第370話 急がない旅も悪くない
夏休み初日の朝。
リオンは寮の自室で、ハル領へ持ち帰る荷物を確認していた。
衣類はそれほど多くない。
その代わり、机の上には学院の教科書や資料が積まれている。
飛び級したことで学び切れていない四年生の範囲。
正式な術式記述に関する本。
王立研究所で扱った実験の記録。
それらを順番に鞄へ入れていく。
「これでは、夏休みというより勉強する場所を移すだけだな」
思わず独り言が漏れた。
それでも、久しぶりにハル領へ戻れることは楽しみだった。
父や母にも会える。
領地で進められている仕事も、自分の目で確認したかった。
最後に家族への土産を入れ、鞄を閉じる。
荷物を持って部屋を出ると、廊下でヴィクトル、ガイル、クラウスと顔を合わせた。
「もう出るのか?」
ガイルが尋ねる。
「うん。迎えが来る時間だから」
「また2学期にな」
「ああ。また学院で」
3人と短く挨拶を交わし、リオンは寮の玄関へ下りた。
寮の外に出ると、帰省の馬車を待つミラとナディアがいた。
「気をつけて帰ってね」
「ありがとう。ナディアも、セルヴァン王国まで気をつけて」
「はい。また2学期に会いましょう」
「それじゃあ、またね」
ミラが手を振る。
リオンも手を振り返し、寮の門へ向かった。
◇
寮の門の前にハル家の馬車が停まっていた。
その横では、ノルとミアが待っている。
リオンの姿を見つけると、ミアが明るく駆け寄ってきた。
「リオン様、お疲れさまでした!」
「ありがとう。迎えに来てくれて助かるよ」
「いえ。私もお会いできるのを楽しみにしていました」
ミアは笑顔で答えたあと、リオンの顔を見上げた。
そのまま、少し不思議そうに首を傾げる。
「また背が伸びましたね」
「そうかな?」
「伸びていますよ。前よりずっと見上げないといけません」
ミアが隣へ並び、頭の高さを比べる。
以前はそれほど大きな差ではなかったはずだが、今ではリオンの方が随分と高い。
「本当だ。かなり差がついたね」
「もう子供には見えません」
「年齢としては、まだ子供だけどね」
前世では45歳まで生きた自分が、今は成長期にいる。
改めて考えると、妙な感覚だった。
だが、この体はまだ大きくなりそうだ。
学院を卒業する頃には、今よりさらに背が伸びているかもしれない。
「荷物はこちらへ」
ノルが鞄を受け取る。
「ありがとう」
「途中でトラウゼン侯爵のお屋敷に挨拶へいきます。その後、ハル領へ向かう予定です」
「ああ、よろしく」
転移魔法を使えばハル領へ戻るだけなら一瞬だ。
だが、今回は途中でトラウゼン侯爵家へ寄ることになっている。
先日侯爵から届いた手紙には、帰省の途中で顔を見せてほしいと書かれていた。
急ぎの用件があるわけではない。
久しぶりにリバーシをしながら、最近の学院生活や領地運営について話したいらしい。
トラウゼン侯爵らしい招待だった。
◇
馬車が王都を出る。
窓の外に並んでいた大きな建物が少しずつ減り、畑や林が見えるようになっていった。
リオンは座席へ深く腰を下ろす。
学院の授業。
放課後の王立研究所。
王宮での結界調査。
期末試験前の勉強会。
最近は、朝から夜まで何かを考えていることが多かった。
誰かに呼ばれ、次の場所へ向かい、そこで判断を求められる。
そんな日々に慣れていたせいか、何もしなくてよい時間は少し落ち着かなかった。
鞄から本を出そうとして、手を止める。
窓の外では、夏の日差しを受けた草原がゆっくりと流れている。
遠くには、小さな村が見えた。
今すぐ答えを出さなければならない問題はない。
急いで向かわなければならない場所もない。
「こういう時間も、悪くないな」
「何かおっしゃいましたか?」
向かいに座るミアが尋ねる。
「何でもないよ」
リオンは笑い、荷物の中から薄い木箱を取り出した。
「ミア。久しぶりにやる?」
箱を開くと、中には白と黒の丸い駒が入っている。
リバーシだった。
ミアの表情が明るくなる。
「もちろんです」
すぐに小さな盤を座席の間へ広げる。
「ですが、以前の私と同じだと思わないでくださいね」
「随分と自信があるね」
「ハル領では、リバーシが大人気なんです」
「そんなに広まったの?」
「はい。屋敷のメイドたちも、休憩時間になるとよく遊んでいます」
ミアも何度も対局し、かなり腕を上げたらしい。
「最近は、メイドたちの中でも負ける方が少ないんですよ」
「それなら楽しみだ」
最初の駒を置き、対局が始まった。
◇
ミアの言葉は大げさではなかった。
以前は取れる駒が多い場所を見つけると、すぐにそこへ置いていた。
しかし今は違う。
角の周辺を避け、次に自分が打てる場所まで考えている。
簡単に駒を増やさず、相手の選択肢を減らす手も使うようになっていた。
「ここです」
ミアが自信を持って駒を置く。
並んでいた黒い駒が、まとめて白へ変わった。
「かなり強くなったね」
「そうでしょう?」
冬休みを終え、王都へ戻る馬車の中で対局した時より、数段腕を上げている。
序盤から中盤にかけては、以前よりもずっと良い形で進めていた。
ミアは盤面に増えていく白い駒を見て、笑みを深くする。
「今日は勝てるかもしれません」
「まだ終わってないよ」
「今は私の方が多いです」
「今はね」
リオンは盤面の端へ駒を置いた。
ミアが少し考えてから、その隣へ白い駒を置く。
それを待っていた。
リオンは角を取り、そこから一気に盤面の流れを変えていく。
「あれ?」
ミアの笑顔が消える。
数手前まで白の方が多かったはずなのに、終盤へ入ると黒い駒が急速に増えていった。
ミアが守ろうとした列も、端から次々と裏返される。
最後の駒が置かれた時には、盤面のほとんどが黒になっていた。
「……途中までは勝っていたと思ったのですが」
ミアが盤面を見つめたまま呟く。
「途中で多く取ることと、最後に多く残すことは別だからね」
「その言い方、前にも聞きました」
「でも、前よりずっと強くなっていたよ」
リオンが駒を箱へ戻しながら言う。
「本当ですか?」
「うん。少し油断したら、もっと危なかったと思う」
「少しだけですか?」
「前よりはかなりかな」
ミアは悔しそうに頬を膨らませた。
だが、すぐに駒を中央へ並べ始める。
「では、もう1回お願いします」
「まだやるの?」
「ハル領へ着くまで、時間はたくさんありますから」
「確かにそうだね」
再び盤上へ白と黒の駒が置かれていく。
◇
馬車は街道をゆっくりと進んだ。
途中で休憩を挟みながら、夕方には最初の宿場町へ到着する予定だった。
トラウゼン侯爵家までは、まだ2日ほどかかる。
その後も、ハル領まで同じくらいの道のりが残っている。
窓の外を眺め、ミアとリバーシをして、時折領地の様子を聞く。
そんなゆっくりとした時間を過ごすのは、久しぶりだった。
学生生活最後の夏休みは、静かな帰り道から始まった。
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