第34話 公爵領の綻び
ユリウス公爵の執務室
リオンの気持ちが切り替わる。
勉強や訓練の時間も嫌いじゃない。むしろ面白い。
でも、「数字と現場が噛み合わない」という話を聞いた時に、胸の奥がわずかに熱くなったのも事実だった。
この感覚は、もう知っている。
大きく壊れる前の、静かな綻びの匂いだ。
ユリウスは机の上に何冊もの帳簿と報告書を広げていた。
窓際には、公爵家の筆頭執事らしい壮年の男が立っている。背筋が真っ直ぐで、目だけが鋭い。
西側代官領の地図。
月ごとの税収帳。
倉庫の在庫記録。
輸送報告。
各村から上がった生産報告。
かなり揃っている。
ユリウスは柔らかい口調のまま、本題へ入った。
「西側の代官領で、税収と物資の流れに妙なずれがある。その帳簿を見てほしい」
「わかりました」
「ただし、無理に答えを出さなくていい」
その一言はありがたかった。
見えていないものを見えているふりで断定するのが、一番危ない。
俺は目の前の帳簿を開いた。
まずは税収。
次に倉の在庫。
そのあと輸送量。
最後に村の生産報告と照らす。
しばらく部屋が静かになる。
紙をめくる音だけが響く。
視界の端に、薄青い文字が浮かんだ。
《収穫量:平年並み》
《税収:軽微増》
《倉在庫:微減傾向》
《輸送報告:整いすぎ》
《綻び:流通過程に疑い》
整いすぎ、か。
そこが引っかかった。
「どうだい」
ユリウスが聞く。
「すぐに言い切れることは少ないです」
俺は正直に答えた。
「でも、変です」
筆頭執事の目がわずかに細くなる。
ユリウスは静かに続きを待った。
「収穫量は極端に落ちていない。税収も大きく崩れていない。でも倉の減り方と輸送報告の整い方が噛み合っていません」
「整い方?」
「はい。数字が綺麗すぎます」
帳簿の一頁を示す。
「現場が本当に順調なら、月ごとの増減にはもっとムラが出るはずです。天候、道、荷車の故障、人手不足。何かしらで少しずつぶれる。でもこの輸送報告は、悪い意味で揃いすぎてる」
ユリウスが小さく頷く。
「私もそこは少し気になった」
やっぱり、この人も感覚は鋭い。
俺は帳簿をさらに一枚めくった。
「現時点で考えられるのは、大きく三つです」
そう言うと、筆頭執事がわずかに姿勢を正した。
「一つ目。倉での帳簿外流出です」
「倉で抜かれている、ということか」
「はい。ただ、この可能性はあるけど、単独では弱いです」
倉の記録を指さす。
「もし倉で抜いてるなら、在庫の減り方にもっと粗さが出るはずです。担当者の誤差や補填の跡が出る。でも今の帳簿は、そこだけ崩れてる感じじゃない」
ユリウスが問う。
「では二つ目は?」
「輸送途中の抜き取りです」
今度は輸送報告を示す。
「これが一番ありそうです。倉を出た数字と、到着した数字は合っている。でも、その間に誰かが調整していれば、帳面だけは綺麗に作れます」
筆頭執事が初めて口を開いた。
「調整、とは」
「例えば、最初から少なく積んでいるのに、満載で出したと報告する。あるいは途中で抜いたぶんを、別口の荷として処理する。倉と到着先だけ見れば合うように見せられます」
「なるほど」
執事の返事は短かったが、理解は速い。
俺は続けた。
「三つ目。代官配下の中間管理者による報告操作です」
ユリウスが少しだけ目を細めた。
「代官本人ではなく?」
「本人の可能性もゼロじゃないです。でも、今の崩れ方は“怠慢”というより“途中で都合よく丸められている”感じがします。現場から上がる報告が、上に来るまでのどこかで削られてるかもしれません」
そこで一度、言葉を切った。
大事なのはここからだ。
「ただし、今の帳簿だけでは三つとも断定できません」
ユリウスがすぐに聞く。
「何が足りない」
そこを聞いてくれるのが、この人のいいところだ。
「検証用の資料です」
俺は指を折って言った。
