第337話 進級の春
春の光が、寮の窓から差し込んでいた。
冬の冷たさはもう薄れ、学院の庭にも若い葉の色が戻り始めている。
リオンは机の前に座り、しばらく白い紙を見つめていた。
三学期の終わりは、思っていた以上に慌ただしかった。
授業。
課題。
実技。
試験。
飛び級の手続き。
気づけば、ミアへの手紙も遅れてしまっていた。
リオンは羽根ペンを取り、ゆっくりと書き始めた。
『ミアへ。
元気にしていますか。
手紙が少し遅くなってごめん。
こちらは三学期の終わりで、授業も課題も試験も重なって、思っていた以上に慌ただしく過ごしていました。
前に少し書いた飛び級のことだけど、無事に条件を満たすことができました。
春から、俺たちは五年Sクラスに進みます。
俺だけではなく、ミラ、ヴィクトル、セレナ、エドガー、ガイル、ナディア、クラウスも一緒です。
全員で進めることになって、正直ほっとしています。
もちろん、簡単だったわけではありません。
ミラとは何度も一緒に勉強しましたし、ガイルはナディアに助けられながら筆記に向き合っていました。
ヴィクトルは実技で苦労していて、ガイルとクラウスに何度も付き合ってもらっていました。
それぞれ得意なことも苦手なことも違うのだと、改めて感じました。
俺は研究コースへ進みます。
ハル領に足りないものを見つけて、それを使える形にする力を学びたいと思ったからです。
暗い場所を照らすこと。
使いにくい道具を直すこと。
分かりにくい記録を残しやすくすること。
そういう小さなことを、一つずつ形にできるようになりたいです。
ミアのいる場所では、最近困っていることはありませんか。
不便なことでも、少し気になることでも構いません。
もし何かあれば、次の手紙で教えてください。
俺が学院で学ぶことは、たぶんそういう小さな声から始まるのだと思います。
春になって、学院の庭も少し明るくなりました。
新しい教室へ行くのは少し緊張しますが、楽しみでもあります。
ミアも体に気をつけて。
また手紙を書きます。
リオン』
そこまで書いて、リオンは一度手を止めた。
手紙に書いた言葉は、どれも本当だった。
だが、三学期の日々は、手紙に書いたよりもずっと慌ただしかった。
王立学院で飛び級を認められるには、一学期から三学期までの定期テストで、筆記、応用問題、実技のすべてにおいて八十点以上を取り続ける必要がある。
一度だけ良い成績を取ればいいわけではない。
一年間を通して、上の学年へ進むだけの力があると示さなければならなかった。
その条件を越えるために、皆がそれぞれの苦手と向き合った。
ミラは、見たものを感じ取るのが早い。
青輝石の光を見た時も、まぶしい、見やすい、遠くが見えないと、使う人の感覚を自然に拾っていた。
けれど、筆記になると、時々考えすぎる。
「リオン、この問題って、条件が一つ変わったら答えも変わるよね?」
「変わる時もある。でも、この問題で聞かれているのはそこじゃないよ」
「そこを見分けるのが難しいのよ」
ミラは納得するまで答えに手を伸ばさなかった。
その分、理解した後は早い。
リオンも教えながら、何度も考え直すことになった。
ガイルは実技では心配がなかった。
剣を持てば、体が先に動く。
だが、筆記の前になると露骨に顔が曇った。
「文字より剣の方が分かる」
「ガイルさん、まず大事な言葉だけ覚えましょう」
「全部大事に見えるんだが」
「全部を同じ強さで覚えようとするから苦しくなるんです」
ナディアはそう言って、要点を丁寧にまとめていた。
ガイルは何度も文句を言ったが、最後まで逃げなかった。
ナディアの説明には、不思議と人を机に向かわせる柔らかさがあった。
ヴィクトルは筆記と応用問題では崩れなかった。
商会の仕事で数字や条件を扱っているせいか、整理する力は強い。
だが、実技は違った。
「もう一回だ、ヴィクトル!」
「お前は何でも回数で解決しようとしすぎだ」
「回数で解決することもある」
「否定しきれないのが腹立たしいな」
ガイルが勢いで引っ張り、クラウスが静かに直す。
「足の位置がずれている。そこが崩れるから次が遅れる」
「……商会の帳面より、体の方が言うことを聞かないな」
実技の後、ヴィクトルが珍しく肩で息をしていたのを、リオンはよく覚えている。
エドガーは派手ではなかった。
だが、崩れない。
毎日少しずつ積み上げ、分からないところをそのままにしなかった。
セレナは自分に厳しかった。
周りから見れば十分できていても、本人が納得しなければ何度でもやり直した。
ナディアは時々不安そうな顔をしていたが、毎日の積み重ねを止めなかった。
クラウスはいつも通り落ち着いていた。
ただ、見ていれば分かる。
誰よりも手を抜いていなかった。
そして三学期の期末テストが終わった。
筆記。
応用問題。
実技。
