第380話 俺に届いた縁談
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翌朝。
朝食を終えた俺は、自室へ戻ると、外出用の上着へ着替えた。
昨日、父上からは予定を入れずに休むよう言われた。
それでも、領都で一つだけ確認しておきたいことがある。
午前中で済ませ、午後は屋敷で休む。
そのつもりで玄関へ向かうと、廊下の向こうからミアが歩いてきた。
「リオン様」
「どうしたの?」
「旦那様がお呼びです。お出かけになる前に、執務室へ来るようにとのことでした」
「父上が?」
「はい」
昨日相談した、西の森の学校か排水設備について、何か追加の報告が届いたのだろうか。
「分かった。すぐに行くよ」
俺は玄関へ向かうのをやめ、父上の執務室へ向かった。
◇
「失礼します」
扉を開けると、父上は執務机の前に座っていた。
母上も、窓際に置かれた椅子へ腰を下ろしている。
「来たか」
「はい。何か報告が届いたのですか?」
「報告?」
「昨日の学校か、排水設備のことかと思ったのですが」
父上は俺の服装を見る。
「その格好は、やはり出かけるつもりだったのだな」
「午前中だけです」
「昨日も同じことを言っていたな」
「午後は休みます」
「それは話を聞いてから考えろ」
父上が、机の前に置かれた椅子を示す。
俺が腰を下ろすと、机の上に数通の手紙が並べられていることに気づいた。
どれも、領内から届く報告書とは違う。
厚手の紙が使われ、封蝋にはそれぞれ異なる貴族家の紋章が刻まれていた。
「何か、問題でも起きたのですか?」
「問題と言うべきかは分からん」
父上はそう言ってから、一通の手紙へ手を置いた。
「リオン。お前に、縁談が来ている」
「縁談ですか」
「ああ」
「誰のですか?」
「お前のだ」
父上に言われ、俺は口を閉じた。
聞き返すようなことではなかった。
だが、一瞬、自分に関係する話だと理解できなかったのだ。
「自分に、縁談が?」
「ハル家の嫡男は、お前しかいないだろう」
父上はわずかに笑った。
隣では、母上も口元へ手を当てている。
「それは、そうですが……」
「それほど驚くことか?」
「考えていなかったので」
今世の俺は、もうすぐ十五歳になる。
貴族の嫡男として、婚約の話が出ても不自然ではない。
知識としては分かっていた。
学院にも、すでに婚約者がいる生徒もいる。
セレナとエドガーの婚約も、少し前に正式に発表されたばかりだ。
だが、それを自分のこととして考えたことは、ほとんどなかった。
「今すぐ婚約を決める話ではない」
父上が言う。
「まず、ハル家に婚姻の話を受ける意思があるか、確かめたいという書状だ」
「いくつ来ているのですか?」
「正式に娘との縁談を検討してほしいと書かれているものが二通。
それとは別に、両家の将来について話し合う余地があるか尋ねてきたものが一通だ」
「三家も?」
「こちらからすれば、急に増えたように感じるだろうな」
父上は、机の上の手紙へ視線を落とした。
「だが、外から見たハル家は、以前とは違う」
確かにそうだ。
領内では、新しい産業が生まれている。
領都の人口は増え、西の森の開拓も進んでいる。
ローデン商会との取引も広がり、街灯やリバーシといった商品も王国内へ知られ始めている。
さらに、俺は王立学院へ通い、王立研究所の実験にも関わっている。
「今のハル家だけを見ているのではない」
父上が続ける。
「この先、ハル家がどうなるかを見ているのだろう」
「今のうちに関係を作っておきたいということですか」
「その考えもあるだろうな」
領地が発展すれば、集まるのは人や商売だけではない。
貴族同士の関係も変わる。
分かっていたはずなのに、そこまで自分の将来へ結びつけて考えていなかった。
「一通は、王国西部に領地を持つ伯爵家からだ」
父上は最初の手紙へ触れた。
「お前と年齢の近い次女がいる。ハル家にすでに婚約の予定がなければ、一度話をしたいと書かれている」
「もう一通は?」
「王国南部の子爵家だ。爵位は同じだが、穀物の取引で力を持っている」
どちらも、俺にはほとんど縁のない家だった。
家名は聞いたことがある。
だが、相手の令嬢とは会ったこともない。
「相手の令嬢は、この話を知っているのでしょうか?」
俺が尋ねると、父上は少し考えてから答えた。
「分からん」
「手紙には書かれていないのですか?」
「ああ。家同士で話をする意思があるか。それを確かめたいという内容だけだ」
父上が知っているのは、手紙に書かれていることだけだ。
相手の家で、どこまで話が進んでいるのか。
令嬢本人へ、すでに説明されているのか。
本人がこの縁談を望んでいるのか。
書かれていない以上、判断することはできない。
「本人が知らない可能性もあるのですね」
「あるだろう」
「その状態で、こちらは返事をするのですか?」
「まず当主同士で婚姻の可能性を探り、話を進められると分かってから本人へ伝える家もある」
