第377話 子どもたちの学校
「では、私は夜間学校へ向かいます」
マリウスは書面を抱え直し、工房の入口で頭を下げた。
「今日はありがとう。夜間学校のことも、これからよろしく頼むよ」
「承知いたしました」
マリウスが工房を出ていく。
俺も屋敷へ戻ろうとしたところで、レナードに呼び止められた。
「リオン様。お時間がございましたら、もう一か所ご覧いただきたい場所がございます」
「どこ?」
「西の森の住宅区画です」
「家は増えたの?」
「はい。まだすべてではありませんが、すでに暮らし始めている家族もおります」
「見に行こう」
俺はレナードとともに、工房をあとにした。
◇
住宅区画は、リバーシ工房から少し離れた場所に作られていた。
工房へ資材を運ぶ荷車が、生活する者たちの近くを通らないよう、道も分けられている。
まだ十数軒ほどだが、軒先には洗濯物が干され、家の脇には小さな畑も作られていた。
煙突から煙が上がり、どこかから煮込み料理の匂いが漂ってくる。
道の端では、子どもたちが枝を剣に見立てて走り回っていた。
「本当に、暮らす場所になったんだね」
「はい。定住を認めた者から、少しずつ家族を呼んでおります」
レナードと歩いていると、一人の男がこちらに気づいた。
「リオン様!」
声を上げたのはトーマだった。
以前、西の森で真面目に働き続け、妻と娘を呼びたいと願っていた男だ。
トーマの隣には、一人の女性と、小さな女の子が立っている。
「妻のリサと、娘のエナです」
二人は緊張した様子で頭を下げた。
「は、はじめまして、リオン様」
「そんなに固くならなくていいよ。西の森での暮らしはどう?」
リサは一度夫を見てから、答えた。
「家族で暮らせるだけでも、ありがたく思ってます」
「以前は離れて暮らしていたんだよね」
「はい。夫がいつ戻れるのかも分からず、娘と二人で待っておりました」
トーマが申し訳なさそうに視線を下げる。
だが、リサはそんな夫の腕へそっと手を添えた。
「今は毎日、一緒に食事ができます。それだけでも、以前とはまったく違います」
「お父さん、毎日帰ってくるよ!」
エナが嬉しそうに言った。
トーマは照れたように笑う。
西の森に仕事ができた。
住む家ができた。
その二つがそろったことで、離れていた家族が一緒に暮らせるようになったのだ。
「リサも、西の森で働いているの?」
「はい。リバーシ工房で、駒を磨く仕事をいただいてます」
「夜間学校にも通っています」
トーマが付け加える。
「まだ、自分の名前をゆっくり書けるようになったくらいですが……」
「それでも、以前より任せていただける仕事が増えました」
リサの声には、少し誇らしさがあった。
「いつか、完成した数を記録する仕事もできるようになりたいと思ってます」
「きっとできるよ」
そう答えると、リサは嬉しそうに頭を下げた。
工房で見た者たちと同じだ。
学んだことで、選べる仕事が増えている。
そして、その収入が家族の暮らしを支えている。
◇
トーマたちと別れ、住宅区画の奥へ進む。
子どもの数は、思っていたより多かった。
道で遊ぶ者。
家の前で幼い弟や妹を見ている者。
母親の仕事を手伝い、水を運んでいる者もいる。
その中には、まだ七つか八つほどにしか見えない子どももいた。
「子どもたちは、日中いつもここにいるの?」
「多くは、家の近くで過ごしています」
レナードが答える。
「年長の子が、幼い子の面倒を見ることもあります。
親が仕事へ出られず、家に残っている場合もございます」
「働きたいけど、子どもを置いていけない人もいる?」
「はい。特に幼い子を持つ母親から、何件か相談を受けています」
リバーシ工房では、駒磨きや箱詰めなど、経験の少ない者でも始められる仕事が増えている。
働きたい者はいる。
だが、子どもを一人にしてまで働くことはできない。
「文字や計算を学びたい子どももおります」
「夜間学校へは行けないの?」
「授業が終わる時間が遅いため、幼い子には難しいかと」
「そうだよね」
俺は走り回る子どもたちを眺めた。
以前から考えていたことがある。
夜間学校だけではなく、いずれは子どもたちが学ぶ場所も作りたいと思っていた。
だが、教師も建物も足りなかった。
西の森で暮らす家族も、まだほとんどいなかった。
今は違う。
夜間学校の運営は軌道に乗り、文字や数字を学んだ者も増えている。
西の森には家族が暮らし、子どもの数も増え始めた。
始めるなら、今かもしれない。
「レナード」
「何でしょうか?」
「夜間学校の建物を、昼にも使えないかな?」
「昼にも、ですか?」
「夜は大人が学ぶ。昼は子どもたちが学ぶ場所にするんだ」
レナードは少し驚いたように目を見開いた。
「子どものための学校を作る、ということでしょうか」
「うん」
この世界で、幼い頃から文字や計算を学べるのは、ほとんどが貴族か裕福な商人の子どもだけだ。
平民の子どもは家の仕事を手伝い、必要になった時に少しずつ覚える。
