第33話 積み上げる日々
王都のヴァレスト公爵家での暮らしは、思っていたよりずっと忙しかった。
朝は早い。
まだ空が白みきる前に起きて、まずは庭を走る。
最初の頃は、王都の冷たい朝気と石畳の硬さに身体がついていかなかった。
ハル領では土の上を歩くことは多くても、こうして毎日きっちり身体を鍛える習慣はなかったからだ。
だが、三日もすると足の運びが変わった。
一週間もすると息の上がり方が変わった。
十日もすると、自分でもはっきりわかるくらい身体が軽くなった。
「今日は昨日より遅いわね」
並んで走るセレナが、涼しい顔でそう言う。
「そっちは余裕そうだね」
「悔しかったのよ」
「何が?」
「学科であなたにあっさり追い抜かれたこと」
そう言って前を向く彼女の横顔は、本気だった。
セレナは元から優秀だった。
学科も魔法も、王都の公爵家の娘にふさわしいだけのものを持っている。
でも、その彼女がさらに伸びていた。
朝の走りでも手を抜かない。
座学でも答えを暗記するだけで終わらない。
魔法訓練では、自分の火や水の形を昨日より少しでもよくしようとする。
負けたくないのだろう。
そして、そう思わせる相手が近くにいることを、たぶん彼女自身も悪く思っていない。
俺も同じだった。
朝の鍛錬を終え、朝食を取る。
その後は書庫でグレインの座学。
アルスレイン王国の歴史、王都の制度、貴族の家格、税制、街道と物流、他領との通商、魔物災害時の動き方。
どれも、今の俺には面白かった。
領地で現場を見てきたからこそ、王都の理屈がどう現実と繋がるのかがわかる。
逆に、王都の理屈を知ることで、今までハル領で引っかかっていたことの意味も見えてくる。
「なぜ地方小領地は、大貴族の商流に組み込まれやすいかわかりますか」
グレインがそう問えば、俺は少し考えてから答える。
「道と信用を自前で持ちにくいからです」
「その通りです」
セレナもすぐに続ける。
「だから大貴族は、金や兵だけではなく、流れそのものを握るのですね」
「よろしい」
こんなふうに、授業は問答で進む。
答えを出せば終わりではなく、その答えがどこまで現実に耐えるかをグレインは必ず見てくる。
厳しい。
だが、面白い。
昼前になると、今度は庭で魔法訓練だ。
最初の一週間は、ほとんど火種だけだった。
しかも普通の詠唱型ではなく、俺だけは例の“火を出すのではなく、火をつける”やり方で。
火花。
着火。
一点。
最初は米粒ほど。
二呼吸で消えていた火が、五呼吸持つようになった。
その次は、指先の先だけでなく、ほんの少しだけ掌の近くでも熱を感じ取れるようになった。
グレインはそれを見て、表情こそ変えないが、記録の文字量が日ごとに増えていった。
「本日、火種維持七呼吸」
「昨日より一つ伸びましたね」
ミアが帳面をのぞきながら言う。
「うん。でもまだ全然足りない」
「それでも、最初は二呼吸だったんですよ?」
「そう聞くと少しは前に進んでる気がする」
ミアは嬉しそうに笑う。
彼女もまた、ここへ来てからよく働いていた。
公爵家の使用人に交じって動くのは緊張しただろうに、荷物の整理、記録の補助、復習の手伝いまでやっている。
最初はただついてくるだけだったのに、今では「リオン様、昨日の分はもう一度見ておいた方が良いと思います」と言えるようになっていた。
人は、やっぱり環境で変わる。
それはセレナも、ミアも、そして俺自身も同じだった。
昼食をはさみ、午後も座学や面接対策、王都の礼儀作法の確認が続く。
夕方にはセレナが魔法の復習をし、俺はその横で火種の自主練をする。
セレナの水魔法は、一か月前より明らかに精度が上がっていた。
細い水の線をぶらさずに的へ当て、火の灯りも以前より長く安定している。
「あなたのせいよ」
ある日、彼女は水滴を器へ落としながら言った。
「俺の?」
「ええ。隣で毎日あれだけ伸びられたら、こっちだってやるしかないでしょう」
「それはお互い様だと思うけど」
