第381話 何もしない日
父上の執務室を出た俺は、そのまま自室へ戻った。
外出用の上着を脱ぎ、普段着へ着替える。
領都へ出かける必要はなくなった。
正確には、行こうと思えば行ける。
午前中に確認したかったことも、なくなったわけではない。
だが、今日でなければ困ることではなかった。
「今日は休む、か」
自分で口にしてみる。
何をすればよいのだろう。
本を読む。
領内から届いた報告書を確認する。
学院で出された課題を片付ける。
研究所で行った実験について、気づいたことを書き残す。
すぐにいくつか思い浮かんだが、どれも休むこととは違う気がした。
俺は机の前まで歩き、置かれていた本へ手を伸ばした。
学院から持ち帰った魔法理論の本だ。
椅子へ腰を下ろし、途中まで読んでいたページを開く。
数行読み進める。
だが、内容が頭に入ってこない。
同じところをもう一度読む。
それでも、書かれている言葉の意味を追うことができなかった。
頭に浮かぶのは、先ほど父上から見せられた手紙のことばかりだった。
「……駄目だな」
本を閉じ、机へ戻す。
考えることをやめようとしても、やめられそうにない。
ならば、せめて身体だけでも休ませることにした。
俺はベッドへ腰を下ろし、そのまま仰向けに横になる。
天井が見えた。
幼い頃から何度も見てきた、自室の天井だ。
学院へ入ってからは、長期休暇で戻った時にしか見ることがなくなった。
目を閉じる。
領に戻ってきてから歩き回った疲れが、まだ足に残っていた。
領都、西の森。
馬車は使っているが、かなりの距離を歩いている。
父上が休めと言ったのも、間違いではなかったらしい。
身体から少しずつ力が抜けていく。
それでも、頭の中では別のことが動き続けていた。
卒業した後、俺はどうするのだろう。
王立学院へ入学した時は、卒業後のことなど遠い先に感じていた。
今は違う。
まだ学ぶことは多い。
だが、学院で過ごせる時間が永遠に続くわけではない。
いつかは卒業する。
そして、ハル領へ戻ることになる。
父上からすぐに領主の座を継ぐわけではない。
まずは父上の下で、領政をさらに学ぶことになるだろう。
これまでも領地の仕事には関わってきた。
だが、それは学院の休暇中にできる範囲のものだ。
領主の仕事は、問題を見つけて改善案を出すだけではない。
領内から届く報告を読み、限られた資金や人員をどこへ使うのかを決める。
他領や商会との交渉もある。
王都や王家との関係も考えなければならない。
住民同士の争いが起きれば、最終的な判断を求められることもある。
学院を卒業すれば、今よりも多くの責任を負うことになる。
王立研究所との関係も、どうなるか分からない。
ヴァイス所長からは、卒業後も研究へ関わることを期待されるかもしれない。
王宮から、別の役目を求められる可能性もある。
ハル領へ戻る。
王都で研究を続ける。
両方を行き来する。
まだ何も決まっていない。
これまで俺は、ハル領をどう発展させるかばかり考えてきた。
西の森をどのような場所にするか。
領都をどう広げるか。
学校をどこから始めるか。
排水設備をどの順番で整えるか。
領地の将来については、何度も考えてきた。
その中にいる自分が、どこでどのように暮らしているのか。
そこまでは、あまり考えていなかった。
領主になるのだから、ハル領で暮らす。
それだけで済ませていた。
だが、結婚するなら、俺一人だけの問題ではなくなる。
相手となる人も、この領地で暮らすことになる。
俺が王都と領地を行き来するなら、その人はどうするのだろう。
一緒に王都へ行くのか。
ハル領に残るのか。
領主夫人として、どのような役目を担うのか。
そこまで考えたところで、自然とミラの姿が浮かんだ。
研究コースの教室。
机に資料を広げ、何かを書き込んでいるミラ。
俺たちが考えた案に対して、使う人の立場から問題を指摘するミラ。
誰かが発言しづらそうにしていると、さりげなく声をかけるミラ。
もし、ミラがハル領で暮らすことになったら。
西の森の学校についても、子どもや親の立場から意見を出してくれるかもしれない。
工房で新しいものを作る時にも、実際に使う人が困らないかを考えてくれるだろう。
研究を続けたいなら、領内にそのための場所を作ることもできる。
王都へ行かなければできない研究もあるだろうが、ハル領だからこそできる研究もある。
そこまで考えてから、俺は目を開いた。
「いや、待て」
誰に聞かせるでもなく、声が出た。
俺はなぜ、ミラがハル領で暮らすことを前提に考えているのだろう。
ハーウェイ侯爵家から届いたのは、将来の話を検討する余地があるかという手紙だ。
婚約が決まったわけではない。
ミラ本人がその手紙を知っているかさえ分からない。
それなのに、俺はもう、ミラがハル領へ来た後のことを考えていた。
父上から、最初から断りたいかと聞かれた。
俺は、そうは思わないと答えた。
その答えに嘘はない。
ミラは大切な友人だ。
信頼している。
一緒にいることも苦にならない。
むしろ、学院で顔を合わせるのが当たり前になっている。
卒業すれば、その当たり前も終わる。
俺はハル領へ戻る。
ミラも、ハーウェイ侯爵家へ戻るだろう。
その後、別の貴族家と婚約する可能性もある。
そして、相手の領地へ嫁ぐ。
今までのように、毎日のように顔を合わせることはできなくなる。
そう考えると、胸の奥に小さな引っかかりを感じた。
それが何なのかは、まだ言葉にできない。
友人と離れる寂しさなのか。
それとも、別の何かなのか。
母上は、今すぐ気持ちに名前をつけなくてもよいと言った。
ならば、無理に答えを出す必要はないのだろう。
