第382話 高くなったパン
翌朝。
目を覚ますと、身体がいつもより軽かった。
昨日はほとんど一日、屋敷から出なかった。
本を読もうとしても集中できず、ベッドに横になったまま、卒業後のことや縁談について考えていた。
それでも、最後には本当に眠ってしまった。
休むだけの一日が必要だったのだろう。
「よし」
ベッドから起き上がり、身体を伸ばす。
今日は働こう。
そう決めて着替えを済ませ、食堂へ向かった。
◇
「今日は出かけるのか?」
朝食の席につくなり、父上が尋ねてきた。
「はい。昨日行けなかった場所を確認してきます」
「昨日の分まで働こうとしていないだろうな」
「昨日の分というものがあるのですか?」
「お前なら、休んだ分を取り戻そうと考えかねない」
否定しようとしたが、少しだけ思い当たるところがあった。
「今日は領都を歩くだけです」
「何を見に行くのですか?」
母上が尋ねる。
「市場と公衆浴場の周辺です」
「また排水路か?」
「はい」
父上が小さく息を吐く。
「西の森でも排水の話をしていたばかりではないか」
「西の森で考えたからこそ、領都の排水設備が今もきちんと働いているか確認したくなりました」
領都では以前、排水路を整備した。
その後も領都の人口は増え続け、市場を利用する人も、公衆浴場へ通う人も以前より多い。
今の利用量に対して、排水設備が十分なのか。
一度、自分の目で確認しておきたかった。
「確認だけで済ませろ」
父上が言う。
「問題を見つけたからといって、今日中に工事を始めようとするな」
「さすがに、そこまではしません」
「本当か?」
「そのつもりです」
母上が楽しそうに笑った。
◇
朝食を終えた俺は、屋敷を出て領都の中心部へ向かった。
空は晴れていた。
日差しは強いが、建物の間を抜ける風は心地よい。
通りを歩く人の数は、以前より明らかに増えていた。
荷物を運ぶ職人。
市場へ向かう買い物客。
店先の掃除をする店主。
西の森や周辺の集落から来たらしい人の姿もある。
「リオン様、お帰りだったんですね」
道具屋の前を通りかかると、店主が声をかけてきた。
「数日前に戻ってきたんだ」
「学院の試験はどうでした?」
「無事に終わったよ」
「それはよかった。今度、うちの息子にも王立学院の話を聞かせてやってください」
「うん。機会があればね」
少し先では、荷車を引いていた男が足を止めた。
「リオン様、今日は西の森じゃないんですか?」
「今日は領都を見て回っているんだ」
「相変わらず忙しそうですね」
「昨日は一日休んだよ」
住民たちは、俺の姿を見ると頭を下げる。
だが、それだけではなく、以前より気軽に話しかけてくれるようになった。
俺が幼い頃の領都では、領主一族へ声をかける住民はほとんどいなかった。
遠くから頭を下げ、そのまま通り過ぎるのが普通だった。
今は、店のことや家族のことを話してくれる人もいる。
領都の中を何度も歩き、住民たちと話してきたからだろう。
その変化は、素直にうれしかった。
市場へ近づくにつれ、人の声が大きくなっていく。
野菜や果物を並べた露店。
肉や魚を扱う店。
パンを焼く匂い。
呼び込みをする商人の声。
公衆浴場の入口にも、朝から多くの人が集まっている。
仕事へ向かう前に利用した者が出てくる一方で、夜勤を終えた者たちが中へ入っていく。
まずは、公衆浴場の周囲から確認することにした。
建物の裏側へ回る。
浴場から出る湯は、専用の排水路を通って流れていた。
水の勢いは以前より強い。
利用者が増えた分、使われる水の量も増えているのだろう。
それでも、水が溝からあふれている様子はない。
泥やごみが溜まっている場所も見当たらなかった。
鼻を刺すような臭いもしない。
少し離れた場所には、飲食店から出る水を流す別の溝がある。
こちらも、水は滞ることなく流れていた。
俺は意識を集中させた。
視界に文字が浮かび上がる。
≪排水処理能力:許容範囲内≫
≪排水路の閉塞:なし≫
≪周辺衛生状態:良好≫
≪異常:検出されず≫
「問題なさそうだな」
思わず、安堵の息が漏れた。
利用する人が増えても、以前整えた排水路は役目を果たしている。
設備は作るだけでは十分ではない。
使い続けるための管理が必要だ。
だが、今のところ、その管理もきちんと行われているようだった。
