第344話 冷気を巡らせる箱
次の研究コースの授業で、クラリッサ先生は教壇の前に二つの木箱を並べた。
一つは、これまで使ってきた低温保存箱。
もう一つは、同じ大きさの箱だったが、側面に小さな穴の開いた板がはめ込まれ、内側には細い通路のような仕切りが作られていた。
リオンはその二つを見比べた。
前世で言う冷蔵庫に似たものは、この世界にもある。
貴族の屋敷や薬師の保管庫、大きな商会の倉庫では、冷却核を入れた木箱が使われている。
仕組みは単純だ。
箱の中に冷却核を置く。
蓋を閉める。
冷気を逃がさない。
それで中の品を冷やす。
だから、低温保存箱でまず重視されるのは、冷却核の性能と箱の密閉性だった。
冷えなければ、冷却核を強くする。
長く保たせたければ、魔力消費の少ない冷却核を使う。
冷気が逃げるなら、箱の隙間を減らす。
それは間違っていない。
むしろ、長く使われてきた正しい考え方だった。
クラリッサ先生は、二つの箱の前で静かに言った。
「今日は、従来の低温保存箱と、ハルたちの案を比べます」
教室の空気が少し変わった。
リオンは思わず背筋を伸ばす。
ハルたちの案。
それは、前回リオンたちが試した、車輪の回転で羽根を回す考え方だった。
冷却核で冷気を作り、箱の中の羽根でその冷気を巡らせる。
ただし、まだ粗い。
革帯は外れやすい。
羽根も小さい。
風の通り道も、まだ紙の上の図に近い。
隣の卓にいた五年生の一人が、手を上げた。
「先生。低温保存箱は、冷気を逃がさないための箱です。
中で風を起こせば、かえって冷気が乱れるのではありませんか」
その声に、何人かが頷いた。
リオンは反射的に言い返しかけて、止めた。
その疑問は正しい。
箱の中で風を起こせば、葉野菜を乾かすかもしれない。
薬瓶の札を濡らすかもしれない。
羽根や革帯が増えれば、壊れる場所も増える。
冷やしたいだけなら、冷却核を強くすればいい。
そう考えるのは自然だった。
クラリッサ先生はその五年生を見て、頷いた。
「よい疑問です。従来の考え方では、低温保存箱は冷気を閉じ込めるための箱です。
中で風を起こすという発想は、普通はしません」
先生の視線が、リオンへ移る。
「ハル。あなたの仮説は何ですか」
リオンは一度、二つの箱を見た。
そして答えた。
「冷気は、箱の中に均一に満ちるわけではないと思います。
下にたまったり、冷却核の近くだけ強く冷えたり、離れた場所には届きにくかったりします」
前回の食材保存で見えたことを思い出す。
冷却核の近くは、冷えすぎる。
箱の上側は、思ったほど冷えない。
底には水滴が集まる。
同じ箱の中なのに、場所によって結果が違った。
「だから、風を当てたいのではなく、冷気の偏りを減らしたいんです」
クラリッサ先生は表情を変えずに聞いていた。
「つまり、冷気を閉じ込めるだけでなく、巡らせる必要がある。
そう考えているのですね」
「はい」
「では、比べましょう」
先生の言葉で、授業が始まった。
二つの箱は、同じ模擬荷車台の上に並べられた。
大きさは同じ。
中に入れる冷却核も同じ。
食材も同じ。
葉野菜。
薄切りの肉。
小さな果物。
それぞれ同じ量を、箱の中の同じ位置に置く。
測定用の札も入れた。
箱の下側。
上側。
冷却核の近く。
反対側。
さらに、湿り具合を見るための薄い紙片も置く。
リオンたちの案の箱には、車輪の回転を伝える細い革帯がつけられていた。
革帯は小さな軸につながり、その先で羽根を回す。
羽根の前には、穴の開いた薄い仕切り板を置いた。
風が直接食材に当たりすぎないようにするためだ。
ミラが仕切り板を見て、少し首を傾げる。
「穴は、全部同じ大きさでいいのかな」
「今はそろえた方が比べやすいと思う」
リオンが答えると、ミラは頷いた。
「でも、食材によっては、穴の大きさを変えた方がよさそう」
その言葉を、リオンはすぐに記録用紙の端に書いた。
穴の大きさ。
食材ごとに変更の余地。
ヴィクトルは革帯の張りを確かめていた。
「これ、商隊で使うなら、調整する者が必要だな」
「そこは課題だと思う」
「だが、冷却核を増やさずに箱全体を冷やせるなら、価値はある」
ヴィクトルはそう言って、手を離した。
クラリッサ先生が砂時計を置く。