「……そうかもしれないわね」
そう言って、彼女は少しだけ笑った。
◇
そんな日々が、一か月続いた。
不思議なものだ。
最初は公爵家の広すぎる廊下にも落ち着かなかったのに、今ではどの時間にどこへ行けば誰と会うかまでだいたいわかる。
朝の鍛錬。
朝食。
座学。
魔法訓練。
昼食。
面接や礼式。
夕方の自主練。
単調といえば単調だ。
でも、無駄な日は一日もなかった。
昨日より少し走れる。
昨日より少し覚えている。
昨日より少し火が長く持つ。
そういう小さな前進が毎日ある。
自分を成長させたいという気持ち。
そして、それを現実にできるだけの環境。
前世では、こんなふうに何かに集中して、ただ自分を伸ばすためだけに時間を使うことはほとんどなかった。
気づけば会社のこと、売上のこと、人間関係のこと、全部がごちゃついていた。
でも今は違う。
公爵家が場を与えてくれている。
グレインが容赦なく教えてくれる。
セレナが横で伸びる。
ミアが支えてくれる。
そして何より、父と母が快く送り出してくれた。
ハル領に残してきた家族が、今の流れは自分たちが守ると言ってくれたから、俺はこうして王都で学べている。
そのことを思うたびに、甘えるわけにはいかないと思った。
やるなら、徹底的に吸収する。
ここに来た意味を、全部持って帰る。
◇
一か月が過ぎたある日の昼だった。
昼食を終え、午後の面接対策に入る前に、使用人が静かに頭を下げた。
「リオン様。ユリウス公爵閣下がお呼びです」
珍しい。
食後すぐに呼ばれることはあまりない。
「わかりました」
セレナも少しだけ不思議そうな顔をしたが、特に何も言わなかった。
ユリウスの執務室を訪ねると、彼は机に何枚かの紙を広げたまま待っていた。
いつものように、余計な前置きはない。
「座ってくれるか?」
「はい」
向かいに座ると、机の上の紙が目に入る。
地図。
帳面。
報告書。
どれも公爵家の領地に関するものらしい。
「最近の調子はどうだい?」
「ええ、忙しいですけど、充実してます」
「そうか」
それだけ確認して、ユリウスは本題へ入った。
「私が代官に任せている公爵領で、少し厄介なことが起きている」
代官。
つまり、公爵家のすべてをユリウス自身が直接見ているわけではない、ということだ。
そこは少し意外だったが、考えてみれば当たり前かもしれない。
ハル領のような小領地なら領主が全部の現場を見に行くこともできる。
だが公爵領は広い。王都から離れた場所まで、いちいち本人が駆けつけるわけにはいかないのだろう。
ユリウスは地図の一点を指で叩いた。
「ここだ。西側の代官領。規模はハル領より大きいが、近ごろ税収と物資の流れが噛み合っていない」
その言い方に、少しだけ胸の奥が反応した。
「噛み合っていない?」
「帳面上は問題ない。だが、現場から上がってくる報告と数字に微妙なずれがある」
その“微妙”が一番面倒なのは、もう知っている。
「不作ですか」
「それにしては倉の減り方が妙だ。盗難にしては静かすぎる。代官の怠慢なら、もう少し粗く崩れる」
なるほど。
どれとも言い切れない。だから厄介なのか。
ユリウスは俺をまっすぐ見た。
「リオン君なら何か見えるかもしれない」
その言葉は、期待半分、試し半分だった。
俺は机の上の報告書に視線を落とす。
王都での一か月は無駄じゃなかった。
だが、結局こういう話になると胸が少し高鳴る自分もいる。
現場の匂いがするからだ。
「見ていいんですか」
「呼んだのはそのためだ」
ユリウスの声は変わらない。
でも、その目の奥には確かにこちらを測る光があった。
俺は小さく息を吐く。
積み上げる日々は、たぶんここで終わらない。
むしろ、ここから試される。
「わかりました」
そう答えた時、胸の奥で何かが静かに噛み合う感じがした。
王都で学び、鍛え、積み上げてきた一か月。
その意味を問うように、新しい綻びが向こうから近づいてきていた。