「珍しいことではないのですか?」
「貴族の縁談としてはな」
父上の答えを聞き、俺は机の上の手紙を見た。
「珍しくないことと、それがよいことかは、別だと思います」
俺が言うと、父上はすぐには答えなかった。
母上が静かにこちらを見ている。
「お前なら、そう言うだろうと思っていた」
やがて、父上が口を開いた。
「父上は、どう思っているのですか?」
「家や領地にとって、婚姻が重要であることは変わらない」
「はい」
「だが、一生をともにするのは当主同士ではない。本人の意思を確認せず、話を決めるつもりはない」
その言葉を聞き、少しだけ力が抜けた。
「ただし、相手の家がどのような意図で手紙を送ったのかは、確かめる必要がある」
「それは分かります」
「話を聞くことと、縁談を受けることは同じではない」
「はい」
父上は頷くと、二通の手紙を机の端へ寄せた。
「もう一通は、少し事情が違う」
最後に残された手紙へ手を伸ばす。
封蝋に刻まれた紋章を見て、俺は息を止めた。
何度か目にしたことがある紋章だった。
「ハーウェイ侯爵家……」
「ああ」
父上が手紙を開く。
「ハーウェイ侯爵からだ」
「何と書かれているのですか?」
「ハル家に、すでにお前の婚約を決める予定があるのか。
まだ決まっていないのであれば、将来、両家の縁を深める話を検討する余地があるか、と尋ねている」
両家の縁を深める。
それだけなら、交易や共同事業についての話とも考えられる。
だが、父上が縁談の書状として俺へ見せている以上、意味は明らかだった。
「ミラの名前は?」
「書かれている」
父上は手紙へ目を落とした。
「我が娘ミラと、ハル家嫡男リオンとの将来について、両家で話し合う余地があれば知らせてほしい、とな」
「そうですか」
それしか言葉が出なかった。
ミラ・ハーウェイ。
王立学院の三年から同じクラスで学んできた。
今は同じ五年Sクラスに所属し、研究コースも一緒に選んでいる。
俺にとっては、よく知らない貴族令嬢ではない。
「ミラ嬢とは、学院で同じクラスだったな」
父上が尋ねる。
「はい。三年から一緒のクラスになり、一緒に課題へ取り組む機会も多くありました」
「今もか?」
「はい。今も同じSクラスです。研究コースも一緒です」
「どのような令嬢だ?」
俺は少し考えた。
「周囲をよく見ている人です」
「周囲を?」
「はい。新しいものを考える時も、自分が使うことより、実際に使う人が困らないかを先に考えます」
研究の課題でも、ミラは使う人の立場を考えていた。
誰かが意見を言いづらそうにしていれば、それにも気づく。
「自分の意見は持っていますが、他の人の話もきちんと聞きます。
意見が違っても、感情的に押し通すことはありません」
「研究でも頼りになるのか?」
「はい」
「侯爵家の令嬢としては?」
「家や領地への責任も理解していると思います」
以前、ミラは貴族の婚姻について話していた。
家同士のつながり。
領地の商流や安全。
王家や他の貴族との関係。
自分が侯爵家に生まれた以上、それらを無視するつもりはないと言っていた。
その一方で、自分の気持ちを最初からないもののように扱われるのは嫌だとも言っていた。
「よく知っているのだな」
父上の言葉に、俺は顔を上げた。
「同じクラスで長く過ごしていますから」
「それだけかしら」
母上が穏やかに尋ねる。
「母上?」
「いいえ。何でもありません」
そう言いながら、母上は小さく笑っている。
父上は母上を一度見てから、俺へ視線を戻した。
「この手紙にも、ミラ嬢本人の考えは書かれていない」
「はい」
「侯爵がどのような経緯で手紙を送ったのかも分からん」
ミラ本人が、侯爵へ何かを話したのか。
それとも、ハーウェイ侯爵が家同士の将来を考え、独自に動いたのか。
手紙だけでは判断できない。
ただ、俺はミラから向けられているものに、まったく気づいていなかったわけではない。
話している時の表情。
二人きりになった時、普段より少しだけ慎重に言葉を選ぶこと。
もしかすると、ミラは俺に好意を持っているのではないか。
そう感じたことはあった。
けれど、ミラ本人から聞いたわけではない。
自分の思い違いかもしれない。
友人として大切に思ってくれているだけかもしれない。
そう考え、確かめようとはしなかった。
自分自身が、ミラをどう思っているのかも分からなかったからだ。
研究棟へ向かう廊下で、二人で話した日のことを思い出す。
『それでも、少しだけ憧れるんだ。ちゃんと自分で選んで、この人がいいって思えることに』
ミラは、そう言った。
『家のためだからって、自分の気持ちを最初からないものみたいに扱われるのは嫌だなって思う』
俺は、本人たちが話すことが必要だと答えた。
納得できること。
嫌なら嫌だと言えること。
そして、自分の気持ちは家の人に話した方がいいとも言った。
必要なら、相手にも。
『話せる相手なら、か』
