだけが原因ではない」
「はい」
食料そのものの仕入れ価格も上がっている。
そこへ薪や輸送の費用が加わり、店頭での値段がさらに高くなっているようだった。
「賃金はどうだった?」
「職種によって、かなり差がございます」
エリアスは別の報告書を広げた。
「大工、石工、建築現場の人夫、荷運びをする者の日当は上がっております。工房でも、経験のある職人は以前より高い賃金で雇われるようになっています」
「人手が足りないからか?」
父上が尋ねる。
「はい。領都と西の森の両方で仕事が増えておりますので、条件を上げなければ人を集められないようです」
仕事が増え、働く者がより条件のよい職場を選べるようになった。
それ自体は、悪い変化ではない。
「一方で、店の従業員、宿の下働き、工房の見習いなどは、賃金がほとんど変わっておりません」
「全員の収入が上がったわけではないんだね」
「はい。領で以前から雇っている仕事の中にも、日当が変わっていないものがございます」
父上が報告書へ目を落とす。
「領の仕事については、こちらで決めているのだな」
「はい」
「今すぐ上げるべきだと思うか?」
父上が俺へ尋ねる。
「まだ決められません」
「なぜだ?」
「食品の値上がりだけを理由に、すべての日当を上げれば、領の事業費も一緒に増えます。それが必要な仕事もあると思いますが、まずはどの仕事で人が集まらなくなっているかも確認したいです」
人が十分に集まっている仕事まで、一律に賃金を変える必要があるとは限らない。
反対に、人手不足なのに昔の条件を続けている仕事があれば、見直す必要がある。
「一律ではなく、仕事ごとに見るということか」
「はい」
父上が頷く。
「値上がりで苦しくなっている者については?」
俺が尋ねると、エリアスは少し表情を引き締めた。
「診療所と夜間学校へ確認いたしました。今のところ、食べ物を買えないという相談が急増しているわけではございません」
「それなら、まだ深刻ではない?」
「はい。ただし、食費の負担が増えたという話は出ております」
肉を買う回数を減らした家庭。
以前より安い野菜や豆を選ぶようになった家庭。
パンを買う量を少し減らした家庭。
特に、幼い子どもの多い家庭や、怪我や病気によって働けない者がいる家庭では、負担を感じ始めているという。
「まだ食べ物が足りないわけではない」
父上が言う。
「だが、以前と同じ暮らしを続けられなくなった者はいるということだな」
「はい」
市場がにぎわっているからといって、すべての家庭に余裕があるとは限らない。
仕事が増え、収入も増えた者がいる。
その一方で、収入がほとんど変わらない者もいる。
同じ領都で暮らしていても、発展による影響は同じではなかった。
「領の備蓄を出す必要はあるか?」
父上が尋ねる。
「現時点では、その必要はないと考えております」
エリアスが答える。
「市場には十分な食料があり、買い占めも確認されておりません」
「俺も、まだ出さない方がいいと思います」
領の備蓄を安く市場へ出せば、一時的に価格を下げることはできるかもしれない。
だが、今は農家が以前より高く売れるようになっている。
そこで領が安い穀物を大量に出せば、農家や商人の利益を奪うことになる。
「本当に食料が不足した時や、急激に値段が上がった時のために残しておくべきです」
「分かった」
父上がエリアスへ目を向ける。
「領都へ入ってくる食料の量は減っているのか?」
「いいえ。むしろ増えております」
「増えている?」
父上が眉を寄せた。
「南部から運ばれる穀物も、他領から入る食料も、過去二年より増えております」
「それでも値段が上がるのか」
「入ってくる量以上に、必要とする者が増えているためだと考えられます」
領都の人口は増えている。
西の森にも、移住者や働く者が集まっている。
宿や食堂の数も増えた。
領都を訪れる商人や旅人も多くなっている。
「以前より住民の収入が増え、買う量そのものが増えた可能性もございます」
エリアスが続ける。
「前は買えなかった者が、肉や市場の料理を買うようになったということか」
「はい」
父上の言葉に、俺も頷いた。
「それは悪いことではありません」
仕事を得て、以前よりよい物を食べられるようになった。
それは、領地を立て直してきた成果の一つだ。
「問題は、その増えた需要に、これからも供給が追いつくかです」
「そちらについても、見通しを出してあります」
エリアスが新しい紙を広げた。
領都の人口。
西の森で暮らす者の数。
市場へ入ってくる食料の量。
すべて、過去の記録と現在の数字が並べられている。
