第352話 再現できない魔法
王立研究所で、王宮提出用の報告書に自分の名が載ると知らされてから、数日が過ぎた。
リオンはいつも通り学院の授業を受けていたが、頭の片隅には、あの草稿の表紙が残っていた。
王宮提出用草案。
福嶋亮太記録に関する第一次報告。
前世で、書類に名前が残ることの意味をリオンは知っている。
それは、関わった事実が残るということだ。
成果も。
判断も。
責任も。
後から誰かが見た時、その名前は逃げ場のない証になる。
その日の放課後、リオンは再び王立研究所へ向かった。
今回は所長室ではなく、実験棟へ案内された。
王立研究所の奥にある実験棟は、普段リオンが訪れる資料室や所長室とは空気が違っていた。
廊下には、魔石を運ぶ研究員が行き交っている。
壁際には、計測用の札や金属製の箱が並べられていた。
奥の扉を抜けると、広めの実験室に出る。
床には円形の印が描かれ、中央の台には小さな金属片が置かれていた。
周囲には数人の研究員が立っている。
記録係らしい若い研究員は、すでに記録用紙を開いていた。
部屋の奥には、ヴァイス所長がいた。
「来たか、ハル」
「はい」
リオンは頭を下げた。
所長は台の上の金属片を見てから、リオンへ視線を戻す。
「今日は、三つの魔法について実際の確認に入る」
その言葉に、室内の空気が少し引き締まった。
浮遊魔法。
転移魔法。
亜空間収納魔法。
福嶋亮太の本に記されていた三つの魔法。
そして、現時点でリオンだけが使える三つの魔法。
所長は続けた。
「研究所でも、福嶋亮太の理論をもとに発動実験は進めている。
だが、三つとも安定した発動には至っていない」
「三つとも、ですか」
「そうだ。魔力反応は出る。術式の一部も反応する。だが、結果に届かない」
所長の声に苛立ちはなかった。
ただ、事実を正確に述べているだけだった。
「だから今日は、君の発動を確認し、研究員たちの試行とどこが違うのかを記録する」
「分かりました」
リオンは頷いた。
実験室の中央に置かれた金属片を見る。
指先ほどの大きさの、小さな銀色の欠片だった。
「まずは浮遊魔法だ」
所長が言うと、一人の研究員が台の前に立った。
年配の男性研究員だった。
手元の術式紙を確認し、金属片に向かって魔力を流す。
部屋の空気がわずかに震えた。
金属片の周囲に、淡い光が滲む。
リオンにも、魔力が反応していることは分かった。
しかし、金属片は浮かない。
わずかに震えただけで、台の上に残った。
記録係が淡々と言う。
「反応あり。浮上なし」
次に、別の研究員が試した。
術式紙を変え、魔石の位置も少しずらす。
だが結果は同じだった。
金属片は小さく震えたが、浮かなかった。
「反応あり。浮上なし」
同じ言葉が、また記録される。
所長はリオンを見た。
「ハル。君ならどうする」
リオンは台の前へ進んだ。
金属片を見下ろす。
福嶋亮太の理論には、空中に立つように、と書かれていた。
落ちるものを引き上げるのではない。
空中に足場を置くように。
そこにあるものとして扱う。
この世界の研究員たちにとっては、おそらく奇妙な比喩に見えるのだろう。
空中に足場はない。
足場がない場所に立つことはできない。
だから、魔力で見えない足場を作るのだと読む。
だが、リオンには少し違って見えていた。
前世で見た、空を飛ぶ戦士たちの技。
地面を蹴るわけではない。
翼があるわけでもない。
だが、彼らは空中で姿勢を保ち、自由に動いていた。
あの映像が、リオンの中には残っている。
ただ、福嶋亮太の理論だけでは、リオン自身もうまく安定しなかった。
重さを完全に消すことはできない。
空中に本当の足場を作ることもできない。
だから、リオンは風魔法を混ぜた。
下から支える。
空気の流れを作る。
落ちるはずの金属片を、落ち切る前に留める。
浮いているように見える形へ持っていく。
リオンは静かに息を吸った。
金属片へ魔力を流す。
福嶋亮太の理論を土台にする。
そこに、薄く風魔法を重ねる。
金属片の周りに、小さな風が生まれた。
次の瞬間。
金属片が、台からふわりと離れた。
室内の空気が止まったように感じた。
