第354話 最も危険な魔法
王宮から書状が届いた翌日。
放課後に王立研究所を訪れたリオンは、ヴァイス所長の机の前に呼ばれた。
机の上には、王宮からの書状と、数枚の白紙が並べられている。
「今日は実験ですか?」
「いや。王宮への回答をまとめる」
所長は書状を手に取った。
「可能性ではなく、現時点で確認できている事実を答える。できることと、できないことを明確にするぞ」
「分かりました」
記録係の研究員が、二人の向かいでメモをとる準備をしていた。
所長が最初の質問を読み上げる。
「浮遊魔法で、人間や大型の荷を運ぶことは可能か」
リオンは少し考えてから答えた。
「今の研究所では、難しいと思います」
「研究員が浮かせられるのは、小さな金属片や木片だけだな」
「はい。それも、まだ安定していません」
数秒間浮くことはある。
だが、成功率は低く、わずかな魔力の乱れで落下する。
荷物を運べる段階ではなかった。
「君自身は浮かべるのだろう?」
「はい」
「では、人間を浮かせることは可能と書くべきか?」
「自分以外の人は無理です」
所長が眉を上げる。
「違いは何だ」
「自分の身体なら、傾いた時に姿勢を直せます。魔力の流れも自分で感じられます」
「他人では、それができない?」
「はい。相手が動くと、支える風も変えなければなりません。今の自分では、うまく合わせられません」
「大型の荷は?」
「小さな荷物なら少し浮かせられます。でも、大型の荷物を運べるほど安定させることはできません」
所長が記録係へ顔を向ける。
「浮遊魔法については、リオン・ハル本人の身体を除き、人間および大型荷物の運搬は現時点では不可能」
「はい」
「研究員による再現は、小型物体を短時間浮遊させる段階にある、と加えろ」
記録係が書き留める。
「将来的な可能性は、どうしますか?」
「書かなくていい」
所長は即答した。
「王宮が求めているのは予想ではない。今できるかどうかだ」
リオンは静かに頷いた。
所長は次の質問へ移った。
「転移魔法は、壁や防護結界を越えられるか」
「普通の壁なら越えられます」
記録係の手が一瞬止まった。
所長は表情を変えずに尋ねる。
「壁の向こう側が見えなくてもか?」
「先に魔力の印を置いてあれば大丈夫です」
「壁を通り抜けているわけではないのだな」
「はい。壁の向こうにある魔力を探して、そこへ移動します」
「壁の厚さは関係あるか?」
「印を感じ取れる距離なら、あまり関係ないと思います」
所長は短く息を吐いた。
「城壁も越えられる可能性があるわけか」
「印を残せれば、ですが」
王宮の書状には、王宮内に魔力印を置かれた場合についても書かれている。
一度内部へ入った者が印を残し、後から転移で戻る。
王宮が恐れているのは、それだった。
「では、防護結界は?」
「防護結界がある場所へは転移できません」
「結界が転移を弾くのか」
「違います。結界の向こう側にある魔力印を感じ取れなくなると思うんです」
所長が書状を机に置く。
「印を見失うため、転移先を指定できない?」
「はい。魔力印をはっきり感じられない状態では、転移魔法を使えません」
「王宮内に印が残っていても同じか?」
「外側から探知できなければ、戻れません」
所長はしばらく黙った。
「王宮は防護結界で覆われている」
「では、転移では入れないと思います」
「結界が正常に働いている限りは、だな」
「はい」
防護結界に切れ目があればどうなるか。
結界が一時的に弱まれば、魔力印を感知できるのか。
まだ確認されていないことは多い。
それでも、転移魔法への対策がすでに存在していることは確かだった。
「転移魔法は通常の壁を越えられる。ただし、防護結界によって転移先の魔力探知を阻害すれば、転移は不可能」
所長が記録係へ告げる。
「王宮の結界が維持されている限り、外部からの転移侵入はできないと記せ」
「はい」
所長は最後の質問へ目を落とした。
「亜空間収納魔法に武器を入れ、検査を受けずに王都へ持ち込めるか」
リオンはすぐには答えなかった。