「倉での流出を疑うなら、倉番の交代記録と、月ごとの袋や箱の補修記録がほしいです。抜き取りがあると、袋の縫い直しや封のやり直しが増えることがあります」
筆頭執事がすぐに書き留める。
「輸送途中の抜き取りを疑うなら、荷車の修繕記録、馬の飼葉消費、護衛の交代、到着先の受領印。特に受領印は、同じ筆跡が続いていないか見たいです」
「ふむ」
「中間管理者の報告操作を疑うなら、村から最初に上がった原報告が必要です。代官府に届いた整理後の数字じゃなくて、その前の紙」
そこまで言うと、ユリウスが静かに笑った。
「欲しいものが明確だね」
「仮説だけ立てても意味がないので」
「その通りだ」
柔らかい声のまま、でもはっきりと返ってくる。
俺はもう一つだけ付け加えた。
「あと、もし可能なら現地へ確認してもらいたいこともあります」
「何だい」
「道の轍です」
筆頭執事が一瞬だけ怪訝そうな顔をした。
「轍、ですか」
「はい。帳簿にある輸送量が本当なら、もっと道が傷んでいるはずです。逆に数字ほど荷が動いていないなら、轍は浅いままの可能性があります」
ユリウスの目が少し変わった。
「……なるほど」
「帳簿の数字は作れても、道の傷みは作りにくい」
「作れなくはありませんが、面倒です」
そう答えると、筆頭執事が小さく息を吐いた。
たぶん今ので、俺が単に数字遊びをしているわけじゃないと伝わった。
ユリウスは椅子の背にもたれたまま、しばらく俺を見ていた。
穏やかな顔のままだが、その視線は軽くない。
「今の話をまとめると」
彼は静かに言う。
「君は“何が起きているか”を断定しているわけではない。だが、“どこを見れば切り分けられるか”は見えている、ということだね」
「はい」
「それで十分だ」
その一言が、思ったより深く響いた。
筆頭執事が口を開く。
「閣下、資料なら集められます。原報告の控えも、急がせれば取り寄せ可能かと」
「頼めるか」
「かしこまりました」
ユリウスは俺へ向き直った。
「では、こちらで追加資料を集めよう。現地への確認も、まずは人を出す」
「お願いします」
「リオン君はいつも通り王立学院の入試準備を続けてくれればいい」
それはたしかにそうだ。
俺が今ここで何日も王都を離れるのは現実的じゃない。
でも、帳簿だけでもここまで絞れたのは大きい。
俺は一礼した。
「それじゃあ、失礼します」
「ありがとう。助かったよ」
その柔らかい言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
執務室を出て扉が閉まる。
廊下に出たところで、小さく息を吐いた。
答えを出したわけじゃない。
でも、見えない綻びの輪郭には触れられた。
これもたぶん、王都へ来て学んでいる意味の一つなんだろう。
◇
扉の向こうで、しばらく沈黙があった。
最初に口を開いたのは、筆頭執事だった。
「……閣下」
「何だい」
「驚きました」
ユリウスは机の上の帳簿に目を落としたまま、穏やかに返す。
「私もだよ」
「答えを急がず、先に仮説を置き、その仮説ごとに必要な資料を切り分ける。しかも数字だけではなく、道の轍や袋の縫い目のような現場の痕跡まで視野に入れておられる」
筆頭執事はそこで少しだけ言葉を選んだ。
「十二歳という年齢で考えるのが、馬鹿らしくなるほどです」
ユリウスはそこで初めて、わずかに口元を緩めた。
「そうだね」
「帳簿を読む力もさることながら、見えていない部分を“見えていないまま”放置しない。あの方は、筋道の立て方が恐ろしいほど正確です」
「恐ろしい、か」
「ええ。ですが、同時に稀有です」
ユリウスは窓の外へ視線をやった。
秋の光が庭へ落ちている。
「近くで見ていられるのは幸運だと思わないといけないね」
筆頭執事が静かに頭を下げる。
「まったくです」
ユリウスは柔らかい声のまま、けれどはっきりと言った。
「本当に面白い子だ」
その言葉は、評価というより、確信に近かった。