あの時、ミラはそう繰り返した。
あの言葉が、自分とは無関係ではない可能性にも気づいていた。
ただ、それ以上考えないようにしていた。
「リオン」
父上の声で、意識を戻す。
「はい」
「ハーウェイ侯爵家からの話も、すぐに断りたいと思うか?」
ミラをどう思っているのかとは聞かれなかった。
ただ、この話を検討する余地があるのか。
父上が確認したいのは、それだけなのだろう。
俺は机の上の手紙を見た。
前世の俺は、四十五歳まで生きた。
仕事に追われ、会社を守ることに必死だった。
結婚はしなかった。
恋愛や結婚を、自分の人生の中心に置いたこともほとんどない。
四十五年を生きたからといって、恋愛について正しい答えを知っているわけではなかった。
今世の俺は、もうすぐ十五歳になる。
前世の記憶だけで考えれば、ミラはまだ若い。
だが、俺は四十五歳の男が、十五歳の身体を借りているわけではない。
リオン・ハルとして生まれ、父上と母上に育てられ、この世界で十五年近く生きてきた。
ミラと知り合ったのも、今世の俺だ。
同じ学院で学び、同じ課題に悩み、一緒に答えを探してきた。
前世の経験があるからこそ、簡単な気持ちだけで決めてはいけないと思う。
だが、前世の年齢を理由に、今の自分の気持ちを最初から否定することも違う。
「今すぐ、婚約を決めることはできません」
俺は答えた。
「それは当然だ」
父上は静かに頷く。
「ですが」
一度、言葉を区切る。
「最初から断りたいとも思いません」
自分の口から出た言葉を聞き、胸の奥がわずかに揺れた。
嫌ではない。
ハーウェイ侯爵家だからではない。
侯爵家との婚姻が、ハル家にとって有利だからでもない。
相手がミラだから、断りたいとは思わなかった。
「そうか」
父上は、それ以上追及しなかった。
「では、ハーウェイ侯爵には、ハル家としても話を検討する余地はあると返そう。
ただし、現時点で婚約を確定するものではないことも伝える」
「お願いします」
「他の二家については、どうする?」
「相手の令嬢がどのように考えているか分からないまま、婚約を前提とした話へ進むつもりはありません」
「では、断るのか?」
「今は学院での学びを優先しており、すぐに婚約を決める予定はないと返していただけますか?」
「分かった」
完全に可能性を閉ざすわけではない。
だが、家同士の条件だけを見て、会ったこともない相手との婚約を進めることもしない。
父上は三通の手紙を重ねると、机の端へ置いた。
「縁談は、領地の工事のように費用と期間だけで優先順位を決めることはできない」
「分かっています」
「本当に分かっているか?」
「昨日よりは」
父上が小さく笑う。
母上も、俺を見ながら口を開いた。
「今すぐ、自分の気持ちに名前をつけなくてもよいのですよ」
「名前ですか?」
「友人として大切なのか。それ以上の気持ちなのか。
考え始めたばかりなら、まだ分からなくても不思議ではありません」
何もかも見透かされているような気がした。
「ただ、分からないからといって、考えないままにしてはいけません」
「はい」
「相手の気持ちだけでなく、自分がどうしたいのかも考えてください」
「分かりました」
母上の言葉に、俺は頷いた。
ミラがこの縁談を知っているかは分からない。
ハーウェイ侯爵が、ミラの気持ちを知った上で手紙を送ったのかも分からない。
今の段階で確かなことは、ほとんどなかった。
それでも、自分の気持ちだけは、俺自身が考えなければならない。
「話は以上だ」
父上が言う。
「はい」
「それで、まだ領都へ出かけるつもりか?」
俺は、外出用の上着へ目を落とした。
午前中に確認するつもりだったことはある。
だが、今日でなければ困ることではない。
「今日はやめておきます」
父上が少し目を見開く。
「珍しいな」
「父上が休めと言ったので」
「昨日は聞かなかったではないか」
「昨日より、考えることが増えました」
「それで休めるのか?」
「たぶん」
「また、たぶんか」
父上は呆れたように息を吐いた。
母上は楽しそうに笑っている。
俺は椅子から立ち上がり、二人に一礼して執務室を出た。
廊下には、朝の日差しが差し込んでいた。
窓の外では、屋敷で働く者たちが忙しそうに行き交っている。
昨日までなら、領都で確認する予定のことを考えていただろう。
今は、研究棟へ向かう廊下で話したミラの姿が浮かんでいた。
自分で選んで、この人がいいと思えること。
話せる相手なら。
ミラから向けられている気持ちに、気づいていなかったわけではない。
ただ、気づかないふりをしていれば、これまでと同じ友人でいられた。
だが、父上の机に置かれた一通の手紙が、それを許してはくれなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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