金属片は、指二本分ほどの高さで静かに浮かんでいる。
記録係が一瞬だけ手を止めた。
すぐに所長の声が飛ぶ。
「記録を続けろ」
「は、はい。浮上確認。持続計測開始」
研究員たちは驚いていた。
だが、叫ぶ者はいない。
王立研究所の研究員らしく、驚きながらも目は金属片を追い、手は記録へ戻っていく。
やがて、リオンが魔力を緩めると、金属片は静かに台の上へ戻った。
「記録できました!」
記録係が言った。
所長は金属片を見つめ、それからリオンを見る。
「今、理論通りにしただけではないな」
リオンは頷いた。
「はい。自分は、風魔法を少し混ぜています」
「風魔法を?」
「福嶋亮太の理論だけでは、自分の場合も安定しませんでした。
完全に重さを消すというより、風で下から支えて、落ちない状態を作る感覚です」
所長の目が細くなる。
「つまり、君は理論を再現しただけではなく、補っているのか」
「そうだと思います」
リオンは正直に答えた。
「福嶋亮太の理論は、浮くための考え方を示しています。
でも、自分が使う時は、それだけでは足りなかったので、風魔法を組み合わせています」
所長はしばらく黙った。
怒っているわけではない。
むしろ、新しい手がかりを見つけた研究者の顔だった。
「同じ条件で、もう一度試す」
所長が研究員へ指示する。
先ほどの男性研究員が再び台の前に立つ。
今度は、リオンが使った金属片をそのまま使う。
位置も同じ。
魔石の配置も同じ。
風魔法を補助的に混ぜるという条件も加えた。
研究員は慎重に魔力を流す。
金属片が震える。
しかし、浮かない。
「反応あり。浮上なし」
記録係の声が響く。
所長は腕を組んだ。
「条件を近づけても、結果がそろわない。問題は術式だけではないようだな」
リオンは台の上の金属片を見つめた。
自分にはできる。
だが、他の人にはできない。
それは、単に魔力の量だけの問題ではない気がした。
次に、転移魔法の確認に移ることになった。
ただし、リオンは先に伝えた。
「自分は、物だけを転移させたことはありません」
所長が眉を動かす。
「物だけを?」
「はい。これまで使っていたのは、自分自身を移動させる転移魔法です」
室内の空気が、また変わった。
転移魔法。
それも、人間自身の転移。
研究員たちの顔に緊張が浮かぶ。
所長はすぐに判断した。
「ここでは狭い。広い実験場へ移る」
リオンたちは、実験棟の奥にある大きな空間へ移動した。
そこは、訓練場にも似た広さがあった。
床には、距離を測るための線と印が描かれている。
壁際には厚い防護板が置かれ、研究員たちはその後ろへ下がった。
記録係が数人に増える。
所長は床の印を指した。
「距離は短くする。移動先は目で見える場所。無理はしない。違和感があれば中止だ」
「はい」
「移動先は、あの印だ」
所長が示したのは、リオンの立っている場所から十歩ほど離れた円形の印だった。
リオンはまず、その印の前まで歩いた。
研究員の一人が不思議そうに目を細める。
「何をするのですか」
「転移先に、自分の魔力の印を置きます」
リオンはそう答えた。
床に描かれた円形の印の中央に手をかざし、ごく薄く魔力を流す。
目に見えるほどの光はない。
だが、リオン自身には分かった。
そこに、自分の魔力が残ったことが。
ほんの小さな灯りのようなもの。
暗い場所で、遠くにある火を見つけるような感覚。
リオンは元の位置まで戻った。
所長が尋ねる。
「転移先に魔力を残すのか」
「はい。自分の転移魔法は、転移先に置いた魔力の印をたどる感覚です」
「座標だけで移動するのではない、と」
「はい。場所を数字のように指定するというより、先に置いた自分の魔力を追いかけます」
所長は記録係へ視線を向けた。
「今の説明を記録しろ。転移先に術者本人の魔力印を設置。術者はその魔力反応を追跡して転移する」
「はい」
リオンは改めて、転移先の印を見つめた。
福嶋亮太の本には、目的地へ自分を重ねる、と書かれていた。
そして、離れた場所にある気配をたどる、とも。
この世界の研究員たちには、奇妙な比喩に見えるのかもしれない。
