第351話 報告書に載る名前
ミラと研究棟へ向かう途中で、選べるものと選べないものについて話してから、数日が過ぎた。
学院の日常は、変わらず続いていた。
朝は五年Sクラスの共通授業。
午後は選択コース。
廊下では、次の課題について話す同級生たちの声が響き、食堂ではいつものように昼食が並ぶ。
セレナとエドガーの間に何かがあるのではないか。
ミラが口にしたその可能性は、リオンの中にまだ残っていた。
だが、本人たちから話があるまでは、自分たちから口にするべきではない。
そう決めた以上、リオンはそれ以上深く踏み込まなかった。
ただ、時折セレナとエドガーが言葉を交わす様子を見ると、以前よりも少しだけ気にしてしまう。
それもまた、日常の一部になりつつあった。
その日の午後、研究コースの授業が終わった後だった。
生徒たちが記録用紙を片づけ始める中、クラリッサ先生がリオンの席へ近づいてきた。
「ハル。少し残れますか」
リオンは顔を上げた。
「はい」
ミラとヴィクトルも、自然にこちらを見る。
クラリッサ先生は、いつもの穏やかな表情のまま言った。
「王立研究所から連絡がありました。今日の放課後、向かえますか」
王立研究所。
その言葉だけで、リオンは何の件か察した。
福嶋亮太の本だ。
「例の本の件でしょうか」
「ええ。アルベルト先生が、直接確認したいことがあるそうです」
アルベルト先生。
クラリッサ先生は、王立研究所長アルベルト・ヴァイスのことを、そう呼ぶ。
王立研究所で働いていた頃の上司だから、昔の癖が残っているのだ。
リオンは頷いた。
「分かりました。学院長の許可は」
「すでに話は通っています。授業後、そのまま向かって構いません」
ミラが少し心配そうに言った。
「リオン、大丈夫?」
「うん。何回も行っているし、大丈夫だよ」
ヴィクトルは記録用紙をまとめながら、少しだけ目を細めた。
「王立研究所から直接呼ばれるのにも、だいぶ慣れてきたな」
「慣れたつもりはないんだけどね」
「でも、前より驚かなくなっているぞ?」
そう言われて、リオンは少し困った。
確かに、最初に王立研究所へ向かった時ほどの緊張はない。
だが、それは慣れたというより、事態の大きさを少しずつ理解してしまったからかもしれなかった。
福嶋亮太の本。
浮遊魔法。
転移魔法。
亜空間収納魔法。
そして、王国史。
どれも、重い話ではある。
授業後、リオンは王立研究所へ向かった。
移動中、リオンは数週間前のことを思い出していた。
福嶋亮太の魔法理論。
そこには、王立学院で学んできた王国史とは違う角度から見た記録があった。
ラグナ河。
東方勢力。
敵と味方が、今ほどはっきり分かれる前の記録。
正史を壊すというより、正史の奥に隠れていた複雑さを見せるもの。
ヴァイス所長は、そう言っていた。
王立研究所に着くと、以前よりも建物の中が慌ただしく感じられた。
廊下を行き交う研究員たちは、紙束を抱え、別室へ向かっている。
小声で交わされる会話の中には、「王宮」「草案」「照合」「提出」という言葉が混じっていた。
案内された所長室に入ると、リオンは思わず足を止めた。
机の上には、以前よりも多くの紙束が積まれていた。
福嶋亮太の本の写し。
翻訳文。
王国史に関する注釈。
ラグナ河沿いの古い河港記録。
商業都市の帳簿の写し。
神殿の救護記録。
ベイルン家の古い軍務記録の抜粋。
そして、魔法理論に関する整理紙。
部屋の中央には、大きめの草稿束が置かれていた。
表紙には、はっきりと文字が書かれている。
王宮提出用草案。
福嶋亮太記録に関する第一次報告。
リオンは、その文字を見た瞬間、胸の奥が静かに重くなるのを感じた。
もう、研究所の中だけの話ではない。
この記録は、王宮へ届こうとしている。
「来たか、ハル」
奥の机から、ヴァイス所長が顔を上げた。
いつものように落ち着いた声。
