第362話 Sクラスにも苦手はある
六月も半ばに入った朝。
五年Sクラスの教室へ入ってきたアデライン先生は、教卓の上へ紙の束を置いた。
「今日は、二週間後に行われる期末試験について説明します」
その言葉を聞いた瞬間、教室の空気がわずかに重くなった。
アデライン先生は、生徒たちへ試験日程と範囲表を配っていく。
「このクラスは飛び級の方が多いので説明しますが、四年生以降の期末試験は三日間です」
黒板へ、一日目から三日目までの日程が書かれる。
「一日目は共通科目の筆記試験。二日目は応用試験と実技試験。三日目は、それぞれの専門コース試験を行います」
リオンは配られた紙へ目を落とした。
一日目には、王国史、魔法理論、行政、領地経営、古代語。
二日目には、条件判断を含む応用問題と、魔法や武術などの実技。
三日目には、研究コースの専門試験が待っている。
「範囲、広すぎないか?」
ガイルが早くも声を上げた。
「一日目だけで、これだけあるのか?」
「五年生の期末試験ですから」
アデライン先生は当然のように答えた。
「それに、皆さんはSクラスです」
「Sクラスなら、範囲が少なくなることはありませんか?」
「むしろ増やしてもよいくらいです」
「聞かなければよかった」
ガイルが肩を落とし、教室に小さな笑いが起きた。
「五年Sクラスだからといって、すべての科目が得意とは限りません」
アデライン先生は教室を見渡した。
「自分の苦手な分野を確認して、今から準備してください。
試験の三日前になってから、範囲が広いと言っても遅いですよ」
その視線が一瞬ガイルに止まる。
「なぜ俺を見るんですか?」
「理由を説明する必要がありますか?」
「ありません」
今度は、先ほどより大きな笑いが起きた。
◇
休み時間になると、生徒たちはすぐに試験範囲表を広げ始めた。
「王国史だけで、どれだけ覚えればいいんだ」
ガイルは紙を両手で持ち、険しい表情を浮かべている。
「建国期から北方戦争後の条約まで全部か。前に覚えたはずなのに」
「覚えていないから困っているのでしょう」
隣からナディアが言った。
「覚えたんだ。ただ、試験が終わると少しずつ消える」
「それは覚えたとは言いません」
「一度は答えられた」
「一時的に頭へ置いただけです」
ナディアはガイルの範囲表を受け取り、王国史の項目へ目を通した。
「ガイルさんは、年号だけを覚えようとするから忘れるんです」
「では、どうすればいい?」
「出来事の流れで覚えます。戦争が起きた理由、その結果、どの条約が結ばれたのか。
全部つながっていますから」
ガイルは少し考え、ナディアへ真剣な顔を向けた。
「ナディア。今回も教えてくれ」
「ええ、いいですよ。一緒に勉強しましょう」
「助かる」
「ただし、途中で訓練場へ行かないでくださいね」
「体を動かした方が頭に入ることもある」
「前回は、体を動かしたまま戻ってきませんでした」
「訓練が長引いたんだ」
「今回は長引かせないでください」
「分かった」
ガイルが素直に頷く。
ナディアは少し疑うように見つめたあと、範囲表を返した。
「今日の放課後から始めますよ?」
「今日から?」
「二週間しかありません」
「明日からでも同じではないか?」
「では、今日からにしましょう」
「話を聞いていたか?」
「聞いた上で、今日からです」
ガイルは助けを求めるように周囲を見たが、誰もナディアを止めようとはしなかった。
◇
「私は領地経営が危ないかも」
ミラも範囲表を見ながら、困った顔をしていた。
「収支だけなら分かるけど、輸送費や人件費まで一緒に出てくると、途中で何を計算していたのか分からなくなるんだよね」
ヴィクトルがミラの範囲表をのぞき込む。
「今回は、倉庫の維持費と商品の損失率まで入るようだな」
「それが嫌なの。数字が増えるたびに、計算する場所も増えるでしょ?」
「項目を分ければいい。収入、固定費、変動費だ」
「その三つに分けるだけ?」
「最初はな。全部を一度に計算しようとするから混乱するんだ」
ミラは少しだけ安心した顔になる。
「じゃあ、ヴィクトルに聞けば何とかなりそう」
「教えるのは構わないが、俺も魔法実技を見てほしい」
「ヴィクトル、実技が苦手だもんね」
「苦手というほどではないけどさ、ただ、魔力を一定に保つ課題で点を落とすことがあるんだよな」
「分かった。そこは私が見るよ」
二人の間で、あっさりと教え合う約束が成立した。
その近くでは、フィーネが貴族儀礼の範囲を見て眉を寄せている。
「晩餐会の席順まで試験に出るのですか?」
セレナがフィーネの紙を見る。
「席順だけではなく、同席者の爵位と立場によって対応を変える問題も出るわ」
「同じ食卓に座るのに、そこまで決まりがあるのですね」
「間違えると、相手を軽く扱ったと思われる場合があるわ」
「難しいです」
フィーネは率直に言った。
「生活に必要な行政の仕組みなら覚えられます。でも、誰がどこに座るかは、理由が分からないものが多くて」
「理由も一緒に説明するわ」