だが、リオンには分かる。
前世で見た、遠くの気配をたどって一瞬で移動する技。
あのイメージが、リオンの中にはある。
相手の気を感じる。
その気配を追う。
次の瞬間、そこへ移る。
リオンの転移魔法において、その“気配”にあたるものが、転移先に残した自分の魔力だった。
リオンは、十歩先に残した自分の魔力を探る。
リオンは静かに魔力を流した。
景色が、一瞬だけずれた。
次の瞬間、リオンは移動先の印の上に立っていた。
実験場が静まり返る。
先ほどまでリオンがいた場所には、誰もいない。
研究員の一人が、小さく息をのんだ。
「……本当に、移動した」
所長も、一瞬だけ目を見開いていた。
だが、すぐに声を戻す。
「記録。距離、位置、姿勢、魔力残滓。すべて確認しろ」
研究員たちが慌ただしく動き出す。
「距離、十歩」
「移動先、印の中央から半歩以内」
「姿勢の乱れ、ほぼなし」
「元位置に魔力残滓あり。移動先にも反応あり」
所長がさらに指示する。
「転移先の魔力印も確認しろ。転移後に残っているか、消耗したか」
「はい。確認します」
リオンは静かに息を整えた。
短距離なので大きな負担はない。
だが、人前で使う転移魔法は、やはり少し緊張した。
所長が近づいてくる。
「今、君は何を思い描いていた」
リオンは少し考えた。
「転移先に残した自分の魔力です」
「場所そのものではなく?」
「はい。場所だけを見るのではなく、そこに残した魔力をたどる感覚です。
目的地まで進むというより、その魔力に向かって自分を重ねるような感じです」
所長は黙って聞いている。
「福嶋亮太の理論に、離れた場所にある気配をたどる、というような記述がありました。
自分には、その感覚が分かります」
「なぜ分かる」
所長の問いは鋭かった。
リオンは一瞬、言葉を選んだ。
前世で見た技。
遠くの気配をたどって、一瞬で移動する技。
その名をこの世界で口にしても、誰にも伝わらない。
だから、別の言葉に変えた。
「自分なりに解釈してやってみたらできたんです」
所長は少しだけ目を細めた。
それ以上、今は追及しなかった。
最後に、亜空間収納魔法の確認が行われた。
再び実験室へ戻る。
今度は小さな木片が用意された。
傷や重さを確認するため、木片には印がつけられている。
まずは研究員が試した。
福嶋亮太の理論に従い、手元に小さな入口を作るように魔力を流す。
空間に、わずかな歪みのようなものが生じた。
だが、入口は開かない。
木片は手元に残ったままだ。
「反応あり。収納なし」
記録係が言った。
次に別の研究員が試す。
結果は同じだった。
リオンは木片を受け取った。
福嶋亮太の本には、入口の大きさと、中に入る量は一致しない、と書かれていた。
手元の小さな入口と、別の場所にある見えない保管庫をつなぐ。
この世界の人間には、理解しにくいはずだ。
小さな入口に、大きなものは入らない。
箱の容量は、箱の大きさで決まる。
普通はそう考える。
だが、リオンには違うイメージがあった。
前世で見た、小さなポケットから何でも取り出す不思議な道具。
入口は小さい。
だが、中は入口の大きさに縛られない。
必要なのは、目の前の空間に物を押し込むことではない。
見えない保管場所へ、出し入れする入口を作ること。
リオンは木片に意識を向けた。
手元に、小さな入口を思い描く。
その奥に、見えない保管場所がある。
木片をそこへ移す。
次の瞬間、木片がリオンの手元から消えた。
室内に小さなどよめきが広がる。
「静かに」
所長の声が飛んだ。
「記録を優先しろ」
「収納確認。対象、木片一つ。消失時の魔力反応あり」
「消失ではない」
所長が訂正する。
「収納だ。言葉を間違えるな」
「はい。収納確認」
リオンはすぐに木片を取り出した。
手元に、先ほどと同じ木片が戻る。
研究員たちが確認する。
「印、変化なし」
「表面損傷なし」
「重量、変化なし」
「温度、大きな変化なし」
「収納時間、短時間」
所長は木片を手に取り、しばらく見つめた。
「入った。出た。それだけで終わらせてはならん」
リオンはその言葉を聞いて、静かに頷いた。