俺はもう一度、目を閉じた。
しばらくすると、窓の外から枝を切る音が聞こえてきた。
一定の間隔で、鋏が鳴っている。
身体を少し起こし、窓の方へ目を向ける。
庭では、庭師長が伸びた枝を整えていた。
俺が幼い頃から、この屋敷の庭を管理している人だ。
年齢は父上よりも上だったはずだ。
帽子を深くかぶり、木の形を確かめながら、少しずつ枝を切っている。
一度に大きく切るのではない。
離れた場所から全体を見て、また近づき、必要なところだけ鋏を入れる。
庭の木々がいつ見ても整っているのは、毎日少しずつ手を入れているからだろう。
廊下から、若いメイドたちへ指示を出す声が聞こえた。
メイド長だ。
食堂で使った食器を片づける順番や、客室の掃除について話しているらしい。
庭師長とメイド長は夫婦だ。
二人とも、この屋敷で長く働いている。
だが、仕事中に一緒にいるところは、ほとんど見たことがない。
庭師長は一日の大半を庭で過ごす。
メイド長は屋敷の中を歩き回り、使用人たちをまとめている。
それぞれ別の場所で、自分の役目を果たしている。
仕事が終われば、二人は屋敷の敷地内にある使用人用の家へ帰る。
俺にとっては、二人が夫婦であることは当たり前だった。
けれど、二人がどのように出会い、どうして結婚したのかは知らない。
最初から互いを知っていたのだろうか。
この屋敷で働くようになってから出会ったのか。
どちらから結婚の話をしたのか。
家族に勧められたのか。
自分たちで決めたのか。
考えてみれば、二人の昔の話を聞いたことは一度もなかった。
今の二人を見れば、長く連れ添っていることは分かる。
庭師長が体調を崩した時には、メイド長がいつもより早く仕事を切り上げていた。
メイド長が忙しい時には、庭師長が厨房の裏まで迎えに来ることもある。
大げさに仲のよさを見せることはない。
それでも、互いを気にかけていることは、見ていれば分かる。
最初から、今のような関係だったのだろうか。
夫婦になれば、自然にそうなるわけではないはずだ。
話をして。
意見が違えば、また話して。
一緒に暮らす中で、相手のことを少しずつ知っていく。
そうやって、今の二人になったのかもしれない。
廊下を歩くメイド長の足音が、遠ざかっていく。
庭では、また鋏の音がした。
「そういえば……」
父上と母上は、どうやって出会ったのだろう。
二人が夫婦であることも、俺にとっては生まれた時から当たり前だった。
父上が母上をどう思っていたのか。
母上は、ハル領へ嫁ぐと決まった時に何を考えたのか。
家同士が決めた縁談だったのか。
それとも、先に二人の気持ちがあったのか。
聞いたことがない。
父上が母上の意見を聞き、考えを変えることもある。
俺の前で言い争うことはほとんどないが、何もかも同じ考えというわけではない。
それでも、二人は互いを信頼しあえているのが伝わってくる。
今朝も、父上が縁談について説明している間、母上は必要になるまで口を挟まなかった。
父上の考えを理解した上で、自分の言葉を俺へ伝えてくれた。
あの二人にも、今の関係になるまでの時間があったのだろう。
「今度、聞いてみようかな」
そう呟き、俺は少し考えた。
今すぐ母上のところへ行けば、話を聞くことはできるかもしれない。
父上も、まだ執務室にいるだろう。
二人を一緒に呼び、出会った頃のことを聞いてもいい。
だが、今日は休むと決めた。
父上と母上の出会いは、今日中に知らなければならないことではない。
庭師長とメイド長の話も、今度機会があれば聞けばいい。
すぐに答えを出さなくてもよい。
そう考えると、少しだけ身体が軽くなった。
俺は枕へ頭を戻した。
窓から入ってくる風が、頬に触れる。
領都の道や西の森を歩いていた時には気づかなかったが、今日は穏やかな風が吹いている。
◇
しばらく何も考えないようにしてみた。
だが、やはり完全には無理だった。
学院を卒業した後のこと。
王立研究所との関係。
父上から領主を継ぐまでに学ばなければならないこと。
西の森の学校。
排水設備。
そして、ミラとのこと。
考えなければならないことは、いくらでもある。
今すぐ答えを出せるものもあれば、時間をかけなければ分からないものもある。
全部を今日一日で決めることはできない。
それなら、できることから進めるしかない。
学校も、最初から領内すべてで始めるのではなく、西の森から小さく始めることにした。
排水設備も、将来の完成形を一度に作るのではなく、今必要な改善から進める。
自分の将来も、同じなのかもしれない。
卒業後のことは、これから考えればいい。
縁談についても、今すぐ結論を出す必要はない。
ミラがどう考えているかは、いつか本人と話さなければ分からない。
その時に逃げずに話せるよう、自分の気持ちを少しずつ考えておけばいい。
「よし」
俺は小さく息を吐いた。
休んでいる間まで、答えの出ないことを考え続けても仕方がない。
今日は、父上に言われたとおり休む。
明日になれば、またやるべきことがある。
考えることも、色々とある。
だが、まずは働こう。
明日から、また頑張るぞ。
そう決めたところで、俺は目を閉じた。
庭から聞こえる鋏の音が、少しずつ遠くなる。
次に目を開けた時には、窓から差し込む光の向きが変わっていた。
どうやら、本当に眠っていたらしい。
休むつもりで横になり、本当に休めたのは久しぶりだった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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