答え自体は、すでに分かっている。
「できます」
実験室が静かになった。
所長は机の脇にいた研究員を見る。
「確認する。実験用の短剣を持ってきてくれ」
運ばれてきたのは、鞘に入った短い剣だった。
刃や柄には、確認用の印がつけられている。
「収納してみろ」
「はい」
リオンが短剣へ触れる。
次の瞬間、鞘ごと手元から消えた。
所長はリオンの周囲を見回す。
「服や荷物を調べろ」
二人の研究員が、リオンの上着や鞄を確認した。
「ありません」
「魔力反応は?」
「リオン君本人の魔力は感じますが、短剣の位置は分かりません」
所長がリオンを見る。
「取り出してくれ」
リオンが手を伸ばすと、先ほどの短剣が現れた。
研究員が印や重さを確認する。
「同じものです。変化もありません」
「門で通常の検査を受けても、見つからないな」
「はい」
リオンは答えた。
「毒物はどうだ」
「容器に入っていれば収納できます。薬や水を入れた瓶も入りますから」
「危険な魔石や禁制品も?」
「物であれば、入れられると思います」
所長の表情が険しくなる。
「生き物はどうだ」
「入りません」
「人間も?」
「無理です。動物や魔物も入りません」
「大きさの問題か?」
「いえ。小さな虫でも、生きているものは収納できません」
以前、リオンも試したことがある。
亜空間収納は、生きたものを入口の先へ受け入れなかった。
「死んだものは?」
「収納できます」
「つまり、生きているかどうかを何らかの形で判別している」
「そうだと思います」
所長は机の上の短剣を見た。
兵士や魔物を隠して運び込むことはできない。
だが、武器や毒物を持ち込むには十分だった。
「外から収納している物を確認する方法は?」
「自分には分かりません」
「術者以外が取り出すことは?」
「今のところできません」
所長が記録係へ指示する。
「亜空間収納には、武器、毒物、危険な魔石を含む無生物を収納できる。
現在の検査方法では、収納物の発見は不可能」
「はい」
「人間、動物、魔物を含む生物は収納できないことも記せ」
三つの質問への回答がそろった。
浮遊魔法は、まだ人や大型の荷物を運べない。
転移魔法は壁を越えられるが、防護結界で防ぐことができる。
亜空間収納魔法は、現時点ですでに武器や毒物を隠せる。
「王宮が一番恐れているのは、転移魔法だと思っていました」
リオンが言った。
「私も、書状を読んだ時にはそう考えた」
所長は短剣を指先で軽く叩く。
「だが、転移には魔力印が必要で、防護結界という対策もある」
「亜空間収納には、対策がありません」
「少なくとも、今の王国にはな」
リオンは短剣を見つめた。
自分にとって、亜空間収納は便利な魔法だった。
荷物を持たずに移動できる。
必要な道具を、いつでも取り出せる。
だが同じ方法で、剣も毒も隠すことができる。
「亜空間収納を使えるのは、今のところ自分だけです」
「だから安全だと言いたいのか?」
「いえ。ただ、急いで対策を作る必要があるのかと思って」
所長は首を横に振った。
「君だけが使えるうちに対策を作るのだ」
福嶋亮太の理論は、すでに研究員たちの手に渡っている。
浮遊魔法は、不完全ながら再現された。
今は誰にも使えなくても、いつか亜空間収納を再現する者が現れるかもしれない。
「使える者が増えてからでは遅い」
「はい」
「王宮への回答には、亜空間収納の反応を検知する方法と、収納物を確認する方法の研究が必要だと加える」
記録係が最後の一文を書き込んだ。
所長は完成した回答書へ目を通す。
「壁を越えて現れる転移魔法は、確かに恐ろしい」
机の上には、亜空間収納から取り出された短剣が置かれている。
「だが、今の王国にとって最も危険なのは、何も持っていないように見える者だ」
目に見える壁には、防護結界を張ることができる。
だが、見えない場所に隠されたものを防ぐ方法は、まだ誰も知らなかった。
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