「条件をそろえます。同じ時間、同じ台、同じ揺れ、同じ開閉回数です。
途中で箱を開けるのは、こちらが指示した時だけ。よいですね」
「はい」
リオンたちは頷いた。
模擬荷車台が押される。
車輪が回る。
従来型の箱は、そのまま静かに揺れる。
リオンたちの箱では、車輪につながった革帯が動き、小さな羽根が回り始めた。
強い風ではない。
だが、箱の中の冷気を動かすには十分かもしれない。
がたん。
がたん。
台が凹凸の上を進む。
リオンは羽根の音を聞いていた。
細い革帯がこすれる音。
小さな軸が回る音。
低温保存箱の中で、見えない冷気が動いているはずだった。
一定時間が過ぎ、クラリッサ先生が言った。
「止めてください。まずは従来型から確認します」
蓋が開けられた。
白い冷気が、わずかにこぼれる。
従来型は、確かに冷えていた。
冷えていないわけではない。
冷却核の周りは十分に冷たい。
箱の下側の札も、温度が下がっていることを示していた。
だが、ミラがすぐに気づいた。
「あ……こっちだけ、水気が多い」
冷却核に近い葉野菜の端に、細かな水滴がついていた。
葉そのものが傷んだわけではない。
しおれたわけでもない。
けれど、同じ葉野菜でも、置いた場所によって表面の状態が違っている。
冷却核に近い葉は、葉先がわずかに丸まっていた。
一方で、箱の上側に置いた肉の札は、下側ほど色が変わっていない。
ヴィクトルが眉を寄せる。
「上の方は冷えが弱いな」
果物のそばに置いた紙片は、ほとんど変化していなかった。
反対に、箱の底に置いた紙片は湿っている。
リオンは記録した。
従来型。
冷却核付近、強く冷える。
葉野菜の端、水滴あり。
葉先、わずかに丸まり。
下側、水滴多い。
上側、冷え弱い。
冷えている。
だが、箱の中で差がある。
五年生の一人が覗き込み、静かに言った。
「従来型としては、悪くない」
リオンも頷いた。
その通りだった。
これは失敗ではない。
従来型の低温保存箱は、ちゃんと役目を果たしている。
ただし、商隊で複数の品を同じ箱に入れて運ぶなら、この差は問題になる。
次に、リオンたちの箱が開けられた。
同じように冷気がこぼれる。
リオンは息を止める。
測定札を見る。
下側。
上側。
冷却核の近く。
反対側。
従来型より、札の色の差が小さい。
完全に同じではない。
だが、明らかに差は減っていた。
「上にも冷気が届いてる」
ミラが言った。
ヴィクトルも札を見比べる。
「下だけが強く冷えているわけではないな」
葉野菜の表面も、従来型より場所ごとの差が小さかった。
冷却核の近くにある葉にも、水滴はついている。
だが、一か所だけが極端に湿っているわけではない。
肉の札も、上側で従来型より色が変わっている。
果物の周りも、少し冷えている。
リオンは胸の奥が熱くなるのを感じた。
冷気は、巡っている。
ただし、良いことばかりではなかった。
ミラが羽根の近くの葉を見て、指先を止めた。
「ここ、少し乾いてる」
羽根に近い場所の葉野菜は、表面の水気がほかより少なかった。
張りが失われたわけではない。
けれど、指で触れると、そこだけ少し乾いた感じがある。
穴あきの仕切り板を入れても、風が当たりやすい場所はできる。
革帯も少しずれていた。
あと何度か揺れれば、外れていたかもしれない。
リオンはその二つも記録した。
循環型。
温度差、小さい。
上側まで冷気が届く。
下側の水滴、従来型より少ない。
ただし、羽根近くの葉、表面の水気が少ない。
革帯、ずれあり。
停止時は未確認。
教室の中がざわついた。
さっき反論した五年生も、測定札を見比べている。
「差が小さい……」
その声には、驚きが混じっていた。
リオンは何も言わなかった。
勝った、とは思わなかった。
従来型の考え方が間違っていたわけではない。
冷気を逃がさないことは大事だ。
箱がすぐ温まるなら、そもそも保存箱として使えない。
けれど、閉じ込めるだけでは、箱の中に差ができる。
冷えすぎる場所と、冷えにくい場所ができる。
湿りやすい場所と、乾きやすい場所ができる。
それを減らすには、冷気を巡らせる必要がある。
クラリッサ先生が二つの箱の前に立った。