排水路に沿って市場の裏側まで歩いた。
こちらでは、飲食店の従業員が店の裏を掃除している。
食べ残しを受け止める籠も使われていた。
「おはようございます、リオン様」
掃除をしていた女性が、手を止めて頭を下げる。
「おはよう。排水溝は詰まったりしていない?」
「最近はありません。前は雨の後に水が溜まることもあったんですが、工事をしてからはよく流れます」
「掃除は大変?」
「毎日見ていますけど、大きなごみを流さなければ、それほどでもありません」
「そう。それならよかった」
「おかげで、店の裏も臭わなくなりました」
女性はそう言うと、再び掃除へ戻った。
目で見た状態だけでなく、実際に使っている者からも問題がないと聞けた。
西の森でも、今のうちに同じような仕組みを整えれば、店や住宅が増えた後も対応できるはずだ。
公衆浴場と市場の周囲を一通り確認した頃には、日がかなり高くなっていた。
市場の人通りも、さらに増えている。
腹が小さく鳴った。
「もう昼前か」
朝食を食べてから、かなり歩いている。
せっかく市場まで来たのだから、ここで昼食を取っていくことにした。
以前にも入ったことのある食堂へ向かう。
店の軒先には、今日出している料理と値段を書いた板が立てかけられていた。
パン。
豆と肉の煮込み。
焼いた野菜。
パンと煮込みを組み合わせた昼食。
どれにしようかと眺めていて、俺は違和感を覚えた。
「……前より高い?」
冬に領都へ戻った時にも、この店で食事をした。
その時と比べて、パンと煮込みの値段が少し上がっている。
大きな値上がりではない。
知らなければ、気づかない程度だ。
季節によって食材の価格は変わる。
料理の内容が違えば、値段が変わることもある。
この店だけで判断することはできない。
俺は食堂へ入る前に、周囲の店を見て回ることにした。
隣のパン屋でも、以前より値段が上がっていた。
市場の中へ入り、野菜の値札を見る。
すべてではない。
夏になって安くなっている野菜もある。
だが、冬から価格が下がっていてもよいはずの品が、思ったほど安くなっていない。
肉の値段も、以前より少し高い。
王都と比べれば、まだ安い。
だが、以前のハル領と比べれば、確実に上がっている。
「リオン様、何かお探しですか?」
野菜を売っていた店主に声をかけられた。
「少し値段を見ていたんだ。前より上がっているものが多い気がして」
「ああ、それですか」
店主は並べられた野菜を見る。
「品によりますけどね。全体としては、少し上がっています」
「いつ頃から?」
「春を過ぎた頃からでしょうか。市場へ来る客が増えましたから」
「売れる量が増えたの?」
「増えています。領都の人も増えましたし、宿や食堂がまとめて買っていきます。
西の森へ持っていく商人もいますから」
「入ってくる量は?」
「前より増えてはいます。ただ、売れる量の増え方の方が大きいですね」
人口が増えた。
宿や飲食店が増えた。
西の森でも、食料を必要とする人が増えている。
当然、必要な食料の量も増える。
需要が増えれば、価格が上がること自体は不思議ではない。
「仕入れの値段も上がっている?」
「少し。農村から持ってくる者も、以前より高い値段を求めるようになりました」
「それで困っている?」
「いえ、売れますからね」
店主は笑う。
「以前は、夕方まで残った野菜を安くして売ることもありました。
今は、日が落ちる前にほとんどなくなります」
「農家から見ても、以前より高く売れるわけだね」
「そうでしょうね。それで、来年は作る量を増やすと言っている者もいます」
値段が上がることが、すべて悪いわけではない。
農家が以前より高く売れる。
商人の売上が増える。
店が繁盛し、働く者の給料も上がる。
そうやって領内で動く金が増えるなら、領地が発展している証拠でもある。
問題は、物価だけが上がった時だ。
パンや野菜の値段が上がっても、働く者の収入が同じなら、買える量は減る。
以前と同じだけ働いても、以前と同じ暮らしができなくなる。
特に影響を受けるのは、収入の少ない家庭だ。
日ごとに仕事を探す者。
子どもの多い家庭。
怪我や病気で、十分に働けない者。
高齢になり、以前ほど仕事ができなくなった者。
パン一つの値上がりは小さく見える。
だが、家族が毎日食べるものなら、その負担は積み重なっていく。
