第364話 教える側も勉強中
婚約発表の翌朝。
セレナは普段と変わらない顔で教室へ入ってきた。
背筋は伸び、髪もきれいに整えられている。
だが、自分の席へ座ったセレナを見て、ミラがすぐに眉をひそめた。
「セレナ、昨日あまり寝てないでしょ」
「ちゃんと寝たわよ」
「何時間?」
「そこまで答える必要はないでしょう」
セレナは鞄から教科書を取り出した。
いつもより少しだけ動きが遅い。
「王宮では何をしていたの?」
「陛下と王妃様への挨拶に、王族との会食。それから今後の予定についての説明よ」
「全部、昨日やったの?」
「そうよ」
「それで何時間寝たの?」
「だから、どうしてそこへ戻るのよ」
ミラがじっと見つめると、セレナは顔を背けた。
「授業中に寝たりしないから問題ないわ」
「寝なければいいって話じゃないと思うけど」
「朝からうるさいわね。ミラは自分の領地経営の心配をしたら?」
「それはヴィクトルに教えてもらうから大丈夫」
「自信満々に人を頼らないでちょうだい」
セレナは強く言い返したものの、小さなあくびが出そうになったのか、慌てて口元へ手を当てた。
ミラは何も言わず、にやりと笑う。
「何よ」
「別に」
「その顔をやめなさい」
◇
放課後。
五年Sクラスの教室では、今日も机を寄せて試験勉強が始まった。
セレナはフィーネの隣へ座り、貴族儀礼の問題集を開く。
「晩餐会で王族と複数の公爵家当主が同席する場合、最初に案内されるのは誰でしょうか」
フィーネが問題文を読み上げる。
「主賓である公爵家当主よ」
「王族ではないのですか?」
「王族は最後に――」
そこまで言って、セレナが止まった。
フィーネは問題集とセレナの顔を交互に見る。
「セレナさん。昨日は、王族を先に案内すると教えていただきました」
「分かっているわ」
セレナはすぐに問題集を引き寄せた。
「今のは言い間違いよ。王族が先。その後、主賓の公爵家当主ね」
「はい」
「そんなに心配そうな顔をしなくても、答えは分かっているわ」
「セレナさんが間違えるのは珍しいと思いまして」
「私だって間違えることくらいあるわよ」
セレナは少し強くページをめくった。
その様子を見ていたミラが、隣の机から口を挟む。
「今日は帰って寝た方がいいんじゃない?」
「嫌よ」
「でも、疲れてるでしょ」
「婚約が発表された次の日に勉強会を休んで、試験の成績まで落としたら、何を言われると思う?」
「誰もそんなこと――」
「この教室の皆は言わないでしょうね。でも、外では違うわ」
セレナの声には、わずかな苛立ちが混じった。
「第二王子の婚約者になった途端、勉強がおろそかになった。
そう言いたがる人はいくらでもいるのよ」
「だからって、間違えるほど疲れてるなら逆効果じゃない?」
「一度言い間違えただけでしょう」
「その一度が珍しいって、フィーネも言ってたよ」
「ミラはどちらの味方なの?」
「セレナの味方だから言ってるの」
ミラが真っ直ぐ答えると、セレナは一瞬言葉を失った。
そこへエドガーが歩いてくる。
「今日は早く休んだ方がいい」
「エドガーまで同じことを言うの?」
「昨日、ほとんど休めていなかっただろう」
「エドガーだって同じでしょう」
「僕は問題ない」
「そういう言い方が気に入らないのよ」
セレナが椅子から立ち上がる。
「私だけ先に帰れと言うつもり?」
「そうは言っていない」
「なら、自分も帰りなさいよ」
エドガーは少し考えたあと、あっさり頷いた。
「分かった。今日は二人とも早く切り上げよう」
「……え?」
「王宮の予定は同じだった。僕だけ残る理由もない」
セレナは反論しようとして口を開いたが、言葉が出てこなかった。
「それなら文句はないだろう?」
「別に、文句を言っていたわけではないわ」
「今の会話を聞いて、そう思う者はいないと思う」
「エドガーは一言多いのよ」
セレナは座り直したものの、先ほどより表情が少し和らいでいた。
◇
少し離れた机では、ナディアがガイルへ王国史を教えていた。
「北方戦争が終結した翌年、北部三領では復興税が導入されました」
「なぜ北部だけなんだ?」
「戦争で破壊された街道や砦を修復するためです」
「王都も軍を送ったんだろう? なら、王都も費用を負担したのではないか?」
「もちろん負担しています」
「では、なぜ北部では別に税を取った?」
「それは……」
ナディアの言葉が止まった。
ガイルが顔を上げる。
「どうした?」
「少し待ってください」
ナディアは自分の教科書をめくった。
さらに王国史の資料集も開き、該当する項目を探す。
「教科書には、復興税が導入されたことしか書かれていません」
「ナディアにも分からないことがあるのか?」
「あります」
ナディアは迷わず答えた。
「だから調べるんです。分からないのに、分かったふりをして教える方が問題でしょう」
「怒っているのか?」
「怒っていません」
「少し声が強くなった」
「ガイルさんが、私なら何でも知っているような言い方をするからです」
「頼りにしているだけだ」
その言葉に、ナディアの手が止まる。
「……それなら、もう少し真面目に覚えてください」
「真面目にやっている」
「先ほどから、三回も訓練場の方を見ています」
「見ただけだ」
「今日も途中で行くつもりだったのでは?」
「少し体を動かそうとは思っていた」
「行かせません」
ナディアはガイルの前へ、もう一冊資料を置いた。
「北部の復興税については、明日までに調べます。
その代わり、ガイルさんは今日の範囲を全部覚えてください」
「増えていないか?」
「質問した分です」
ガイルは不満そうな顔をしながらも、資料を受け取った。
