第342話 揺れが生む冷風
次の研究コースの授業で、リオンたちの低温保存箱には薬瓶ではなく、食材が入れられた。
葉野菜。
薄切りの肉。
小さな果物。
どれも本物ではあるが、授業用に少量ずつ用意されたものだ。
「今日は、食材を傷めずに運ぶことを想定します」
クラリッサ先生はそう言って、教室を見渡した。
「薬品とは、守るものが違います。凍らせてはいけないもの、潰れてはいけないもの、水滴で傷むもの。何を見るべきか、考えながら進めてください」
リオンたちは、前回の失敗を受けて箱の中に簡易の仕切りを入れていた。
薬瓶の札が濡れて剥がれかけた。
その原因は、揺れで中身が動いたことと、結露が札に触れたことだった。
だから今回は、食材が冷却核へ寄りすぎないよう、木枠で区切る。
「これなら、前みたいに片側へ寄ることは少ないと思う」
ミラが仕切りを確かめながら言った。
ヴィクトルも箱の中を見て頷く。
「少なくとも、荷が勝手に動く危険は減るな」
「うん」
リオンは記録用紙に視線を落とした。
測るもの。
揺れた後の位置。
結露の出る場所。
食材ごとの変化。
箱の中の冷え方の差。
前回より、見る場所は増えている。
面倒ではある。
けれど、その面倒を飛ばせば、現場で誰かが困る。
「始めよう」
リオンの声で、ヴィクトルが模擬荷車台を押した。
がたん。
がたん。
低温保存箱が、凹凸のある板の上で揺れる。
箱の中からは、前回のように瓶が触れ合う音はしない。
仕切りは効いている。
リオンは少しだけ手応えを覚えた。
測定具の色も大きく崩れていない。
冷却核Bは、今回も穏やかに冷たさを保っている。
「動きは少ないね」
ミラが箱の中を覗き込みながら言う。
「仕切りは必要だな」
ヴィクトルが記録用紙に書き足した。
だが、しばらくして箱を開けた時、三人は同時に黙った。
食材は大きく動いていない。
だが、別の問題が起きていた。
冷却核に近い葉野菜の端が、冷えすぎたようにしおれている。
箱の下側には小さな水滴が集まっていた。
一方で、上側に置いた肉は、思ったほど冷えていない。
「同じ箱の中なのに……」
リオンは測定具を見比べた。
下側はよく冷えている。
冷却核に近い場所も冷えている。
けれど、上側と反対側は弱い。
「冷え方が違う」
ミラが葉野菜をそっと持ち上げた。
「こっちは冷えすぎてる。でも、こっちはそうでもないね」
ヴィクトルが顔をしかめる。
「商隊でこれをやると、同じ箱に入れた食材なのに、傷むものと傷まないものが出る」
「冷却核は動いてる。仕切りも効いてる」
リオンは低温保存箱の中を見つめた。
「でも、冷たさが均一に広がっていない」
その瞬間、前世の記憶がよぎった。
夏の事務所。
足元だけが冷える部屋。
天井近くにたまる熱気。
冷房の風が直接当たる席と、まったく届かない席。
冷たい空気は、ただそこにあるだけではない。
下にたまり、流れ、逃げる。
動かさなければ、偏る。
「……冷やすだけじゃ駄目なんだ」
リオンは小さく呟いた。
ミラが顔を上げる。
「え?」
「冷えた空気を、箱の中で動かさないと。冷却核の近くばかり冷えて、離れた場所には届きにくい」
リオンは箱の中に指を差し入れ、冷却核の近くと上側を確かめた。
感覚だけで決めてはいけない。
それは前回、クラリッサ先生に教わった。
だから測定具の色を見て、記録する。
冷却核付近。
下側。
上側。
反対側。
差は確かに出ていた。
「冷たい空気を回せれば、むらを減らせるかもしれない」
リオンが言うと、ミラは少し考えてから葉野菜を見た。
「でも、冷たい風が直接当たると、食材によっては傷みそう。人に当たっても、ずっと冷たい風が来たら嫌かも」
「うん。風を作ればいい、という話でもない」
リオンは頷いた。
ヴィクトルが腕を組む。
「箱の中で冷気を動かせるなら、商隊用としては価値がある。倉庫にも応用できるかもしれないな」
そこで、ヴィクトルは少し眉を寄せた。
「だが、風を起こす魔石まで使うなら、魔力消費が増える。普及品には向かないかもしれない」
魔力消費。
その言葉で、リオンの思考が止まった。
風を起こす魔石。
冷却核。
どちらも魔力がいる。
商隊で長く運ぶなら、魔力の負担はできるだけ減らしたい。
その時、模擬荷車台が小さく揺れた。
がたん。
板の上で車輪が跳ねる。
リオンは、その揺れを見た。
前回は、この揺れが失敗の原因だった。
薬瓶が動き、札が濡れた。
だが、馬車や荷車なら、移動中ずっと揺れがある。
車輪は回る。
荷台は震える。
軸も細かく揺れ続ける。
そこで、リオンは思い出した。
純石。
光らない。
魔力もほとんど通らない。