「ありがとう。少し参考になったよ」
「何か問題があるんですか?」
「まだ分からない。値段が上がった理由を、もう少し調べてみる」
「値段を下げるんですか?」
店主が少し不安そうな顔をする。
「無理に下げさせるつもりはないよ」
仕入れ価格が上がっているのに、販売価格だけを下げさせれば、店が成り立たなくなる。
安く売ることを命じれば、商人はもっと高く売れる他領へ品物を運ぶかもしれない。
それでは、市場に並ぶ食料がさらに減る。
「食べ物が足りているのか。働く人たちの収入も上がっているのか。
それを確認したいだけなんだ」
「そういうことですか」
店主は安心したように頷いた。
俺は店を離れ、先ほどの食堂へ戻った。
店内は、すでに昼食を取る客でにぎわっている。
空いていた席へ座り、パンと豆の煮込みを注文した。
「リオン様が、うちで食べてくださるんですか?」
店主が驚いた顔をする。
「前にも食べたことがあるよ」
「そうでしたね。すぐお持ちします」
料理を待ちながら、店内を見渡す。
職人らしい男たち。
市場で働く女性。
荷運びをしている若者。
誰もが楽しそうに話しながら食事をしている。
一見すれば、何の問題もない。
市場には食べ物が並び、店にも客が入っている。
領都は以前よりにぎわっている。
だからこそ、見落としやすい。
発展によって収入が増えた者もいる。
一方で、収入が変わらないまま、生活に必要なものだけが高くなった者もいるかもしれない。
領全体の売上や税収が増えていても、それだけで住民全員の暮らしがよくなったとは言えない。
運ばれてきたパンを手に取る。
焼きたてで、まだ少し温かい。
大きさは以前と変わらない。
味も、おそらく変わらないだろう。
変わったのは、店先に書かれた値段だけだ。
だが、その小さな変化の奥には、領都全体の変化がある。
食料の生産量。
他領から入ってくる量。
西の森へ運ばれる量。
市場や宿が仕入れる量。
住民たちの収入。
まずは、それらを確かめなければならない。
いつから価格が上がり始めたのか。
小麦、野菜、肉で上がり方に違いはあるのか。
領都へ運ばれる食料は、人口の増加に追いついているのか。
そして、住民たちの収入も同じように増えているのか。
調べることは多い。
そのうえで、今後の供給を考える必要がある。
ハル領南部には、穀物を多く作っている地域がある。
まだ耕作できる土地が残っているのか。
農具や人手は足りているのか。
収穫量を増やした場合、領都や西の森まで運ぶ道と荷車は足りるのか。
増産した穀物を保管する倉庫も必要になる。
農家にただ作る量を増やせと命じるだけでは続かない。
多く作れば、その分だけきちんと利益を得られる仕組みも必要だ。
それと同時に、他領から買う量を増やすことも考えるべきだろう。
自分の領地だけですべてを賄おうとすれば、凶作が起きた時に対応できない。
ローデン商会や、ハル領へ出入りする他の商人を通じて、食料を安定して運べる道を増やす。
自領での増産。
他領からの輸入。
どちらか一方ではなく、両方が必要だった。
料理を食べ終える頃には、次に確認すべきことがまとまり始めていた。
今はまだ、王都より安い。
市場にも、食べ物は十分に並んでいる。
住民が食料を買えず、困っているという話も聞いていない。
だから、今すぐ値段を下げさせたり、領の備蓄を放出したりする段階ではない。
だが、人口はこれからも増える。
領都だけではない。
西の森でも、定住する者や店を出す者が増えている。
食料の供給が今のままなら、いずれ値段の上昇はさらに大きくなる。
働く者の収入も上がり、農家や店が利益を得られているのなら、発展の一部として受け止められる。
だが、収入が増えないまま、生活に必要なものだけが高くなるのは違う。
それは、にぎわいの外側にいる者から、少しずつ暮らしの余裕を奪っていく。
あとでエリアスに記録を確認してもらおう。
南部の穀倉地帯についても、父上と話す必要がある。
領都の次の問題は、店先に置かれた小さな値札の中に、すでに現れ始めていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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