自分は今まで、亜空間収納を便利な道具として使っていた。
入れる。
運ぶ。
取り出す。
それで十分だと思っていた。
だが研究所は違う。
入っている間に何が起きるのか。
状態は変わるのか。
時間は流れるのか。
危険な物を入れたらどうなるのか。
生き物は入るのか。
取り出せなくなる危険はないのか。
成功したから終わりではない。
成功したからこそ、確認すべきことが増える。
三つの簡易確認が終わると、所長はリオンを実験室の端にある机へ呼んだ。
机の上には、福嶋亮太の本の写しが置かれている。
所長はその一部を開いた。
「ここだ」
リオンは示された箇所を読む。
空中に足場を置くように。
目的地へ自分を重ねるように。
小さな入口と、見えない保管庫をつなぐように。
どれも、福嶋亮太らしい独特な言い回しだった。
この世界の人間にとっては、比喩に見えるのだろう。
だが、リオンには違う。
それは比喩ではなく、完成形に近い。
福嶋亮太が何を思い描いていたのか。
リオンには、かなり具体的に分かってしまう。
所長は静かに言った。
「我々は、福嶋亮太の言葉を比喩として読んでいた」
リオンは黙って聞いた。
「だが君には、それが具体的な動きとして見えているのだな」
リオンは少し迷った。
どこまで話すべきか。
前世のことを全て説明しても、この世界の人には伝わらない。
けれど、福嶋亮太もまた、この世界の外から来た人物だった。
ならば、所長は完全には理解できなくても、意味は受け取れるはずだ。
「自分には、なんとなくですがイメージできるんです」
リオンはそう答えた。
所長はすぐには返事をしなかった。
研究員たちも黙っている。
所長は、ゆっくりと本の写しへ視線を戻した。
「内容はようやくわかったがイメージまではできていなかった」
「はい」
「そして君は、そのイメージを知っている」
「はい」
所長は深く息を吐いた。
それは落胆ではなかった。
むしろ、ようやく欠けていたものの形が見えた、という反応に近かった。
「術式、魔力、素材。それだけでは足りないのかもしれない」
所長は言った。
「発動後の形を、どれほど具体的に思い描けるか。そこが鍵になる可能性がある」
「イメージ、ですね」
「そうだ。ただし、まだ仮説だ」
所長はすぐに言葉を加えた。
「だが、記録する価値はある」
リオンは頷いた。
所長は記録係へ指示を出した。
「次回からは、魔力量、術式、素材だけでなく、ハルが発動前に何を思い描いたかも記録する」
「発動前の思考内容、ですか」
「そうだ。どの言葉を手がかりにしたか。どの魔法を補助的に組み合わせたか。
成功時と失敗時で、イメージに差があるか。すべて記録対象にする」
記録係が慌てて書き加える。
リオンは少し戸惑った。
「自分の頭の中を、ですか」
「そうだ」
所長はリオンを見る。
「君の中にある成功の形こそ、今の研究所に欠けているものかもしれない」
その言葉は、リオンの胸に重く残った。
自分が魔法を使えることは分かっていた。
だが、それを他人に伝えることは別の話だ。
使えるだけでは足りない。
使える理由を残さなければ、誰にも渡せない。
福嶋亮太は理論を残した。
だが、その理論には前世のイメージが混じっていた。
この世界の人がそれを読んでも、完成形を思い描けない。
ならば、自分がやるべきことは、ただ魔法を使って見せることではない。
福嶋亮太の言葉を、この世界の人にも分かる形へ置き換えること。
それもまた、翻訳なのだ。
リオンは実験台の上を見た。
浮遊魔法で使った金属片が置かれている。
広い実験場の床には、リオンが転移した先の印が残っている。
机の上には、亜空間収納から戻した木片がある。
三つの魔法は、確かに発動した。
だが、研究員たちはまだ再現できない。
王宮へ届けるべきものは、魔法の結果だけではない。
その魔法が成功するまでの、見えないイメージなのだ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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