どれも楽ではなかった。
結果が出た日、ガイルは真っ先に自分の点を確認し、それからナディアの方を見た。
「越えた」
短くそう言うと、ナディアはほっとしたように微笑んだ。
「よかったです」
ミラは自分の結果を見た後、少しだけ息を止め、それからリオンを見た。
「越えてた」
「うん」
「よかった……」
ヴィクトルは無言で結果を見ていた。
しばらくして、ゆっくり肩の力を抜く。
「何とか、だな」
ガイルが笑う。
「俺とクラウスに感謝しろよ」
「それは認める」
「素直だな」
「疲れているからな」
そんなやり取りを聞きながら、リオンも自分の結果を確認した。
条件は満たしていた。
リオン、ミラ、ヴィクトル。
セレナ、エドガー、ガイル、ナディア、クラウス。
八人全員が、飛び級条件を越えた。
その後、飛び級希望者は学院長との面談を受けた。
面談は、落とすためのものではない。
本当に飛び級する意思があるのか。
上の学年へ進み、何を学ぶつもりなのか。
それを確かめる場だった。
リオンが学院長室に入ると、学院長はいつものように静かに迎えた。
「研究コースへ進むのだな」
「はい」
「そこで、何を学ぶ?」
リオンは少しだけ考えた。
けれど、答えはもう決まっていた。
「足りないものを、使える形にする力を学びたいです」
学院長はすぐには何も言わなかった。
ただ、リオンの言葉を確かめるように、しばらく見ていた。
「研究とは、珍しいものを見つけるだけではない」
学院長は静かに言った。
「人が使える形に整えることも、研究の大切な役目だ」
リオンは深く頷いた。
「はい」
「その意味を忘れないように」
「分かりました」
面談を終えた後、八人はベルンハルト先生にも呼び止められた。
先生は、いつものように背筋を伸ばして立っていた。
その目は厳しい。
けれど、突き放すようなものではなかった。
「全員見事に条件は満たしたな」
ベルンハルト先生は言った。
「だが、五年Sクラスに上がるということは、ただ先へ進むという意味ではない」
ガイルが真面目な顔になる。
ミラも黙って聞いていた。
「上の学年に入れば、その分だけ求められるものも増える。授業も、実技も、周囲の目も変わる」
リオンは、先生の言葉を一つずつ受け止めた。
「早く進む者は、早く責任を持つことになる。それを忘れるな」
「はい」
誰からともなく返事が重なった。
ベルンハルト先生は、八人を順に見た。
そして最後に、少しだけ声を和らげた。
「それでも、お前たちならやれると思っている」
その言葉は、手紙には短くしか書けなかった。
けれど、リオンの胸には残っている。
リオンは手紙を丁寧に折り、封をした。
ミアが読んだ時、少しでも安心してくれればいい。
そして、もし本当に困っていることや不便なことを書いてくれたなら、それはリオンにとって大事な学びになる。
机の上を整え、リオンは立ち上がった。
今日は、五年Sクラスとして初めて教室へ向かう日だった。
寮を出ると、ミラが待っていた。
「手紙、書けた?」
「うん。少し遅くなったけど」
「ミアさんも喜ぶと思うよ」
「そうだといいな」
リオンが答えると、ミラはにこりと笑った。
廊下の先から、ガイルの声が聞こえてくる。
「五年Sクラスって、教室どっちだった?」
「昨日確認しただろう」
クラウスの声が返る。
「確認したけど、忘れた」
「なら、もう一度確認しろ」
ガイルとクラウスが並んで歩いてくる。
その後ろに、エドガー、セレナ、ナディア、ヴィクトルの姿もあった。
「朝から騒がしいわね」
セレナが呆れたように言う。
「元気があるのは良いことです」
ナディアは柔らかく笑った。
「限度はあるだろう」
ヴィクトルが言うと、ガイルが振り向いた。
「お前、実技で疲れた顔してたくせに」
「今その話をする必要はない」
「あるだろ。五年Sクラスでも鍛えてやる」
「遠慮したい」
「遠慮するな」
ミラが楽しそうに笑う。
「みんな、進級した感じがしないね」
「それは良いことなのか?」
エドガーが首を傾げる。
「たぶん、いいこと」
ミラはそう答えた。
リオンは、そんな皆を見ながら歩き出した。
五年Sクラスの教室の前に着くと、ガイルが扉を見上げた。
「ここから五年Sクラスか」
セレナが横目で見る。
「今さら怖気づいたの?」
「まさか。楽しみなだけだ」
ヴィクトルが小さく息を吐く。
「退屈はしなさそうだな」
ミラが笑った。
「それ、最近よく言うね」
「事実だからな」
リオンは扉の前で一度だけ息を吸った。
研究コースへ進む。
飛び級して、上の学年へ入る。
何が待っているのかは、まだ分からない。
けれど、進む先はもう選んだ。
リオンは扉へ手をかけた。
春。
新しい学年が始まる。
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