セレナが穏やかに答える。
「ただ暗記するより、その方が覚えやすいでしょう?」
「お願いします」
フィーネは少しほっとしたように頭を下げた。
◇
リオンも、自分の試験範囲を確認していた。
応用問題と研究コースの専門試験には、それほど不安はない。
だが、筆記試験の魔法理論には、見覚えのない項目がいくつかあった。
「正式術式記述法……」
小さく呟くと、隣にいたレティシアが反応した。
「どうかしましたか?」
「この辺り、習った記憶がないんだ」
リオンが指したのは、四年生で学ぶ術式記号と、学院独自の魔法分類だった。
レティシアは範囲表を確認する。
「これは四年生の魔法理論で習います」
「飛び級した時に、自習から抜けていたのかもしれない」
「これを知らないまま試験を受けるのは危険です」
「そんなに?」
「理論が合っていても、指定された記号を使わなければ減点されます」
レティシアは自分のノートを開き、術式記号を一つ書いた。
「たとえば、これは魔力の起点です。
こちらは循環。この二つを同じ線で書くと、意味が変わります」
「研究所では、矢印で書いても通じたけど」
「研究員の方々は、前後の説明から読み取ってくれるのでしょう」
レティシアはきっぱりと言った。
「試験答案は、読む側に意味を推測させてはいけません」
「なるほど」
「魔法を使えることと、正式な書き方を知っていることは別です」
「耳が痛いね」
リオンは苦笑した。
そこへ、ナディアとの話を終えたガイルが近づいてくる。
「リオン、二日目の応用問題を教えてくれないか?」
「いいよ。でも、俺もレティシアに教えてもらわないといけないところがある」
「リオンにも分からないものがあるのか?」
ガイルの声に、近くの生徒たちも振り返った。
「分からないというより、習っていない書き方があったんだ」
「飛び級しているからな」
「たぶんね」
レティシアが補足する。
「考え方を理解していても、答案として正しく書けなければ点にはなりません」
「研究所に通っているリオンでも、試験では困ることがあるんだな」
ガイルはどこか安心したように言った。
「どうして安心してるの?」
「俺だけではないと分かったからだ」
「苦手な科目の数は、ガイルの方が多いと思うよ」
ミラが遠慮なく言う。
「それは今、関係ないだろう」
「関係あるよ」
ガイルが言い返そうとしたところで、ミラが皆の範囲表を見回した。
「だったらさ、一人で全部やるより、得意な人が教え合えばいいんじゃない?」
教室が少し静かになる。
「ガイルはナディアに王国史を教えてもらう。私はヴィクトルに計算を教えてもらって、代わりに魔法実技を見る」
「俺はレティシアに術式記述を教えてもらうことになるね」
リオンが言う。
ナディアも頷いた。
「リオンさん一人に聞くより、その方が負担も少ないと思います」
「だが、全員で集まる必要はあるのか?」
クラウスが尋ねる。
「分からないところが違うなら、近くに得意な人がいた方が早いでしょ」
ヴィクトルがミラに続いた。
「試験まで二週間しかないんだから、使えるものは何でも使わないとな」
「人を物のように言うな」
ガイルが言う。
「ガイルはまずナディアの言うことを聞いた方がいいよ」
「それはもう決まっているらしい」
ナディアが範囲表を持ち上げた。
「今日の放課後からです」
ガイルは諦めたように息を吐いた。
「分かった。皆でやろう」
◇
生徒たちは、それぞれ得意な科目を確認し始めた。
「王国史と古代語は、私が見ます」
ナディアが言う。
「特にガイルさんは、最初からです」
「全部忘れているわけではない」
「では、確認してから決めます」
ヴィクトルは商業計算と領地経営を担当する。
ミラは魔力感知と魔法実技。
レティシアは魔法理論と正式な術式記述。
セレナとエドガーは、貴族制度と外交儀礼。
フィーネは行政実務や、住民生活を想定した応用問題。
オスカーとガイルは、戦術と護衛、武術実技を見ることになった。
「リオンは?」
ミラが尋ねる。
「複数の条件が出る応用問題と、研究関連なら教えられると思う」
「では、考えすぎて時間を使う人にも教えてください」
レティシアが言った。
「レティシアのこと?」
「自分でも分かっています。一つの可能性を考え始めると、切り替えが遅くなることがありますから」
「それなら、時間の使い方を一緒に考えよう」
レティシアは頷いた。
リオンは、教室の仲間たちを見回した。
Sクラスだからといって、誰もが何でもできるわけではない。
だが、それぞれ違うものを得意としている。
一人では埋められない穴も、皆でなら補えるかもしれない。
「それじゃあ、放課後から始めようか」
リオンが言うと、ガイルだけがわずかに顔をしかめた。
「本当に今日からなのか?」
「もちろんです」
ナディアが即答する。
期末試験まで、あと二週間。
五年Sクラスの試験勉強が始まろうとしていた。
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