それでは、学ぶ機会を得られないまま大人になる者も多い。
前世では、家が裕福かどうかに関係なく、子どもは学校へ通っていた。
すべての子どもが同じように学べたわけではない。
それでも、幼い頃から文字や数字に触れられる場所はあった。
「最初から難しいことを教える必要はないと思う」
「では、何を?」
「自分の名前を読んで書く。数を数える。簡単な足し算や引き算をする。
それから、危険や避難を示す札を読めるようにする」
西の森では、危険な場所や退避先を示す札が使われている。
子どもの頃から意味を理解していれば、自分の身を守ることにもつながる。
「幼い頃から学べれば、大人になってから覚えるより早いと思うんだ」
「確かに、子どもは覚えるのが早いと聞きます」
「それに、子どもが昼間に安全な場所で過ごせれば、親も安心して働ける」
レナードが住宅区画を見渡した。
「今は、子どものために仕事へ出られない者もおります」
「学校があれば、その人たちも働けるようになるかもしれない」
工房だけではない。
食堂。
衣服の修繕。
記録の補助。
これから領の事業が増えれば、必要な働き手も増えていく。
子どもが安全に学べる場所があることで、働ける親が増えるなら、領の成長にもつながる。
だが、それは学校を作る一番の理由ではない。
働き手を増やすためだけに、子どもを集めるわけではない。
「まずは、子どもたちが安全に過ごして、学べる場所を作りたい」
「はい」
「その結果として、親も働きやすくなる。それが一番いいと思う」
レナードはゆっくりと頷いた。
「リオン様は、学校も領地に必要な設備だと考えておられるのですね」
「そうだね」
道がなければ、人も荷物も動けない。
井戸がなければ、生活できない。
家がなければ、家族で暮らせない。
「学校も、それと同じだと思う」
「道や井戸と同じ、ですか」
「住民が安心して暮らせる場所を作るなら、子どもが過ごし、学べる場所も必要だから」
前世では、学校も社会を支える当たり前の仕組みだった。
この世界では、まだ当たり前ではない。
だからこそ、ハル領から少しずつ始めてみたい。
◇
「しかし、教師はどういたしましょう」
レナードの指摘はもっともだった。
「マリウス殿は、昼間はローデン商会の仕事がございます」
「マリウスに全部任せるつもりはないよ」
夜間学校で学んだ者の中には、すでに簡単な読み書きや計算ができる者もいる。
その中から、子どもに教えることが得意な者を探す。
「最初は、毎日じゃなくてもいいと思う」
「週に数日から、ということですか?」
「うん。午前中だけでもいい。まずは小さく始めて、子どもの人数や必要な教師の数を確かめよう」
「幼い子の面倒を見る者も必要になります」
「読み書きを教える人と、子どもたちを見守る人は、別でもいいかもしれないね」
「食事はどういたしますか?」
「最初は家で食べてもらう。慣れてから、必要なら昼食も考えよう」
いきなり前世と同じ学校を作ることはできない。
今のハル領でできる範囲から始める必要がある。
「費用も計算しなければなりません」
「父上に相談するよ。エリアスにも、教師の報酬や教材にどれくらいかかるか調べてもらう」
「夜間学校の建物を使うのであれば、新しく建てる費用は抑えられます」
「昼に使う分の机や教材は必要になるけどね」
レナードは、すでに頭の中で必要なものを整理し始めているようだった。
「夜間学校で学んだ者の中から、教師の候補を探してみます」
「子どもの世話が得意な人もお願い」
「承知しました」
「まだ始めると決まったわけじゃないから、候補を探すだけでいいよ」
「はい。ですが、必要としている者は多いと思います」
レナードの視線の先では、年長の少女が幼い子どもの手を引いていた。
あの少女も、本来なら学べる年齢なのかもしれない。
◇
屋敷へ戻るため、住宅区画の入口へ向かう。
途中で、地面に座り込んでいるエナを見つけた。
手には細い枝を持ち、土の上へ何かを書いている。
隣には母親のリサがいた。
「ここは、もう少し長く書くのよ」
「こう?」
「そう。上手に書けているわ」
土の上に書かれていたのは、まだ少し形の崩れた文字だった。
おそらく、エナ自身の名前だ。
夜間学校で学んだ母親が、娘へ文字を教えている。
俺たちが近くを通ると、エナが顔を上げた。
「リオン様、見て!」
「名前を書いているの?」
「うん。お母さんに教えてもらったの」
「上手だよ」
そう答えると、エナは満足そうに笑った。
家があり、仕事があり、食べるものがある。
それだけでも、以前の西の森よりずっと暮らしやすくなった。
けれど、子どもたちがこれからもここで育っていくなら、学ぶ場所も必要になる。
学校もまた、ハル領で安心して暮らすための、道や井戸と同じ基盤になるのだ。
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