第360話 借りた本を書き写す理由
共同給水塔の課題から数日後。
放課後の学院図書室で、リオンは次の総合科目に使えそうな資料を探していた。
王都の公共設備について書かれた棚を見ていると、奥の閲覧机に見覚えのある姿があった。
フィーネだ。
机の上には、分厚い参考書と何枚もの紙が広げられている。
フィーネは参考書を読みながら、文章や図を一つずつ紙へ書き写していた。
「フィーネ」
声をかけると、フィーネが顔を上げた。
「リオン君」
「まだ残ってたんだ」
「少し調べたいことがあったので」
机の上にあるのは、『王都公共設備と魔力供給』という参考書だった。
先日の共同給水塔の課題でも、アデライン先生が参考資料として名前を挙げていた本だ。
「給水塔について調べてるの?」
「はい。レティシアさんが説明していた補助術式の干渉を、もう少し理解したくて」
フィーネが開いているページには、給水設備に使われる魔力循環の仕組みが描かれていた。
ただ、リオンには気になる点があった。
「その本、何版?」
「何版?」
フィーネは表紙をめくり、奥付を確認した。
「十二年前に出版されたものです」
「やっぱり」
「何かおかしいのですか?」
「最新版では、この辺りの説明が少し変わってるんだ」
リオンは、フィーネが書き写していた図を指した。
「この本だと、補助術式を加えれば魔力の流量を増やせるとだけ書いてある。でも最新版では、元の術式との干渉についても説明されてる」
「干渉について?」
「うん。追加する位置や魔力量を間違えると、魔力が一部に偏ることがある。安全装置をつける必要があるとも書かれてるよ」
フィーネは、自分が書き写した紙を見た。
「では、この内容を覚えると間違いになるのですか?」
「全部が間違っているわけじゃない。ただ、今の基準では説明が足りないんだと思う」
「最新版は、図書室にありますか?」
リオンは棚の方を見た。
「閲覧用が一冊あったはずだけど、今は誰かが使ってるみたいだね」
最新版が置かれている場所は空いていた。
フィーネは少し困ったように、古い参考書へ視線を戻した。
「それなら、返却されるまで待ちます」
「俺のを見てみる?」
「持っているのですか?」
「うん。研究所で給水設備の資料を調べる時に買ったんだ」
リオンは鞄から一冊の本を取り出した。
同じ題名だが、表紙の色と厚さが少し違う。
フィーネはすぐには手を伸ばさなかった。
「借りてもよろしいのですか?」
「持って帰るのが気になるなら、ここで一緒に確認しよう。俺も復習になるから」
リオンは向かいの席へ座り、最新版を開いた。
フィーネも、旧版をその隣へ並べる。
二冊を比べると、違いは思っていたより多かった。
補助術式の干渉。
給水量を急に増やした場合の危険。
魔石の劣化を調べる新しい方法。
旧版では数行しかなかった部分が、最新版では一つの章になっている。
「こんなに変わっていたのですね」
「この十二年で、事故や研究結果が増えたんだと思う」
フィーネは新しくなった部分を紙へ書き始めた。
「全部を書き写すの?」
「はい。最新版をいつでも借りられるとは限りませんから」
リオンは、机の上に積まれた紙を見た。
給水設備だけではない。
魔法理論、王国法、領地運営について書かれた資料もある。
「いつもこうしてるの?」
フィーネの手が一瞬止まった。
「必要な本を、すべて買うことはできませんから」
その声に、恥ずかしさはなかった。
ただ、事実を説明しているだけだった。
「学院の授業料は免除されています。でも、参考書まですべて用意してもらえるわけではありません」
「そうなんだ」
「授業で必ず使う教科書は買います。それ以外は、図書室で借りて必要な部分を書き写しています」
リオンは、それ以上、家の事情を尋ねなかった。
聞かなくても分かる気がした。
前の人生でも、教科書や参考書を好きなだけ買えたわけではない。
奨学金を借り、授業のない時間には働いて、学費や生活費を補っていた。
図書館の本を期限までに読み、必要な部分だけを書き写したこともある。
友人が簡単に買っていた本を、自分は何日も迷ってから諦めたこともあった。
だから、ここで本を買って渡すことが正しいとは思わなかった。
フィーネが欲しいのは、誰かに恵んでもらうことではない。
同じように学べる機会だ。
「でも、旧版しか借りられないと困るね」
「読めないよりはいいです」
「内容が変わった場所だけでも、分かるようになっていた方がよくない?」
フィーネが顔を上げた。
「どういう意味ですか?」
「旧版の近くに、最新版との変更箇所をまとめた紙を置くんだ」
リオンは空いている紙へ、簡単な案を書いた。
「何章のどこが変わったか分かれば、古い本を読む人も、その部分だけ最新版を確認できる」
「でも、誰がそれを作るのですか?」
「最初は、俺たちで作れないかな」
「俺たち?」
「今、二冊を比べてるだろう?」
フィーネは旧版と最新版を見比べた。
「この本だけなら、できると思います」
「ほかにも改訂された本があるはずだよ。
全部を俺たちだけで調べるのは難しいけど、図書室で古い本を借りる人に分かる仕組みは作れるかもしれない」
フィーネは少し考えてから言った。
「私のためだけなら、そこまでしなくていいです」
「フィーネだけじゃないと思う」
リオンは図書室を見回した。
離れた席では、下級生が傷んだ教科書を読んでいる。
「今まで誰も言わなかっただけで、同じように旧版を使っている生徒はいるかもしれない」
「……いると思います」
フィーネが静かに答えた。
「平民出身の生徒だけではありません。兄弟の多い家や、領地からの仕送りが少ない生徒もいます」
「なら、その人たちにも使えるようにしよう」
「先生にお願いするのですか?」
「まずは図書室の先生に相談してみる。改訂箇所の一覧を置いてもらえるか聞いてみよう」
「最新版を増やしてもらうのではなく?」
「新しい本を全部そろえるには、お金がかかるからね。それに、旧版でも使える部分は多い」
古い本を捨てるのではなく、変わった部分だけ補う。
それなら、限られた本を多くの生徒が使える。
「卒業した生徒が、使わなくなった参考書を学院へ渡せるようにするのもいいかもしれない」
「寄贈ですか?」
「うん。必要な人が借りられるようにする」
フィーネはすぐには答えなかった。
「それなら、私も手伝います」
「いいの?」
「私だけが本をもらうわけではありませんから」
フィーネは旧版の目次を開いた。
「まず、この本の変更箇所を調べましょう。どこが変わったのか分からなければ、図書室の方にも説明できません」
「そうだね」
二人は机の上に二冊の参考書を並べた。
リオンが最新版を読み、フィーネが旧版との違いを記録していく。
しばらくすると、フィーネが小さく口を開いた。
「リオン君」
「何?」
「本を買ってくれると言われたら、断っていたと思います」
「言わなくてよかった」
「でも、一緒に調べるのは助かります」
フィーネはそう言って、再び紙へ視線を落とした。
「同じように困っている人が減るなら、もっと助かります」
借りた本を書き写す理由を、リオンは尋ねなくても理解できた。
だからこそ、一冊の本を渡して終わらせるのではなく、誰でも必要な知識へ届く方法を考えたかった。
図書室の閉館を知らせる鐘が鳴るまで、二人は旧版と最新版を比べ続けた。
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