だが、机に置かれた紙束の量が、事態の大きさを物語っていた。
「お呼びいただき、ありがとうございます」
リオンは頭を下げた。
目上の所長の前では、自然と背筋が伸びる。
「座りたまえ。今日は少し長くなる」
「はい」
リオンが椅子に腰を下ろすと、所長は机の上の草稿束を軽く叩いた。
「王宮へ報告する準備が進んでいる」
リオンは黙って頷いた。
「報告する内容は、大きく二つだ。
一つは、福嶋亮太の記録に含まれていた王国史に関する記述。
もう一つは、三つの魔法理論だ」
「浮遊魔法、転移魔法、亜空間収納魔法ですね」
「そうだ」
所長は、草稿の一部を開いた。
「王国史の部分については、慎重に扱う必要がある。
正史と食い違うように見える箇所があるからだ」
リオンは、翻訳文の中にあった一文を思い出した。
ラグナ河は、国を分ける線ではなかった。
人を逃がし、薬を運び、飢えた村へ麦を届けるための道だった。
それは、学院で学んだラグナ河の姿とは違っていた。
学院で学んだラグナ河は、国境であり、戦線であり、防衛線だった。
どちらが正しいのか。
たぶん、その問い方自体が単純すぎる。
同じ川を、誰が、いつ、どこから見るか。
それによって、記録される姿は変わる。
所長は言った。
「この本だけなら、奇妙な個人記録として扱うこともできた。
だが、ラグナ河沿いの河港記録、神殿の救護記録、商業都市の帳簿、ベイルン家の軍務記録と、一部が重なり始めている」
「つまり、福嶋亮太個人の思い込みでは済まない可能性がある、ということですね」
「その通りだ」
所長はリオンを見る。
「だから、君にも確認してもらいたい。
君は王立学院で正史を学び、同時にこの本の内容にも触れている。
さらに、魔法理論だけでなく、記録の扱い方にも注意を向けている」
「自分にできる範囲であれば」
リオンはそう答えた。
所長は一枚の翻訳文を差し出した。
そこには、福嶋亮太がラグナ河沿いの町で見た出来事が書かれていた。
怪我人を運ぶ小舟。
両岸の商人が出し合った麦袋。
戦うためではなく、避難する人々を通すために開かれた渡河点。
リオンはゆっくりと読み進めた。
文章には、魔法理論書らしさはあまりない。
むしろ、日記に近い。
見たもの、聞いたもの、悩んだこと。
そして、自分が何のために魔法を使ったのか。
それが淡々と書かれている。
リオンは読み終えると、少し考えてから言った。
「この一文だけなら、福嶋亮太本人の見方にも読めます」
所長は黙って続きを待つ。
「ただ、ここに書かれている麦袋の数量と、商業都市側の帳簿に残っている出荷記録が重なるなら、少なくとも何らかの補給があったとは考えるべきだと思います」
「救護記録の方はどう見る」
「怪我人の数や日付が近いなら、同じ出来事を別の立場から記録した可能性があります。
福嶋亮太は自分が見た場面を書き、神殿は救護した人数を書いた。
目的が違うので、文章の形は違いますが、出来事の芯は同じかもしれません」
所長は小さく頷いた。
「やはり、君を呼んでよかった」
「自分は、専門家ではありません」
「専門家ではないからこそ、見えるものもある。
君は一つの記録だけで決めつけない。
だが、記録同士が重なった時には、その意味も見落とさない」
リオンは少し返答に困った。
前世で嫌というほど見てきたからだ。
一人の証言だけで誰かを裁くことも、一枚の帳簿だけで会社の状態を分かったつもりになることも、危険だった。
だから、重ねて見る。
ずれを見る。
書かれていないものを見る。
それは、前世で身についた習慣だった。
所長は別の紙を手に取った。
「王宮への報告では、断定する部分と、確認中の部分を分ける。
福嶋亮太の記録が王国史の全体を覆す、といった書き方はしない」
「その方がよいと思います」
「だが、正史では省かれていた協力関係が存在した可能性は、報告せざるを得ない」