「現在と同じ程度の速さで人口が増えた場合、食料の入荷量も今までと同じ割合で増えれば、すぐに不足することはありません」
「余裕はあるのか?」
「多くはございません」
父上の問いに、エリアスが答える。
「次の収穫が見込みどおりであれば問題ありません。ただ、その後も人口増加が続けば、価格はさらに上がる可能性がございます」
「凶作が重なれば?」
「不足する可能性が高くなります」
今は足りている。
だが、それは次の収穫が予定どおりで、他領からも今までどおり食料が入ってくることを前提にしている。
どこか一つが崩れれば、余裕はすぐになくなる。
「まだ食料は足りている」
父上が腕を組む。
「今から動く必要があるのか?」
「あると思います」
俺は答えた。
「農作物は、足りなくなった翌日に増やせません」
土地を耕す。
種をまく。
育てる。
収穫する。
それを領都まで運ぶ。
どれにも時間がかかる。
「食料が足りないと分かってから増産を決めても、収穫できるのはその後です」
「不足する前に、準備を始めるということか」
「はい」
エリアスが、南部の地図を机の上へ広げた。
「ハル領南部についても、記録を確認いたしました」
ハル領の南部には、穀物の生産が盛んな地域がある。
領都や西の森で消費される小麦や豆の多くは、そこから運ばれていた。
「作付面積と収穫量は、どちらも少しずつ増えております」
「まだ増産できる余地はある?」
「記録上では、使われていない土地が残っております」
「ならば、そこを耕せばよいのではないか?」
父上が言う。
エリアスは、すぐには頷かなかった。
「ただ、なぜ使われていないのかまでは、報告書から判断できません」
「どういうことだ?」
「農家が使う必要がないため耕していないのか、それとも、何らかの理由で耕せないのかが分からないのです」
働き手が足りない。
牛馬や農具が不足している。
水を引けない。
土地が痩せている。
村から倉庫までの道が悪い。
作っても領都まで運べない。
同じ使われていない土地でも、理由によって必要な対策は変わる。
「村ごとの収穫量にも差がございます」
エリアスが地図の上に、いくつかの紙を置いた。
「同じ程度の広さを耕していても、収穫量が多い村と、あまり伸びていない村があります」
「土地の違いではないのか?」
「その可能性もございます。ただし、水路、農具、牛馬の数、働き手、種の違いも考えられます」
「倉庫の状態もあるね」
俺が言うと、エリアスが頷く。
「はい。収穫できても、保管中に湿気や鼠によって失われる量が多ければ、領都へ運べる量は減ります」
新しい農地を増やすだけが、供給を増やす方法ではない。
同じ土地から多く収穫する。
収穫した食料を傷ませない。
運ぶ途中で失われる量を減らす。
それも、生産量を増やすのと同じ効果がある。
「これは、報告書だけでは決められないな」
父上が地図を見ながら言った。
「はい」
俺も南部の地図へ目を落とす。
「実際に見に行かせてください」
父上が顔を上げた。
「お前が行くのか?」
「はい」
「何を見るつもりだ?」
「使われていない農地、水路、農具、牛馬、倉庫。それから、村から領都へ運ぶ道です」
「すべての村を回るつもりではないだろうな」
「全部は回りません」
収穫量が多い村。
同じ程度の農地がありながら、収穫量が少ない村。
使われていない土地が多い村。
特徴の違う場所を選べば、差が生まれている理由を見つけられるかもしれない。
「農家の人たちにも、増産したいと思っているのか聞きたいです」
「領主が作れと言えば、作るのではないか?」
「一度は作ると思います」
だが、増産した結果、穀物が余って価格が下がれば、農家は損をする。
保管する場所がなく、安く売らなければならなくなるかもしれない。
「農家が損をする仕組みでは、翌年も続きません」
「増産できるかだけでなく、増産を続けられるかを見るのだな」
「はい」
父上は地図を見たまま、しばらく考えていた。
「分かった。南部へ行くことを許可する」
「ありがとうございます」
「エリアス、見るべき村を選べ」
「承知しました」
「護衛と日程については、ノルとも相談しろ」
「はい」
これで、領内でどこまで食料を増やせるか、自分の目で確認できる。
だが、南部で増産できると分かっても、実際に収穫量が増えるまでには時間がかかる。
「父上、もう一つ進めたいことがあります」
「何だ?」
「他領から買う食料を、少量だけ増やしたいです」
父上の表情が少し厳しくなる。
「南部で増産するのではなかったのか?」
「両方を進めたいんです」
「なぜだ?」
「南部で作る量を増やしても、収穫できるのはすぐではありません」
人口は、その間も増える。