「従来型の箱は、冷気を閉じ込めることに優れています。
作りも単純で、壊れにくい。扱う者も迷いにくいでしょう」
先生はそこで、リオンたちの箱を見る。
「一方、ハルたちの案は、冷気を巡らせることで、箱の中の差を減らそうとしている。
今回の条件では、従来型より温度の偏りが小さくなりました」
リオンは小さく息を吐いた。
クラリッサ先生は続ける。
「商隊用として、複数の品を同じ箱で運ぶなら、この差は大きいですね」
ヴィクトルが頷いた。
「高い薬品や傷みやすい食材なら、多少高くてもこちらを選ぶ商人はいると思います」
「多少高くても?」
ミラが聞く。
ヴィクトルは測定札から目を離さずに答えた。
「届いた時に中身が傷んでいたら、商人は損をする。
安い箱で品を駄目にするより、高い箱で無事に運べる方がいい場合もある」
リオンはその言葉を記録した。
価格だけではない。
損失を減らせるか。
品質を保てるか。
運んだ後に、受け取る者が安心できるか。
商隊用の道具として見るなら、それも性能だった。
だが、クラリッサ先生はそこで話を終わらせなかった。
「ただし、ハルたちの案には課題があります」
「はい」
リオンは頷いた。
「構造が複雑です。革帯はずれています。羽根の近くは乾きやすい。
止まっている時に冷気がどう動くかも、まだ見ていません」
「その通りです」
クラリッサ先生は、落ち着いた声で言った。
「優れている、という言葉は便利です。
ですが、何に対して優れているのかを決めなければなりません」
その言葉は、最初の授業でも聞いた。
リオンはペンを握り直す。
「従来型は、単純さと壊れにくさに優れている」
クラリッサ先生が言う。
「ハルたちの案は、箱の中の差を減らすことに優れている」
リオンが続けた。
先生は頷いた。
「では、次に見るべきことは?」
リオンは記録用紙を見下ろした。
答えは一つではない。
革帯の外れにくさ。
羽根の大きさ。
風の通り道。
穴の大きさ。
停止中の冷気の偏り。
食材ごとの置き場所。
箱を開けた時の温度の戻り方。
多すぎる。
だが、見えていないわけではない。
見る場所が増えただけだ。
「まず、風が直接当たりすぎる場所を減らします」
リオンは言った。
「それから、止まっている時に冷気がどう偏るかを見ます。
商隊用なら、走っている時間だけでなく、休憩中や荷下ろし中も考えないといけません」
ミラが頷く。
「食材ごとに、置く場所も変えた方がいいと思う。
葉野菜と肉を同じ扱いにしない方がいい」
ヴィクトルも言った。
「革帯は、商隊の者が直せる形でないと駄目だな。
壊れたら学院に持ってこい、では商品にならない」
リオンは二人の言葉を足していく。
風の当たりすぎ。
停止中。
食材ごとの位置。
現場で直せる構造。
記録用紙の余白が、どんどん埋まっていく。
クラリッサ先生がそれを見て、少しだけ目を細めた。
「よいですね。今日分かったのは、ハルたちの案が従来型をすべて上回った、ということではありません」
リオンは顔を上げる。
「はい」
「従来型には従来型の良さがあります。
ですが、商隊で複数の品を運ぶという条件では、冷気を巡らせる考え方に明確な利点がありました」
教室の中が静かになった。
さっきまで疑っていた五年生も、今は二つの箱を見比べている。
冷気を閉じ込める箱。
冷気を巡らせる箱。
同じ低温保存箱でも、見ているものが違う。
リオンは記録用紙の下に線を引いた。
従来型。
冷気を閉じ込める。
単純。
壊れにくい。
扱いやすい。
ただし、箱の中で冷え方に差が出る。
循環型。
冷気を巡らせる。
温度差を減らせる。
商隊用、混載用に向く可能性。
ただし、構造、整備、乾燥、停止時に課題。
そして最後に、もう一行を書いた。
冷気を閉じ込める箱から、冷気を巡らせる箱へ。
リオンはペンを止めた。
発明が完成したわけではない。
むしろ、課題は増えた。
けれど、前に進んだ。
従来の考え方を否定したのではない。
その上に、新しい見方を重ねた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
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