「はい」
「問題は、そこに三つの魔法が絡んでいることだ」
空気が少し変わった。
所長の手が、魔法理論の整理紙へ伸びる。
そこには、三つの見出しが並んでいた。
浮遊魔法。
転移魔法。
亜空間収納魔法。
リオンの視線が、その三つの言葉に自然と止まった。
どれも、自分が使っている魔法だ。
所長は、リオンの反応を見逃さなかった。
「ハル。ここからは、さらに慎重に確認したい」
「はい」
「君は、この三つの魔法をどれほど扱える」
リオンはすぐには答えられなかった。
浮遊魔法。
転移魔法。
亜空間収納魔法。
どれも、福嶋亮太の本に記されていた。
そして、どれも、リオンはすでに使っている。
転移魔法は、王都とハル領を行き来するために使った。
亜空間収納魔法は、物資や道具を運ぶために使った。
浮遊魔法は、ハル領でも、王都近くの森でも、寮の自室でも、人目を避けて使った。
答え方を間違えれば、自分だけでなく、ハル家や学院にも影響が出る気がした。
けれど、ここで曖昧にするべきではない。
リオンは、ゆっくり口を開いた。
「自分は……どれも、一応は使えます」
所長の眉が、わずかに動いた。
「三つともか」
「はい」
「一応、で済む話ではないな」
所長の声は低かった。
驚きよりも、重さを測る声だった。
リオンは黙っている。
所長はさらに尋ねた。
「他に使える者はいるか」
「自分の知る限り、いません」
「目撃した者は」
「転移魔法と亜空間収納魔法は、クラスメイトのうち数人が知っています。
学院長も把握しています」
「浮遊魔法は」
「まだ、誰にも見せていません」
室内が静かになった。
窓の外から、研究員たちの足音がかすかに聞こえる。
所長はしばらく黙っていた。
怒っているわけではない。
感心しているわけでもない。
その沈黙は、情報の置き場所を考えているようだった。
「つまり、三つとも現時点で使用者は君一人。認知している者も限られている。
浮遊魔法に至っては、目撃者もいない」
「はい」
「まだ、管理できる段階にある」
所長はそう言って、机の上の草稿に視線を落とした。
「だが、王宮へ報告すれば、扱いは変わる。
君の名は、本の発見者としてだけではなく、この三つの魔法を実際に扱える者としても報告書に残ることになる」
リオンの胸が、わずかに重くなった。
名前が残る。
前世でも、それがどういう意味を持つかは分かっていた。
書類に名前があるということは、関わった事実が残るということだ。
成果も。
判断も。
責任も。
後から誰かが見た時、その名前はただの文字ではなくなる。
所長は言葉を続けた。
「三つの魔法は、どれも便利な道具として扱ってよいものではない」
リオンは黙って聞いた。
「転移は、人と物の距離を変える。亜空間収納は、物流と保管の前提を変える。
浮遊は、重さと作業の考え方を変える」
所長の指が、三つの見出しを順に示す。
「災害対応にも使える。救護にも使える。
建築にも、物流にも、農作業にも使えるだろう」
そこで、所長の声がさらに静かになった。
「だが同時に、軍事にも使える。
密輸にも、逃亡にも、暗殺にも、兵站にも使える」
リオンは、無意識に指先を握った。
分かっていたつもりだった。
転移魔法は便利だ。
亜空間収納魔法も便利だ。
浮遊魔法も、使い方次第で多くの人を助けられる。
けれど、便利なものは、必ず良いことだけに使われるわけではない。
前世でも同じだった。
仕組みも、技術も、道具も。
使う人によって、人を助けるものにも、人を追い詰めるものにもなる。
「まだ君しか使えない。だから軽いのではない」
所長は言った。
「君しか使えない今だからこそ、最初の扱いを誤ってはならない」
リオンは静かに頷いた。
「はい」
「王宮へ報告する前に、研究所として確認すべきことがある。
発動条件、魔力消費、限界、失敗時の危険、再現性、記録方法。