南部が不作になる可能性もある。
領内で作る食料だけに頼れば、何か起きた時の影響が大きい。
「ただし、最初から大量に買うつもりはありません」
「少量を買って、どうする?」
「実際に運んでみます」
どこから買うのか。
どの商人に頼むのか。
それはまだ決めない。
だが、どこから買う場合でも、確認しなければならないことは同じだ。
「買い付け価格。運ぶ費用。かかる日数。荷車一台で運べる量。護衛の費用。途中で傷む量。倉庫へ入れてから売り切るまでの期間」
「かなり多いな」
父上が言う。
「書類で出された見積もりと、実際にかかる費用が同じとは限りません」
街道の途中で荷車が壊れるかもしれない。
雨によって予定より時間がかかる可能性もある。
穀物の一部が傷むこともある。
領都へ着いても、すぐにすべて売れるとは限らない。
「少量で一度試せば、何にどれだけ費用がかかるか分かります」
「食料不足への備えとしては、少なすぎないか?」
「今回の目的は、備えそのものではありません」
「では、何だ?」
「備える方法を確かめるためです」
大量の食料を買ってから、思ったより運べなかったと分かっても遅い。
倉庫に入らない。
費用が高すぎる。
売れるまでに時間がかかる。
商人の資金が足りない。
そのような問題を、最初に小さく試して見つける。
「うまく運べると分かってから、必要な量を増やします」
「なるほど」
父上がエリアスを見る。
「どう思う?」
「私も、少量から始めるのがよいと考えます」
エリアスが答える。
「大量に輸入すれば、領内の農家が売る穀物の価格を急に下げる可能性もございます」
「それも避けたい」
食料を安くするために、南部の農家が損をするようでは意味がない。
領内で作る者が利益を得ながら、不足する分を領外から補う必要がある。
「輸入する食料は、領が買い付けるのでしょうか?」
エリアスが尋ねる。
「それも含めて調べたい」
「商会へ任せる方法もございます」
「うん。ただ、商会が先に代金を支払うなら、その金は売れるまで戻ってこない」
大量に穀物を買えば、商会はその間、別の商品を仕入れる金を使えなくなる。
領が直接買えば、今度は領の資金が倉庫の中に置かれた食料へ変わる。
「誰が買うのか。誰が輸送費を負担するのか。売れ残った時の損を誰が負うのか。それも決める必要があります」
「買えるかだけではなく、買い続けられるかを見るのだな」
父上が言う。
「はい」
「輸入元はどうする?」
「まだ決めません」
どの領に余裕があるのか。
どの領からなら安定して買えるのか。
ハル家との関係はどうか。
そこから領都までの街道は使いやすいのか。
複数の領から買うことはできるのか。
確認すべきことが残っている。
「エリアス。現在取引のある商人たちに、追加で仕入れられる食料があるか確認してほしい」
「購入先も調べますか?」
「候補だけでいい。どこから買うかは、その報告を見て決めよう」
「承知しました」
「必要な金額と、考えられる輸送経路もお願い」
「はい」
父上は、机の上に広げられた南部の地図と、食料価格の報告書を交互に見た。
「領内で作る道と、領外から買う道。その両方を準備するということだな」
「はい」
「片方だけでは駄目なのか?」
「どちらかがうまくいかなかった時に、食料が足りなくなるからです」
南部で思ったほど増産できない可能性がある。
増産できても、凶作になる年はある。
他領から買おうとしても、相手の領が不作になれば売ってもらえない。
街道が使えなくなることもある。
一つの方法だけに頼るのは危険だった。
「分かった」
父上が頷く。
「南部の視察を進めろ。同時に、少量の輸入についても準備を始める」
「ありがとうございます」
「ただし、購入先と金の出し方は、調査が終わってから改めて決める」
「はい」
エリアスは、机の上の報告書をまとめ始めた。
「南部の視察先については、収穫量と使われていない土地の記録から候補を選びます」
「お願い」
「輸入についても、商人たちへ確認いたします」
「頼む」
話がまとまり、俺は改めて南部の地図を見た。
領内で、さらに作れるのか。
今ある畑から、もっと多く収穫できるのか。
収穫した食料を、失わずに領都まで運べるのか。
その答えは、報告書の数字だけでは分からない。
他領から買う準備を進めながら、まずはハル領南部を自分の目で確かめる。
次に向かう場所は、領の食料を支える穀倉地帯だった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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