◇
「ヴィクトル、商品の損失率って、雨の日も晴れの日も同じなの?」
別の机では、ミラが領地経営の問題を指していた。
「試験問題では同じ数字が設定されている」
「でも、実際は雨の方が増えるよね?」
「荷台に覆いがなければな」
「街道の状態でも変わるでしょ?」
「変わる」
「じゃあ、この数字だけで計算していいの?」
ヴィクトルは問題文を読み直した。
「試験では、与えられた条件だけで答える」
「実際の領地経営では?」
「天候、街道、荷車の状態、運ぶ商品まで考える必要がある」
「全然違うじゃない」
「基礎計算を確認する問題だからな」
「でも、基礎だけ覚えてたら、実際にも同じ計算をしそう」
ヴィクトルはしばらく黙ったあと、別の紙を取り出した。
「では、試験用の計算を終えたあとで、条件を増やした場合も考えてみるか」
「そこまでやるの?」
「気になったのはミラだろう」
「聞いただけなんだけど」
「俺も気になった。教える以上、違いは説明できた方がいい」
ミラは少し驚いたあと、笑った。
「ヴィクトルって、真面目だよね」
「今さら気づいたのか?」
◇
リオンはレティシアの隣で、正式術式記述法の練習をしていた。
「この線は、循環ではなく出力を表します」
「向きが違うだけだよね?」
「その向きで意味が変わるのです」
レティシアはリオンの答案へ修正を書き込む。
「では、どうして循環は右回りで、出力は左向きなんだろう?」
「決まりだからです」
「決まりになった理由は?」
「それは……」
レティシアの筆が止まった。
「正式表記が統一された経緯までは、授業で扱っていません」
「そうなんだ」
「知らないことが意外そうですね」
「レティシアなら知っていると思っただけだよ」
「私もすべて知っているわけではありません」
少し悔しそうに言うと、レティシアは教科書の後ろにある参考文献へ目を向けた。
「ですが、調べれば分かるはずです」
「試験に出るのは記号の使い方だよ?」
「質問された以上、理由まで知っておきたいのです」
リオンは思わず笑った。
「何ですか?」
「いや。みんな同じだなと思って」
「何が同じなのです?」
リオンは教室を見回した。
ナディアは、ガイルへ教えるために自分でも資料を調べている。
ヴィクトルは、ミラの質問をきっかけに、試験問題と実務の違いを考え直している。
セレナは疲れていても、フィーネへ教えようとしていた。
教える側だから、すべてを知っているわけではない。
相手から質問されることで、自分が曖昧にしていた部分へ気づくこともある。
「教える方も、勉強しているんだなって」
「当然です」
レティシアは即答した。
「曖昧な理解で教えれば、相手まで間違えますから」
「そうだね」
リオンは、自分の前に置かれた問題へ目を戻した。
これまで期末試験について、それほど心配していなかった。
応用問題や研究コースの専門試験なら、これまでの経験で対応できる。
筆記試験も、抜けている範囲だけ覚えれば十分だと思っていた。
だが、仲間たちは自分が点を取るためだけでなく、誰かへ正しく教えるためにも学び直している。
自分だけが、最低限できればいいと考えている場合ではなかった。
「レティシア」
「何ですか?」
「今日の予定より先まで教えてもらってもいい?」
「今日は基礎記号までの予定でしたが」
「飛び級で抜けているのが、ここだけとは限らない。一度、四年生の範囲を全部確認したいんだ」
レティシアがわずかに目を見開く。
「研究所へ行かなくてもよいのですか?」
「今は、必要な時だけ呼んでもらうことになっている。学院の勉強に使える時間はあるよ」
「分かりました。では、明日までに四年生の範囲を整理しておきます」
「ありがとう」
話を聞いていたミラが、こちらを向いた。
「リオンまで本気になったね」
「みんなを見ていたら、俺ももう少し頑張った方がいいと思って」
「これ以上頑張るのか?」
ガイルが不安そうに言う。
「ガイルも頑張ろう」
「俺はもう十分頑張っている」
「まだまだです」
ナディアが即座に否定する。
「昨日よりは覚えた」
「昨日より覚えるのは当然です」
「厳しくないか?」
「試験まで六日しかありませんから」
ガイルは机へ突っ伏した。
◇
勉強会を終える少し前。
セレナとエドガーは、約束どおり早めに帰る準備を始めた。
セレナは鞄を持ち上げたあと、リオンの机に積まれた四年生の教科書を見る。
「ずいぶん増えたわね」
「抜けている範囲を全部確認することにしたんだ」
「そう」
セレナは一度頷き、フィーネへ教えていた問題集を見た。
「それなら、私も明日は間違えないわ」
ミラが呆れた顔をする。
「今日は休むって話だったでしょ」
「今日は休むわ。明日の話をしているのよ」
「本当に負けず嫌いだね」
「試験を受けるのに、負けるつもりで勉強する人がいるの?」
セレナは言い返し、エドガーとともに教室を出ていった。
その背中には、まだ少し疲れが残っている。
それでも明日は、また普段どおり教室へ来るのだろう。
教えるために学び直す者。
忙しくても結果を落としたくない者。
知らないことを認め、資料を調べる者。
仲間たちがそこまで真剣に取り組んでいるのに、自分だけ最低限で済ませるつもりはなかった。
期末試験まで、あと六日。
リオンも改めて、学院の勉強へ本気で向き合うことにした。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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