浮遊魔法は少し手伝ってもらったが、改めて君にはその実験協力者になってもらう」
「自分が、実験協力者に」
「そうだ」
所長は、別の紙を差し出した。
そこには、三つの魔法ごとに確認項目が並んでいた。
リオンはその項目を見て、研究所らしいと思った。
魔法を「使える」で終わらせない。
何ができるか。
何ができないか。
どこから危険になるか。
誰が見ても分かる形に残す。
研究とは、そういうものなのだ。
「君に無理をさせるつもりはない」
所長は言った。
「だが、君の協力なしに、この三つの魔法を王宮へ正しく報告することはできない」
リオンは、紙に並んだ項目を見つめた。
本を見つけた。
翻訳された内容を読んだ。
王国史の記録確認に関わった。
そして今、自分が使っていた魔法そのものについて、王国へ報告するための協力者になる。
ここまで来ると、もう自分だけの話ではない。
ハル家の嫡男として。
王立学院の生徒として。
そして、この三つの魔法を現時点で唯一使える者として。
逃げることはできない。
いや、逃げるべきではない。
「分かりました」
リオンは顔を上げた。
「自分にできる範囲で、協力します」
所長は静かに頷いた。
「それでよい。君には、すべてを背負えと言っているわけではない。
研究所が記録し、王宮が判断する。だが、その最初の確認には君が必要だ」
「はい」
「それと、もう一つ」
所長は、机の上の草稿束をリオンの方へ向けた。
「報告書の記載について、君にも確認してもらう」
リオンは草稿を見る。
表紙の下には、いくつかの役割と名前が並んでいた。
王立研究所長。
翻訳担当者。
史料照合担当者。
魔法理論整理担当者。
そして、その下に。
発見者・確認協力者。
リオン・ハル。
自分の名前があった。
リオンはしばらく、その文字から目を離せなかった。
そこに書かれた名前は、ただの自分の名前なのに、いつもよりずっと重く見えた。
前世で、リオンは何度も書類に名前を書いた。
契約書。
稟議書。
決算資料。
役員会の議事録。
名前を書くということは、責任を引き受けることだった。
その重さを、リオンは知っている。
この世界でも、それは変わらない。
「この名前が王宮へ届く」
所長が静かに言った。
「名誉ではある。だが、それだけではない」
「責任が残る、ということですね」
「その通りだ」
リオンはゆっくり息を吐いた。
王宮へ届くのは、福嶋亮太の記録だけではない。
その本を見つけた者。
その記録を読み、確認し、そこに書かれた魔法を扱える者。
リオン自身の名もまた、王宮へ届く。
それは褒美ではなかった。
称賛でもなかった。
新しい責任の始まりだった。
所長は草稿を閉じた。
「今日はここまでにしよう。次からは、三つの魔法について、実際の確認に入る」
「はい」
「ハル」
所長が、リオンの名を呼んだ。
「君がこの本を持ち込んだことで、王国史と魔法理論の両方が動き始めた。
だが、急ぎすぎてはいけない。正しく記録し、正しく報告する。
それが研究所の役目だ」
リオンは深く頷いた。
「自分も、そうしたいです」
所長は少しだけ表情を和らげた。
「ならば、共に慎重に進めよう」
研究所を出る頃には、王都の空は夕暮れに染まり始めていた。
馬車へ向かいながら、リオンは手元に渡された写しを見た。
王宮提出用草案。
発見者・確認協力者。
リオン・ハル。
その文字は、紙の上に静かに記されているだけだった。
だが、リオンには、それが小さな扉のように見えた。
開けば、もう戻れない扉。
夕暮れの王都を見上げる。
大きな流れは、また一つ進み始めていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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