工房では混じりものとして扱われていた透明な石。
だが、あの石はただの不要品ではなかった。
圧力、振動、回転。
あの石は、魔力を直接流して使う石ではない。
動きを与えることで反応する石だった。
足踏み砥石のそばで、規格外の青輝石がわずかに明滅した。
純石が、振動や回転を受けることで、青輝石の反応を変えていた。
なら。
「リオン?」
ミラが声をかける。
リオンは模擬荷車台の車輪を見つめたまま言った。
「馬車の揺れや、車輪の回転を使えないかな」
「揺れを?」
ヴィクトルが聞き返す。
「前に、純石という石を見つけた。魔力は通りにくい。でも、振動や回転に反応する。ハル領の街灯にも使われている石なんだ」
リオンは手元の記録用紙に、簡単な図を描いた。
車輪。
軸。
純石。
冷却核。
風を起こす魔石。
「馬車が走っている間、車輪は回り続ける。荷台も揺れ続ける。その動きを純石に伝えられれば、移動中だけでも魔力反応を補えるかもしれない」
ヴィクトルの目が細くなる。
「つまり、移動している間だけ、冷却核や風の魔石を助ける?」
「うん。冷却核で冷やして、風の魔石で冷たい空気を箱の中に回す。全部を人の魔力で動かすんじゃなくて、馬車の動きも使う」
ミラが箱の中を見た。
「揺れで失敗したのに、その揺れを使うの?」
「使えるなら」
リオンは、濡れた札の時のことを思い出した。
失敗は悪いことではない。
机の上で見つかった失敗は、現場で起きる事故を減らす。
なら、失敗の原因だった揺れも、見方を変えれば使える材料になるかもしれない。
クラリッサ先生が、いつの間にか近くに来ていた。
「面白い仮説です。今の気づきは、研究の芽になります」
リオンは顔を上げた。
先生は、リオンの記録用紙に描かれた図を見る。
車輪。
軸。
純石。
冷却核。
風を起こす魔石。
「ですが、まだ仮説です」
「はい」
「馬車の揺れは一定ではありません。道が変われば振動も変わります。車輪の回転も、速さによって変わる。純石の反応が安定しなければ、冷却核にも風の魔石にも使えません」
その通りだった。
純石は振動や回転に反応する。
だが、いつでも同じように使えるとは限らない。
「それに、食材保存の測定と、純石を使った冷風循環の検証では、確かめる条件が違います。今ここで一緒に進めると、どちらの結果も曖昧になります」
クラリッサ先生は、記録用紙の端を指した。
「捨てるのではありません。分けて記録しなさい。後で戻れる形にしておくことも、研究です」
止められたわけではない。
育てるために、分けるのだ。
「はい。今は、箱の中の冷え方のむらを記録します」
「それでよいです」
リオンは、記録用紙の端に小さく書いた。
純石。
馬車の揺れ。
車輪の回転。
冷却核。
風の魔石。
移動中の冷風循環。
そして、その下に線を引き、今見るべき項目を書き直した。
箱の下側。
上側。
冷却核付近。
反対側。
食材ごとの変化。
水滴の位置。
冷気が直接当たる場所。
ミラがそれを見て、小さく笑った。
「思いつき、ちゃんと残したんだ」
「忘れたくないから」
「うん。それは大事だと思う」
ミラは、しおれた葉野菜を見ながら続けた。
「でも、今はこっちだね。冷たいところと、そうじゃないところがある。食材によっては、冷えすぎても駄目なんだと思う」
「うん」
リオンは頷いた。
「冷やすだけじゃなくて、冷気がどこへ行くのかを見ないといけない」
ヴィクトルも記録用紙を覗き込んだ。
「もし本当に馬車の揺れで冷風を作れるなら、商隊用としてはかなり大きい。だが、商品にするには安定性が問題だな」
「そこは、まだ全然分からない」
リオンは正直に答えた。
「純石は振動や回転に反応する。でも、馬車の揺れは一定じゃない。どれくらい使えるかは、試してみないと分からない」
「なら、今は目の前の課題だな」
ヴィクトルが言った。
「ああ」
リオンは低温保存箱の中を見た。
冷却核は静かに冷たさを保っている。
だが、その冷たさは箱の中で偏っている。
ただ冷やせばいいわけではない。
冷気は、下にたまり、逃げ、流れ、時には守りたいものを傷める。
だから、冷気の行き先を見なければならない。
その行き先を、人の手ではなく、馬車の動きで作ることができたなら。
失敗の原因だった揺れが、冷気を運ぶ力に変わるかもしれない。
リオンは最後に、記録用紙の端へもう一つだけ書き加えた。
揺れを、冷風に変える。
その文字はまだ、小さな仮説にすぎない。
けれど、低温保存箱はリオンの中で、ただの箱ではなくなっていた。
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